第3話 約束

 「今日は何がおすすめ?」

 「熊本から新鮮な夏みかんが届いてまして……」

 「じゃあそれをジンで。ソラは?」

 「……同じモノを」


 ヒヨリに連れて来て貰ったのはお得意様だというバーだった。新宿から程近い場所にあったけれど、隠れ家的な居心地は悪く無かった。


 「お待たせしました」


 程なくして二人分のカクテルが届く。鮮やかに光るオレンジを見ると洋画の世界に浸かっているかのようで、現実に居る実感が湧かない。


 「美味しいでしょ」

 「……美味しい」

 「呑みすぎちゃダメだよ、明日のことあるんだから」

 「最初からそのつもりはない……」


 胸元に忍ばせていたアイコスに火を付ける。ヒヨリは少しだけ怪訝そうな顔を浮かべたけれど、すぐに納得してくれた。


 「パパ、呑み過ぎだよね」

 「全く。調子乗りすぎ」


 フゥと漏らす煙が、どこか悲しげに揺れている。「酒はてんで苦手だから」とか言ってみるけれど、だったらこのカクテルにも手を付けていないのかな……ふと気付いて「ごめん、嘘」って謝ってしまう。


 「安い酒しか呑んできてないからな」

 「舌、バカになっちゃうね」

 「ヒヨリとはちげーんだよ、生きてる境遇とか」


 “いいお兄ちゃん”像を精一杯用意して来たのに、この薄暗い雰囲気とコントラストに光るカクテルの色のせいで、ついつい溢れてしまう本音。


 「お酒くらい拘ると思ってたのに」

 「タバコは拘った、かな」

 「早死にして欲しくないなあ」

 「酒もタバコも一緒、今を誤魔化せれば十分」


 寿命を払って幸福を買う。どうせ僕らは死ぬ運命にあるんだから1年も2年もどうでもいいし、それより今をどうにかして幸せなものにしないと僕は潰れてしまう。


 それなのにヒヨリは適当な感想で、「ふーん」って呆れながらカクテルに口をつける。だから生きてる世界が違うんだ。そもそもお酒なんかなくたって、ヒヨリは人生に満足してそうなのにな。


 「あ〜、ダメだ」

 「何が?」

 「何でわざわざ僕を呼び出したんだろうな、って」


 惨めな兄貴に今まで見向きもしなかった癖に、こういう時だけ“いい妹”面して僕に情けをかけようって思ったか? それは兄貴として感心できない。


 「全然話せてなかったじゃん。ソラと」

 「今更かよ。話すことなんて無くないか?」

 「あるよ」


 真剣な表情を浮かべた。今までの声のトーンとは違ったから、思わず手にしようとしたアイコスを仕舞って暗い空間を見渡す。


 「ああ、結婚おめでとう」

 「それはいいよ、明日言ってくれるでしょ?」


 分かっていたのかよ、肩をすくめて悲しい気持ちに襲われる。わざわざ畏まって言い直した自分が恥ずかしいし情けない。


 「まさかだけど、写真売ったこととか?」

 「何の?」

 「何の……ああ!!」


 高校時代の忌々しい経験なんかとっくのとうにバレていると思っていた。でも、ヒヨリは気付いていない素振りを見せている。もしかして墓穴を掘ってしまったか?


 「何でもない!忘れてくれ!」

 「いいけど……そんなにして当てたい?」


 これ以上突き詰められることがなく、胸を撫で下ろす。


 「もう無理だなあ」

 「無理だよね、多分」


 突き詰めない理由は、滅多に見ることのないヒヨリの顔色から分かった。からかう素振りはないし、余裕がない。

 覚悟を決めたか。ヒヨリは最後の一滴を飲み干して言葉を繋げた。


 「約束、破っちゃったこと」

 「何の?」


 約束、そう言われて咄嗟に思い浮かべたモノは無い。東京に行ってしまった時、何かの約束を交わした記憶もないし。


 「私言ったでしょ?」

 「いや、だから何を?」


 トボけているとでも勘違いしたのか、ヒヨリは意地になって口元を歪ませた。



 「“お兄ちゃんと、結婚する”って!!」



 「…………え?」


 ◇


 言われてすぐ、周りの視線が気になってなだめるのに必死になった。


 「馬鹿、あんな大きな声で言うなよ」

 「ごめん、こんなに声出るって思わなかった……」


 不恰好なヒヨリの姿とか、もう二度と見れないんじゃ無いかと思っていた。微かな少年少女の頃の記憶が現れて、気味悪い征服感みたいなモノも一緒に味がしてくる。


 「最初からあんな約束無理に決まってんじゃん。血繋がっちゃってるし」

 「約束は、約束だから!」

 「ふーん……義理堅いんだな、思ったより」

 「じゃあ、覚えてるってこと?」

 「忘れてはいない」


 僕の口元もかすかに歪んでいることに気付く。もっと汚い感情で。バレたらどうなることか怖くなって、タバコの味で誤魔化してみる。


 「そんな事で呼び出したの?」

 「それだけじゃないよ」


 淡い記憶の話だけでは終わりそうになかった。このバーと言われる空間は、実に人を丸裸にするものだと怖い思いさえする。


 「多分明日じゃ言えないから、今のうちに色々」

 「色々か、例えば?」

 「感謝の想いとか、そんな感じの」


 俯き加減でヒヨリが囁く。酔いが随分と回っているのか、果たして。


 「感謝か。僕は何もしてないけど」

 「それ」

 「うん?“何もしてない”こと?」


 何気ない言葉だったつもりだが、まさか図星だったらしい。


 「好き勝手、させてくれたじゃん」

 「ヒヨリはヒヨリで生きていけそうな雰囲気出してたから」


 僻みというか無関心に近かった。世界の棲み分けとはそういうこと。


 「え?そう見えた?」

 「トボけんなよ。あんだけ友達とカラオケ行って、彼氏と朝帰りなんかして……立派な大人だろ、あの頃から十分にさ」


 モテた分随分と破天荒な私生活だったのは、十分に兄として分かっているつもりだ。


 「でも、責めたりしなかった」

 「どうでも――いや、自分で反省するのかなって」


 本心を言いかけてマズイと気付いたから慌てて言葉を呑み込んだ。誤魔化しの意味も兼ねてつまらない言い訳をしてみる。


 「本当にそうなんだよね」

 「あれ?」

 「色々言われてたら多分治んなかった。自分で気付けたから、私は私で反省しなきゃな〜、って」

 「…………。」


 ほろ苦い想いがしんみりと喉に伝わってくる。うまい言葉を返すことが出来ない。


 これほど僕に弱みを見せたことがあっただろうか。思い返してみて、一番古い記憶は幼い頃の話だった。あの頃からヒヨリが変わっていないのなら?


 「そうだ。普段からソラって鈍臭かったじゃん。で、叱られてるの見て私も気を付けなきゃなって。生きる上での処世術だっけ?」

 「やだなあ。反面教師かよ」

 「ママ怒ると怖かったからね〜」

 「怒られて来た身にもなって」


 愚鈍な先例が居てくれたお陰で努力する方向性が定まったらしい。今更僕が愚鈍だってことは事実だから否定はしないし、ヒヨリがそれで立派になってくれたなら……。


 「だから時々、申し訳なくなるんだよね」

 「申し訳ない?」

 「私ばっかりいい思いしてきちゃって」


 ヒヨリに罪悪感が芽生えるのは納得出来る。だから聞きたくはなかった。惨めな人間を見て申し訳なさを感じられるのは、自分を惨めだと感じる人にとって溜まったモノじゃない。


 「だって私が慶央行けたのって、ソラが」

 「今更そんなの気にすんな、僕が馬鹿だっただけ」

 「浪人だって出来たんじゃ」

 「何年頑張ろうが、結果とか変わんないって」


 家族が割けるリソースを出来のいいヒヨリに集中させるのは、至極まともな選択。僕はせいぜい人並みになることが出来たら十分。大学に行くのはとっくのとうに諦めていたし、早いうちに就職するのが最善択だった。


 「その分だけ、頑張らなきゃなって」

 「よく一発で受かったな」

 「チャンスを無駄にするなんて、そんなの出来ないから……」


 頬を真っ赤に染めて呟くや否や、「同じのお願いします」とバーテンダーを呼びつける。その余裕のない素振りからヒヨリの本心が漏れているのだと分かった。


 僕もまた酔いが回り出して、人を疑う頭が残っていないからそう思うのだろうか。完全無欠な妹の人間像が剥がれ落ちていく。天賦の才で成り上がって来たと思っていたけれど、努力を陰でして来たのだと……。


 抱え続けていた僻み妬みが、気が付けば融けていくような感覚がした。


 「僕は踏み台みたいなものか」

 「そういう言い方――えへへ、そうなのかもね」


 ついつい溢れてしまった僻みは、否定されなかったことで優しく守られた。


 「……いい意味で言ってくれてるよな?」


 ただ、僕を道具として思っているなら悲しくなる。ヒヨリのことだからそんなハズはないけれど。


 「もちろん、感謝してるよ」

 「ならよし」


 また僕の口元が歪んでいくが、今度は気味悪い感情で訪れたものではない。幼い頃に感じた征服感とはまた色の違う、ある意味で対等な立場に居るような気分だった。


 ヒヨリのためになれた、それなら僕は十分に、兄としての役割を果たせたのだと……。


 ◇


 言葉を交わすのは10年ぶりだったけれど、抱えて来た鬱憤とか嫉妬とか、汚い感情は幾分か和らいだような気がした。


 きっと酔いが覚めた頃には、また僕は密かにそういった類の気持ちを抱え込むのだろう。でもこの夜は不思議と、ヒヨリと同じ世界に居るような気がした。


 何と言うか、暖かった。


 僕がヒヨリを受け入れようとするには、随分とチョロすぎたんじゃないか?


 帰り際のタクシーで首都高を見上げながら後悔する。それまでの想いからすれば、尚更僕はヒヨリを嫌いになっても良かったんじゃないか?って。所々鼻につくようなことは言っていたし。


 だけど言葉を交わしていくと一緒に、偏見に塗れて根拠を失っていた世界観が、物音を立てて崩れ始めていった。ヒヨリを陽の当たる人としてディスっても良かったのに。やっぱり、ヒヨリは妹なのだからだろうか。


 腐っても血を分かち合った兄妹だから、受け入れたいと思ったのだろうかーー。


 「んかぁ……」


 代々木の辺りで、肩に感じる甘い匂い。


 「馬鹿だなあ」


 ヒヨリを酔わせるのには2杯で十分だったらしい。明日は大事な挙式なのに、こんなにだらしない姿でホテルに帰ってくるのか……。


 こんな姿を“お相手さん”も見て来たのだろうか。普段の綺麗な姿とのギャップでやられたのだろうか。つまらない考えが過ぎって、馬鹿だなとか笑いながらネオンサインを見渡す。


 「ほら、着くぞ」

 「ん〜〜……んえ?」


 寝惚けた顔を覗かせた。それだけのことだった。

 また微かに甘い匂いがして、トロンとした瞳と唇の紅が心象に強く訴えかけてくる。


 「…………。」


 ヒヨリは綺麗になった。だけど、まだ僕にとっての妹で、あどけない面影が残っていて。


 何とかして起こそうと、揺するために肩に手をかけたーーそうしたら、いつしか感じたことの無かった、ドキンと胸を刺す痛みが訪れて……。


 「――っ」


 唇を噛み殺す。そんなことをしたら僕はダメになるじゃないか。


 明日妹は、大切な人とーー。



 「……馬鹿、起きろよ」

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