白鳥人(はくちょうびと)の住むところ
季暁
第1話
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東側に海を臨み、西は高い山々が数百キロメートルに渡り幾重にも連なり、南北にある両隣の町までは、山一つで遮られている。山一つと言っても、人間の足で越えるとなると3日以上掛かり、おまけに山中ではイノシシや熊に出くわす危険付きだ。何も無いと解っているこの場所に来る人はいない。
この場所への入り口は大きな湾だけだ。
沖には、お椀のように丸く盛り上った大きな島が9つある。湾に近い方から、2つ、3つ、4つと末広がりのように鎮座している。島々はお互いに離れていて、視界からは上手い具合に重なり合うこと無く配置されているので、遠くからはそこに湾があるとは解らなかった。それでもこの島々のお陰で、大きな波は打ち消され、岩場も少ない湾内は波も穏やかで、小さい船なら砂浜に突っ込むだけで船を停泊させる事が出来た。
ほんの一部の漁師しかその場所を知らないが、その場所を知っていたとしても、島と島の間は潮の流れが激しいところもあって、普段は近づく漁師もいなかった。
希に隣町の漁師達が小さな船でここの沖に出てしまってから、海が荒れて港に帰ることが出来なくなった時に、やっとの思いで一時的に避難することが出来る場所でしか無かった。
そのうち潮目を見ることの出来る腕の良い船頭が何人か現れたが、好き好んで来る場所では無かったし、海からしか来られないこの土地に、人々が住み着くことも無かった。
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時代が変わって、今は人口も7万人を超える比較的発展した市となった美山市。技術も発展し、20年前には南北の山にはトンネルが掘られ、両隣の町と繋がることが出来た。
港は大きくなり、北側に多くの漁船が停泊出来、南側には美しい島々を巡りながら、目的の美山市観光をするための大きな遊覧船が停泊するようになった。
美山市は名前の通り美しい街だ。しっかり区画された市街地は、建物全てが洋風の作りになっていて、家々の形・壁や屋根の色は選べる種類が決まっている。
どんな商売の看板も奇抜な形や色は禁止されているので、何処を歩いていても優しく落ち着いた感じだ。
開拓者である『白鳥人』達にそんな街作りが出来たのは、外国の街を見知っていたこともあるが、当時、自分達は寒さに強く冬も平気だが、妻や子供の健康を考えると『この国の建物は冬を過ごすには寒すぎる』と心配したからだ。それに環境も良かった。ここには山々の間伐材や倒木がふんだんにあったから、それを薪にして安く提供出来たお陰で冬を暖かく暮らせるようになった。
勿論、今と昔では建物の建築技術には雲泥の差があって比べられないが、見た目は昔からの建物とそれ程変わらないようにしている。
そんな美しい街並みを散策することも観光の目的となっているが、
美山市観光の一番の目的は、西側の山の麓に広がる美しい湿地帯だ。
山々からの伏流水が豊富に湧き出ていて、この市の飲み水もこの伏流水を数カ所から汲み上げて各家庭に引いている。夏でも冷たく、ミネラル分が多く含まれていてとても美味しいと評判だ。お陰で水道料金も他の市町村より安いのだという。
この伏流水が湧き出る場所が30カ所以上あり、それが大小の池を作っていた。その中心には、昔は池だった場所が幾つか合流して作られたであろう大きな湖がある。
広々とした湿地帯になっているこの場所には、湖や大きな池の周りまで遊歩道が設置されているが、遊歩道を使わず無理に湿地帯に入れば、場所によっては足を取られ抜け出せなくなる危険な場所がある。
だが、危険を冒してでも近くまで行ってみたくなるほど、景観が美しい場所が何カ所もあった。
そんな綺麗な水が湧き出る場所が鈴なりに沢山あることから、この一帯を「
池には、春に梅花藻が咲いて、湿原には群生した白い水芭蕉や紫色のアヤメ、同じように白や青紫の大輪
市街地では花の色も豊富なのだが、澄鈴帯では花の色が白と青系なのがここの植物の特徴だ。理由は分かっていない。
三方を山に囲まれているが、澄鈴帯から降りてくると、その裾野では農業が盛んだ。
湖と、たくさんの池などから溢れた水が流れて川を作り、低いところで又池を作りながら2本の大きな川を作っていた。豊富な水を湛えるその川から用水路を引いて昔から田んぼが作られ、この一帯が米所になった。
農家達は、この豊かな水を田んぼだけでなく畑にも利用できたことと『美山 藍』のお陰で農薬を使わず良い作物が獲れた事に喜びを感じ、美山市民は安くて美味しい作物を得られることを、農家とこの土地に感謝していた。
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そして冬。
西の山々から冷たい風が降りてきて、一緒に雪を運んでくる。
11月になる頃、湖には千羽を超える白鳥などの渡り鳥が飛来する。多くの池にも数十羽ずつの群れが羽を休めに来る。ここは湧き水なので、湖や池の水も凍ることが無い。
透き通った美しい水の中には藻が沢山生えるので、白鳥などの渡り鳥はこの凍らない水中の藻や、湧き水によって溶けた雪の中から、稲を刈り取った後の茎や根、落ち穂などを食べている。毎年同じ群れの白鳥がやって来ると市の広報が紹介していた。
市民にとってもここは四季に関係なく訪れる憩いの場所でもあった。
トンネルで繋がったことから噂でしか聞いたことのない、澄鈴湿原を見たい。美山市内を散策し美味しい作物を買いたいし食べたいと、美山市みやましを訪れる観光客がひっきりなしに押し寄せている。
観光客のお目当ては、それだけでは無い。
ここ美山市民が美男美女揃いなのだ。背が高く、目鼻立ちがはっきりしていて、外国人の血が混じっているような姿だった。
「間違いなく、昔は外国人の流刑地だったろう」と豪語する観光客もいたが、どうにかしてここの若者と知り合いになりたい。そして彼氏か彼女になりたいと思って来ている若者達が沢山いた。
細雪が降る中、そんな外国人の遺伝を間違いなく受け継いだであろう、そんな容姿の宮永
紗雪は、二重の形の良い目に鼻筋が通って、ぽってりした唇が魅力的な娘だ。
最高気温2度という日の今日、薄茶色の長い髪に赤い毛糸の帽子を被り、マフラーも巻き、その上から又ダウンコートの帽子を被せ、寒さ対策を万全にしながら遊歩道を歩いている。
「ねえ、紗雪はどうしてもここに残るの?成績だって良くて、先生も大学への進学を薦めていたでしょ?」
「う・ん・・・。でもね、あまり進学に興味が無いんだよね。・・・私はここが大好きだし、いつも澄鈴帯に来たいから良いの。就職も決まったしね・・・。優奈は憧れの都会に行けるんだから良かったね。あっ、でも休みの時はたまに帰って来てよ。会いたいからさ」
「そんなの当たり前じゃん。メールもするから。きちんと返事してよね。彼氏が出来たら真っ先に紗雪に教えるからさ。ウフフフ」
そんな高校生ならではの会話をしながらも、二人は白鳥達を見続けた。
物心が付いた頃から母の律子に連れられて、ここ澄鈴帯に来ていた紗雪は、中学生になってからは一人でここに来るようになった。
特に白鳥が飛来するこの時期は、嬉しすぎて外気を忘れるほど心がほかほかと暖かくなるのだ。
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この町には伝説がある。
それは市が配っている絵本で、幼い頃から読み聞かされる「美山市の成り立ち」を紹介するお話だ。
それはもう数百年も昔の話。ここに越冬して来ていた白鳥の群れが澄鈴湿原とこの土地を気に入り、人間となって住み着いた。その『白鳥人はくちょうびと』達がここに住んでいた美しい女性達と結婚して幸せに暮らした。何もなかったこの町が発展して来たのも、その『白鳥人』達の努力のお陰だ。という伝説だ。
でも、本当の話はちょっと違う。
むかし むかし
春になり暖かい日が続くと、誰も住んでいない何も無かったこの土地に、南隣の町の裕福な男達が、それぞれ自分の奥さんや恋人とは違う女性を、船に乗せて連れて来るようになった。
夏になった頃、羽振りの良さそうな男が大工を何人も連れて来た。そして一月程掛けて小さな建物を4棟建てさせた。
粗末な、家と呼べないような薄い板で出来た小屋だ。屋根には、板が飛ばされないように大きな石が幾つか置いてあった。
その小屋には、鍋や釜に包丁、僅かな着替え、そして夜具などの、普段生活するには困らない物が用意された。
それから間もなく、船頭達はここに若い娘4人を連れてきた。
先に女達と米や魚の干物、野菜の漬物など日持ちのする食料を舟に乗せてやって来た。そしてその数日後に、今度は船頭達が男を乗せてやって来た。こうして金持ちの旦那衆等は、自分達の家族に隠れて娘達を囲うようになった。
男達は、頻繁にここに来る訳ではなかった。
どの男も、町では海鮮問屋、呉服問屋、茶屋などの商いをしている旦那衆で、普段はかなり忙しいのと、街の権力を握っているような人達だ。
このような人達に盾をつけば、仕事を失ったり誰からも相手にされなくなるので怖い存在だ。役人もぐるになっている時もあったが、大概は、役人の知らないところで旦那衆達が手を繋いでいた。だから、あの場所を船頭以外には誰にも知られずにいた。
当時の美山は名前すら無い、「あそこに行く」と言えば、腕の良い船頭が船を用意して乗せていく場所だった。何も知らない若くて貧しい娘達は、羽振りの良い旦那衆に、仕事をさせてあげるなどと口車に乗せられてここに連れて来られたのだ。
夏の終わり頃、5番目に連れて来られたのは、真尋まひろという綺麗な娘だった。真尋は貧しい農家の娘で兄が二人いたが、一人は病で亡くなり、もう一人は貧しい暮らしが嫌でどこかへ行ったきりだった。
娘ながら、力のいる畑仕事の手伝いをして両親を助けていたが、あっという間に22才と、この時代ではそろそろ行き遅れと思われる年齢になっていた。
ある日父に使いを頼まれ、獲れたばかりの野菜と野菜や草花などから取れた種を問屋に持って行く途中で、数人の男に捕まり船に乗せられ連れて来られた。お使いだと思っていたが、父が真尋を売ったのだと男の一人から知らされた。
二番目の逃げた兄が、帰りたいけど金を借りたまま逃げて捕まったから金を送って欲しい、と便りがあったらしいと教えてくれた。
一生懸命手伝いをしていた娘より、働くのが嫌いで逃げていた兄のほうが大事なのかと、真尋はがっくりと項垂れた。悔しくて、・・・涙が流れても言葉は出なかった。
いつの間にか建てられていた5番目の小屋に、自分の持っていた野菜や種と共に押し込まれた真尋は、自分を騙した父を恨み唯々泣いた。
持たされた食料も決して多くは無かった娘達は、野菜を作るには遅い季節ながら、協力して小さな畑を作りだした。皆で真尋が持っていた種を植え、一生懸命に育てた。着物が汚れるのは嫌だったが、食べ物が心配なのと他にすることが無かったからだ。
娘達は皆前後と歳が近い所為か、直ぐに仲良くなった。お互いの境遇を話し、涙しながら助け合って暮らすようになった。
同じ頃からパタリと男達が来なくなった。真尋を買った男はまだ来ない。
娘達には、村で何が起こったのかは分からない。でも想像は出来た。
ここで作っていた畑の作物が雨の多い天気のため、腐ったり病気になって育ちが悪くなっていたからだ。
「多分、飢饉で村が大変な事になっているのね。私たちもどうなるんだろう」と真尋が呟いた。
秋になった。
野菜の出来はあまり良くない。
キノコや栗、トチノミなどの食料を得るため森に入った。
皆の小屋の裏から伸びている獣道を歩いて行くと、一本だけとても大きな欅の木が生えていた。四方八方に大きく枝を伸ばし、皆の小屋を包み込むように見下ろしている。その悠々たる姿を見ると、「頑張ろう」と思えた。
今の時期は真っ赤に色づいた葉がとても美しい。皆でこの木の綺麗に色づいた葉を見ながら、来年も見られるようにと手を合わせ祈った。
しかし残念なことに、森の恵みも今年は少ないようだった。
季節は冬に近くなっている。作物はもう獲れない。
5名の娘達は、小さな一軒の小屋に皆で固まって暮らしていた。肩寄せ合って食べられる草を探したり、小屋に置いてある道具を使って海沿いに行っては、全く経験したことの無い釣りをしてみたが魚は釣れない。
時々、岩場に隠れている小さな蟹を見つけて鍋にするが、いくらか蟹の味がする汁を皆で啜るだけだった。
町では真尋達が想像していた通り、夏から秋に掛けての長雨で、殆どの種類の野菜で収穫が大幅に減少していた。あまりの天候不順で、漁業者も海に出られなかった。
普段羽振りの良い暮らしをしていた問屋や茶屋など、金を持っている旦那衆のところに、農家や漁師だけでなく、食料が手に入らないと町の住人達がどっと押し寄せていた。
恐怖を感じた旦那衆は、他の土地に逃げたり、知り合いにかくまって貰ったりして、町中が混乱の渦の中だった。
始めは、囲った娘達を少しは気にしていたが、町中が混乱してからは、娘達のことを思い出すことも無くなっていた。
12月になって寒い日が続いていた。
雪も積もりだして、もう食べる物は何も無く水だけを飲んでいた。痩せ細った5名の娘達の内3人が亡くなった。
3人とも、まだ20才にもなっていなかった。皆貧しい農家の娘で、羽振りの良い男達の口車に乗せられて、両親が借金してはその男に売られたり、仕事を世話すると言って連れ出されたりしたのだ。
皆、自分達の身の上に起きたことを悲嘆していた。
娘達は、死ぬときは「あの美しい欅の下で死にたい」と。話していた。全員が暖かい着物さえ持っていなかった。持っていた着替え用の着物を重ね着して布団を被り、寒さに耐えていた。
「もう駄目だ」と思ったら、他の娘達で欅の下まで連れていき横にしてあげた。そうして3人が逝き、4人目の死が近づいた時は真尋が一人で背中に引っかけて、やっと木の下まで引きずって連れて来て横たえた。
残ったのは真尋だけだった。
「自分が死ぬときは、早めにここまで来て、皆のところで死のう」そう思った。
それから2日経った。真尋は桶に貯まった水を一口だけ飲んだ。「ふう」と息を吐いて小屋を出る。
今日は風も止んで青い空が見える。良い天気だ。
「皆のところに行こう」
そう思ったら何故か優しい気持ちになった。「怖くない」と呟いて、皆を横たえた場所まで、ゆっくりゆっくり歩いた。もう歩くのもやっとだった。
寒さのせいで、遺体は腐敗もせず皆綺麗なまま、まるで眠っているようだった。今は皆の上に薄らと雪が積もっていて、雪で出来た棺に入っているように見えた。
真尋も皆の隣に横になって目を瞑った。
「今行くからね・・・・・。待ってて」
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ユーリの父が長を務める群れは、2年前にこの澄鈴湿原を見つけて、『とても良いところだ』と気に入って来るようになった。
この日、いつもより数日遅れてやってきた群れは湖で羽を休めていた。同じ地域から他の群れもやって来た時だった。上空で何羽かがガーガー騒ぎ出した。見ると一羽のカラスが他の群れの白鳥を攻撃しているのが見えた。先に降り立っていたユーリは、仲間達と急いで飛び立ち協力してカラスを追いやった。
ほっとして、湖に降りようとしたとき一人の娘が大きな木の下に横になるのが見えた。
横には、何人かの娘達も横たわっているように見えた。雪を少し被っているが間違いないだろう。
「この寒い日に、あの娘は何をしているんだ?死んでしまうじゃないか」そう思って、湖を通り過ぎて近くまで行ってみた。
痩せ細った娘は目を閉じて眠っているように見えたが、頬を触ると少しの暖かさがあった。「生きてる」慌てて抱きしめて、「クオー」と叫んだ。
抱きしめたとき、娘は一瞬目を開けて
「・・・・きれいな白鳥さん・・」と言って又目を閉じた。
緊急の呼び鳴きに、母が飛んできてくれた。
娘を母に預け、薪を集めてから近くの家に入り、囲炉裏に薪を焚べてから釜に水を入れ釣るし、部屋を暖める準備をした。
「これで良し」とすぐに母の元へ飛んだ。
母は大事そうに娘を抱きしめていたが、ユーリが変わると、「他の娘達はもう何日も前に亡くなっていたのね。可哀想に・・・・」と哀れむように話した。
青白い顔の娘を羽で包み込むように抱き、体温を上げてから背中に乗せ家に運んだ。薄い布団に寝かせ、同じように薄い掛け布団を身体に掛けた。それでもガタガタ震えている。まだ寒いのだろうと他の布団も掛けてあげた。家の中も大分暖まってきた。
「これで助かると良いのだが」安らかに眠る娘の顔をジッと見た。
「なんて綺麗な娘なのだろう。翼で包んだとき、綺麗な白鳥さんと言ってくれたな。綺麗なのは君の方だよ」とおでこと頬を撫でた。
「愛しい・・・・」
ユーリは母に留守を頼み、隣町に飛んだ。
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真尋は『真綿に包まれるってこんなだろう』と思うと、ほわっとした暖かさを感じて少しだけ目を開けた。
「あ た た か い・・」
目を開けて驚いたものの、夢を見ているのだろうと思った。何故なら真尋は、大きな白鳥の羽に抱かれていたのだ。気がついた真尋を、長い首を真尋の顔に近づけつぶらな瞳でジッと見つめる白鳥。白鳥に抱かれているなんて不思議・・・、でも・・怖いと思わなかった。
「き れ い な 白 鳥 さん・・・」
白鳥は、気がついた真尋をなんとか背中に乗せ、落とさないよう低くそして少しずつ飛んで、小屋まで連れて行ってくれた。囲炉裏には薪が焚べられていて、小さな部屋の中は暖かくなっていた。
敷かれたままの薄い布団に背中から、静かに下ろされた。衰弱している真尋は目を瞑ったまま動けなかったが、耳だけは微かに音を拾っていた。
そんな真尋を置いて白鳥は何も言わずに小屋を出たようだ。
小屋の中に良い匂いが立ちこめる。起きられない真尋の背中を起こしてくれた人がいる。
「だ れ ?」声にならない。
起こしてくれた人が、匙を使って真尋の口に温かいトロッとした物(多分重湯)を少しずつ少しずつ口に入れてくれた。
何かを食べるなんて何ヶ月ぶりだろう。しばらく水しか飲んでいなかったから。
食べさせて貰ったことと、布団も重ねてくれたお陰で身体が温かくなって又眠りについた。
何時間かして、又同じように重湯を口に運んでくれた。
こうして五日間ほどかけて、三分粥・五分粥とゆっくり胃の中に食べ物が入った。
お陰で時々目を開けられるようになって、今日は七分粥まで食べられるようになった。真尋は布団の中から『ありがとう』と言いたくて口をモゴモゴさせた。
それに気がついて、背中を起こしてくれたのは若い男だった。この国の男とは顔立ちも体格も違う。目も大きく、鼻もまっすぐ高い。唇は薄いが大きくて、顎も太くしっかりしている。痩せて小柄な人が殆どの、村の男より頭一つ以上背が高く、肩幅は広く腕に筋肉がついた大柄な男だ。この国の人とは違うようだ。
真尋はこの男は自分を助けてくれた白鳥では無いかと思った。羽と人間の腕の違いはあるけれど、真尋の身体を包み込んだ時に感じる優しさ、暖めてくれた時の羽と背中を起こしてくれた腕の逞しさが似ていた。それに、体温と匂いが同じだった。
「あの もし かして 助け て くれた、白鳥さ ん です か? ほん とうに あり がとう ござい ました」やっとお礼が言えた。
若者はビックリしたように目を見開いて、「私が分かるのか?」そう言って今日も粥を食べさせようと、腕を手にした。
若者と二人小屋で暮らし始めた。男はユーリと名乗っていて、決して無口ではなかったが自分の事は話さなかった。
しばらくして真尋の体重は少しずつ戻って来たが、体力は完全に戻っていない。
ユーリは真尋を気遣って「マヒロは休んでいて」と優しい言葉を掛けてくれ、必要なことは何でも甲斐甲斐しく世話をやいてくれた。
男の人に優しい言葉など掛けて貰ったことが無い真尋は、この男が『見た目大柄で怖そう』な感じと違って、『働き者で優しい人』という擦れを、戸惑いながらも受け入れられるようになっていた。
ユーリは毎日のように森に入っては薪を集め、どこからか食料を少しずつ持ってきた。真尋も食事の支度が少しずつ出来るようになっていた。
日差しが暖かくなり、雪も少し溶けだして、風も東側から春の香りを運んできた。春が近い証拠だと思ったら、白鳥達の鳴き声が聞こえた。
「北帰行がはじまったのね。あなたも行っちゃうの?」
真尋は、若者がどういう経緯で自分を助けることになったのかは解らないが、彼が白鳥の変身した姿なんだと確信していた。
白鳥が人間に変身できるなんて普通なら考えられないし、他人が知れば気持ち悪がったり、怖がるのが普通だと思う。それでも彼が助けてくれたことは事実で感謝もしていたし、一緒に暮らす内に彼の逞しさや優しさを知り、離れたくないと思うようになっていた。
「この気持ち・・・」
真尋にとって、初めての恋心だった。
「マヒロは、これからも僕と一緒にいたいか?」
夕餉の後で、隣に座ってお茶を飲む真尋にユーリが尋ねる。
「はい。ずっと一緒に居たいです」と頬を染めながらもはっきりと頷いた。
「ユーリとは離れたくない」と、自分の気持ちに気づき、ユーリへの思いを表したのは初めてだった。
その言葉を聞いたユーリは、はにかんだ顔で「うれしい」と言って抱きしめてくれた。
その夜、真尋が眠りについた頃、彼は静かに小屋を出た。
いつまでも眠らないユーリが、何処かへ行ってしまわないか不安で真尋は寝たふりをしていた。そして、ユーリが小屋を出た後を静かに追いかけた。
ユーリは西の山の方へ向かっている。
星空がよく見える今日は満月で、少しばかり遠く離れても月の明かりのお陰で、若者を見失うことは無かった。
途中はぐちゃぐちゃした湿地帯で、体力が完全に回復していない真尋は歩くのも大変だったが、見失わないようにゆっくり後を追った。休み休みに息を切らしながら30分以上歩いた頃、湖畔にユーリが立っているのが見えた。
坂道を上りユーリを追いかけてきた真尋が着いた場所は、大きな湖の畔だった。
『こんなところに湖があったなんて』
湖から溢れる水が「チョロチョロ」と小さく、そして澄んだ音を立てながら細い川となって流れて、来る途中にあった池まで届いているようだ。
この土地の海に近いところで暮らしていた娘達は、西の山の方にまで来たことが無かった。畑仕事などで藁草履が傷んでしまうので、それ以上傷まないよう遠くまで歩くことを避けていたのだ。
手前の木に隠れた真尋は、じっと彼を見つめた。
そして不思議な光景を目にする。
ユーリが立っていると、群れの中にいた一羽の大きな白鳥がスーと泳いでやってきた。
「ユーリ、本当にここに残るのか?」
「父さん、僕はマヒロと暮らしたい。ここに残らせてくれ」
「・・・ここにいて、彼女を本当に守っていけるのか?人間が大挙で押し寄せてくるかもしれないんだぞ」
オオハクチョウの声は静かで、決して怒っている雰囲気ではない。
「分かっている。それでもマヒロと一緒にいたい。ここに残りたい。・・・・もしも、人間が襲ってきて、どうしても・どうしても勝てそうに無かったら、・・・その時は彼女を背負ってどこかへ飛んで逃げるさ。ハハハ」
若者はそう言って明るく笑った。
「分かった。・・ここは良いとこだから、次の越冬もここに来るようにしよう。皆もお前に会いたいだろうからな。・・元気で暮らせ」
「ありがとう。父さん。・・マヒロ・・こっちへおいで。隠れていても分かっているよ」
真尋は人間の言葉で話す白鳥達に驚き、木の陰にいても足が震えていた。そんな真尋の側に来て、笑顔でユーリが手を差し述べて引いてくれたお陰で、しずしずと木の陰から出ることが出来た。
「ごめんなさい。あなたがいなくなったらどうしよう。と心配で追いかけて来ました。でも・・ここに残ってくれるんですね」
「マヒロさん、私の群れはこれから故郷に帰ります。どうかユーリをお願いします」
白鳥が言葉を話すのにドキドキしている真尋は、「はい」と返事をするのがやっとだった。
それでも、
「道中、皆さんお気をつけて。・・又ここで元気にお会いできることを・・楽しみにお待ち致しております」と、しっかり頭を下げて挨拶することが出来てほっとすると、ユーリは「ありがとうマヒロ」と、肩を抱いてくれた。
幸せそうなユーリとマヒロの前で三十羽ほどの群れは、満月の夜空に大きく羽ばたき「ユーリ!又会おう」と鳴きながら旅だって行った。
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ユーリのような、人間に変身できる白鳥の種類は少ないそうだ。それに、同じ種族でも全員が人間の言葉を話したり、人間に変身出来るわけでは無いらしい。
人間に恋をして、相手が気持ちを受け入れてくれた時、彼らは初めて自らを『白鳥人』と表現し、人間の姿で暮らして行くと言う。
ユーリの家族達が飛び立って10日程経って、太陽が顔を出した頃、小屋の戸を叩く音がした。
自分達以外誰も住んでいる人がいないこの土地に、誰がやって来たのかと真尋は怖くて戸を開けることが出来なかった。二人で顔を見合わせてから、ユーリはマヒロを背中に隠し「どなたですか?」と内側から声を掛けた。
「僕だよ、ユーリ。イアンだ」
「イアン?本当にイアンか?」
「ああ。あとバートにアンドレイ、フロル、 デニスも一緒だ。親父さんから話を聞いてやって来たよ。僕らもここで暮らすことにしたんだ」
慌ててユーリは戸を開けて外へ飛び出した。
皆に抱きついて喜び合っている。
「狭いけど家に入ってくれ。これからの事を話し合おう」
みんなは嬉しそうに、そして小さな小屋の中を不思議そうに見回しながら入ってきた。
小さな隙間だらけの小屋の中で囲炉裏に薪を焚べ、真尋はユーリがどこからか買ってきた僅かばかりの茶葉を、惜しげも無く皆に振る舞った。
仲間は皆ユーリと同じ種族の白鳥で、人間で言う親戚や友達なのだという。
ユーリのお父さんが、二人だけだと人間がやってきたときに殺されるかもしれないから、人間の姿になって一緒に暮らしても良い奴がいたら、あの土地で一緒に街を作ってくれないか?と群れの仲間に声を掛けたらしい。
それに、オオハクチョウは人間の姿になると190cm前後程の身長になるため、この国の男達がやってきても、何人もの大柄な男達を見るだけで怖じ気づくだろう、と。
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仲間達の雑談の中で、『白鳥人』に関する話が出た。
白鳥が、人間の姿に変われる種族は幾つかあることは解っている。
又、その種族の中では変身は出来ないが話すことが出来る白鳥も多く、それだけ昔から人間と関わりを持ってきたのだそうだ。
現在も人間の姿で暮らしている『白鳥人』は、ロシアや北欧、北ヨーロッパなど一部の国々に僅かだがいて、それぞれ皆人間の伴侶を得て、幸せに暮らしていると聞いている。
しかしそれは何故か雄の白鳥ばかりだ。
昔は雌の『白鳥人』もいたらしいが、雌が『白鳥人』になると色白美人で背が高く、人間より艶めかしくとても目立ったため、伴侶がいても他の多くの男から狙われて、精神が疲弊したことが多々あったらしい。それ以来人間になりたい雌が激減したのだという。
今でも何処かに雌の『白鳥人』がいるとは思うが、詳しいことはもう解っていない。
白鳥の寿命は人間よりずっと短いが、人間の姿で暮らせば伴侶と同じ位生きられるのだという。
愛し合う人間と長く一緒に暮らせるのだ。憧れないわけがない。
元々白鳥が『白鳥人』になると、妻と子供を愛し家族を大事にする性質があり、今まで家族間でのトラブルを起こしたことがないのだ。
そんな話を聞くと、本気で人間と一緒に暮らしたいと憧れる白鳥も多い。特に若者にはそういった考えの者が多いようだ。
昔から、白鳥は人間が好きで変身出来るようになったが、たった一人の娘を見つける事が出来た者だけが、『白鳥人』として生きていくのだと。
ユーリとマヒロの仲睦まじい姿を見た仲間達は、『いつか自分も人間の娘と一緒になる』と、人間への憧れを胸に皆で協力して街作りを始めた。
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雪も溶け出してきた頃、真尋はユーリや仲間にお願いをした。
冬の間に亡くなった娘達の棺を作って貰って納棺していたが、外に置きっぱなしになっていたのだ。
「皆をお墓に入れてあげたい」
真尋も手伝って、新しい芽が出始めた欅の側に墓を掘り埋葬して、直ぐ側にはそれぞれの名前を書いた小さな板を刺してあげた。
「お花が咲いたら持って来てあげるね」真尋がそう言うと、皆が手を合わせた。
いろんな国々で越冬してきた白鳥達は、知識が豊富だ。人間として幸せに暮らせる街とは・・・を、本気で考え何度も話し合いを重ね、出来ることから始めた。
ある日の夕方になって、ユーリと仲間達が船3艘に、材木を沢山乗せて漕いできた。聞けば、昨年の飢饉で漁師も村からだいぶ居なくなって、船がそのまま港に捨てられていたらしい。邪魔だからくれてやると言われて、皆で必要なものを買って漕いで来たのだ。船には材木の他、漁師が使っていた釣り道具や網が残っていてすぐにでも使えそうだ。勿論、食料や野菜や花などの種も買って来てくれた。
雪もすっかり溶けた頃、男達は自分達が住む大きな家を建て始めた。きちんと区画して、それぞれが好きな場所を選んだ。6人の大男達が作業すると1軒の家もあっという間に出来てしまう。
家のことは皆に任せて、真尋は皆の食事の用意と洗濯、畑の管理をしていた。
真尋が畑を見回っていると、去年作った小さな畑に、何かの植物が幾つも芽を出していた。「これは?」何の芽か確認できるまでその畑はそのままにして、隣に新しく作って貰った畑に、種を蒔いた。
ある日の夜、真尋はいつも不思議に思っている事をユーリに尋ねることにした。
生活は何不自由なく暮らしている。以前の貧しい暮らしに比べれば、かなり裕福な暮らしだ。贅沢感さえ感じ始めていた。
「いろいろな物を買ってきてくれるのは有り難いけど・・・お金はどうしてるの?」
「マヒロはそんなことを心配する必要はないよ・・・。本来の僕たちの姿を知っているよね。僕たちは夜目が利くから、夜に飛んでは人間が入れない山奥の山菜や鉱物を見つけてはそれを売って、物やお金に換えているんだ。これからは商売もしようと考えているよ」
「だから大丈夫。心配しないで」と真尋を抱きしめてくれた。
「そうなんだ。それで時々夜に出掛けていたんだね。ごめんね、変な事聞いて。今までどんな物を持ってきても平気だったのに、この頃何でも不安に思っちゃって・・・。やっぱり赤ちゃんが出来たからかなぁ・・」ユーリに抱かれたまま呟いた。
「えっ、赤ちゃん産まれるの?それは大変だ。早く家を完成させなくちゃ。えーと。マヒロ?あとどれくらいで生まれるの?1ヶ月位?」
「ねえ。私って卵産むのかな?・・人間の姿で生むなら未だ未だ先で・・・、あと半年位だと思うよ」
「分かった。あと半年だね。そうするとちょうど僕の家族や仲間達が来る頃だね。みんな喜ぶだろうな。それと、真尋は人間の女性だから、卵ではなく人間の赤ちゃんで生むんだよ」
「人間の男性と白鳥の女性なら、卵で生まれるのかな?・・・僕もよく分からないや」
「あーでも、僕の赤ちゃんかあ。本当に楽しみだ。マヒロ、ありがとう」最近益々愛情を表に出して来るようになったユーリが、顔中に口づけをしてきた。
街作りのため、これから生まれる子供達のためにも戸籍も作ることにした。
戸籍を持ったことがない皆は、将来自分達と同じようにここに来た白鳥達が困らないよう役場の代わりを担い、真尋に戸籍係を任せた。
ユーリがどこからか、厚い帳面を持ってきたので、それに皆の名前を書き込んでいった。
農家の娘だった真尋は、冬の農作業の無い時だけは寺子屋に通い文字の読み書きを覚えた。もっと勉強したいと思っていたが、それは叶わなかった。
でも、今はそれが役立つことにうれしさを感じていた。
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それは梅雨の時期も過ぎて、入道雲が大きくなって空も真っ青の熱い日だった。
朝早くから男達皆で漁に出て、
「今日は大漁だったから隣町の港で魚を売って来た」と喜んで帰って来たあたりだった。
沖から島を抜けて、大きめの船が一艘湾に入ってきた。自前で作った本当に小さな桟橋に船を横付けして、5名の男が降りてきたのだ。
三人は見たことがあった。
真尋はユーリの腕を掴んでそっと囁いた。
「一番前の、着物を着た男は死んだ結愛ちゃんを連れて来た海鮮問屋の旦那で、一番後ろに立っている二人の船頭は、死んだ娘達や私も、船で連れて来た人だよ」
「分かった。任しておいて」
陸に上がって来た男達は、ユーリ達大男6人を前にして、近づくことも出来ないでいた。
海鮮問屋の旦那が怖々声を張り上げて言った。
「お前達は誰の許可を得てここに住んでいるんだ」
「誰かの許可が要るんですか?ここはあなた方旦那衆が、娘達をたぶらかしてはここに連れ込み、それこそ違法に建てた小屋に囲っていた場所じゃないですか。それも、食料を続ける事もしないで。
可哀想に、娘達は食べる物も無く寒さに震え亡くなりましたよ」ユーリが続ける。
「ここに居る娘も最後に痩せ細って死ぬところでしたよ。たまたま私たちが時化のため船が転覆して・・、流れ着いたところで発見したんです。・・・、死ぬ間際の彼女を助ける事が出来て本当に良かった」
「何だと。おい、海鮮問屋。他の旦那衆とは誰のことだ。話が本当なら、お前達を拐かしと殺しで掴えなきゃならない。町に戻ったら詳しく聞くからな。逃げるなよ」
「お役人様。あいつらの言うことは嘘ですよ。私たちはきちんと住むところも、米も干物も持たせたんですよ。ただ、昨年は食料もあまり取れなくて、ここに来るのが遅れただけで・・・・」
「へえ、遅れたってさ。良く言うよ。去年の秋頃から一度も来ていないそうじゃ無いか。なあマヒロ」
「はい。私はそこの船頭さん達に連れて来られましたからどの旦那様かは知りませんが、去年の夏の終わり頃からは誰も来ていません。私も危ないところでしたが、ここに居る人達に助けられました。あっ、向こうには彼女たちのお墓があります。この人達に掘って貰いました。本当に有り難かったです」
役人達は確認の為に墓を見に行った。墓の側には、名前を書いた板が刺してあるので誰の墓かはすぐに確認出来た。役人の付き人らしき人はその名前を書き留め、家族に伝えると言ってくれたのだ。
そして、
「ここは辺鄙で暮らしにくいだろう。町に行って暮らすならなんとかして・・・・、しかし男達は目立つしなあ。お前達ここで暮らせるか?」
と心配してくれた。
「私たちも遭難して大きな船も壊れたので故郷には帰れません。住むための家はこの通り大概出来ていますし、良ければここで暮らすことをお許し下さいませんか。山の恵みや海の恵みを得たり、街で商売をして暮らしたいと思います。要望としては、商売の許可を頂けると助かります」と、願い出た。
皆は、ユーリの嘘も策略も上手いと感心して見ていた。
役人は考えた。今、この国には僅かだが外国からの人が来るようになっている。問題を起こして危害を加えては政府からお叱りを受けるだろう。それにここは、三方を山々に囲まれているから、人の往来も少ない分安心して暮らすに良い。
咄嗟にそこまでの考えを巡らせて、
「分かった。暮らすための商売を緩そう。後で許可証を持ってこさせるし、時々見回りを寄越すから安心して暮らせ」と言ってくれた。
そこまでの決定を即座に出来るくらい、この男は隣町の役人でも二番目に偉い人だったのは運が良かった。
突然イアンが、「お役人様、早く帰った方が良いですよ。海が荒れてきます」
対抗して、船頭の一人が
「こんな良い天気だ。まだまだ暫くはこのままだぜ」と馬鹿にしたように「ふん」と鼻をならした。
「今日は用も済んだし帰ろう」とお役人は皆を促した。南側の隣街までは、船を1時間以上漕がないといけない。
港まではまだ20分程掛かると言うのにイアンが言ったとおり、波が高くなってきた。役人に睨まれて、船頭達は顔を青くして必死に漕いでいる。
❄ ❄ ❄
無事に商売をするための許可証も届いた。
俄然、やる気を出した仲間達は山中の鉱山からの贈り物である、水晶を掘り出した。
人間が簡単に入ることの出来ない山中から、水晶とローズクォーツ、琥珀が取れた。それらを売るときは、少し遠くの大きな街まで飛んでいき高額で売った。
その時は、
「山菜を採っていたら見つけたけど、熊やイノシシに追いかけられて大変だった」などと大げさに言って、疑われないようにした。
こんな大男達でも逃げるくらいなら、どこの街の男も太刀打ち出来ないと思い込むことは目に見えて解っていたからだ。
段々に商売が軌道に乗り、隣町でも目立つようになってきた仲間達に、甘い汁を吸おうと女達がすり寄ってきていた。
イアン達は兎に角目立った。背が大きく、目鼻立ちがしっかりしていて手足が長い。身体に合わせて服を作るには結構なお金も掛かる。なのに、イアン達はそれを値切りもせずに、難なく支払うのだ。
着物に金をかける旦那衆の中には、
「いつも買ってやっているんだから、少し位負けろよ」なんて情けない奴もいるもんだから、噂はすぐに広まってしまう。そうしたことで女達がほっとかないのは当然だった。
町には真尋のように、貧しいなりに一生懸命作った花や野菜に、織った反物などを売りに来ている働き者の娘達がいた。
女達に囲まれて煩そうにしていたイアン達に、先ほどの貧しい格好をした一人の娘が声を掛けた。
「お花に野菜、反物を買って下さいませんか」
勇気を出して近くに寄って行った娘に、イアン達を取り囲んでいた女達が邪魔だとばかりに娘を度ついた。
「あっ」よろめいた拍子に、持っていた花や野菜が道に転げ落ちてしまったところを、ひしめき合っていた女達に踏みつけられてしまった。
背中に括り付けていた反物だけは無事だったが、落ちて踏まれた花の束は、咲いている花びらと蕾みまでが無残にも落ちて、茎も折れてしまった。
涙がジワッと滲んだ目を拭いながら、「済みません」と言って踏まれた花や転がった野菜を片付け始めた。
イアンはその姿を見て耐えきれずに「手伝うよ」と一緒に拾ってあげた。それを見て、
くっついていた女達は都合が悪くなったのか、そそくさと離れて行った。
「申し訳無かったね。お詫びに、その反物を売ってくれないか?」娘をよく見ると、目がクリッとした可愛らしい顔をしている。イアンの心臓が跳ねた。
「いえ。私が無理に買って貰おうとしたからいけないんです。気にしないで下さい」と娘は帰ろうとした。
「待って。それならその反物で私のズボンを縫ってくれないか?縫い物は出来るだろう?」
「出来ますけど、そうなると、いくらお金を貰ったら良いか分かりません」
「その反物はいくらだい?いくらで売ろうと思ったの」
イアンは娘を懸命に引き留めて、糸の仕入れ値段から反物に仕上がるまでの時間を聞いて、反物の値段を決めた。そしてそれを商品にすると値段が何割も上がることも教えた。
「そんなに貰って良いんですか。今までは、その半分しか貰えませんでした」
貧しさ故正当な取引も知らず、それを良いことに搾取されてきた娘達。いつまで経っても豊かになれない仕組みに、彼女達を可哀想だと思った。
半月後、そんな娘は頑張ってイアンとの約束通りにズボンを作り上げてきた。店に注文するより丁寧で丈夫に縫い上げてきた。
イアンは店に支払うより多くの代金を払ってあげた。
「いつもこのように仕立て上げる事が出来るなら、他の人もきっとこの値段で買ってくれるよ。これでも店より安いんだ」
娘は、はにかみながらも、とびきりの笑顔で「ありがとうございます。頑張ります」と答えたのだった。
❄ ❄ ❄
皆の住むこの土地を、土地の美しさと皆の心を表して『美山村』と名付けた。
皆の住む洋風の、大きくて暖かい家も出来た。今まで暮らした家とは段違いの家だ。
今年は天気も良く、作物も多く出来た。
真尋のお腹も大きくなってきて、生まれるのを楽しみに作物の収穫をしていた。
春に何の植物の芽か解らないと思ったのは、「藍」だった。今まで一年草でしか育たなかったのが、突然変異なのか宿根草になっていたようだ。
少しだけ収穫できた藍を、日光で痛まないよう陰干しし乾燥させ粉にしておいた。
皆の汚れた服を洗った後、藍の粉を入れた水に浸して色を付けた。発酵させた藍のような、濃い色は出せないが蒼い色が付くことで汚れも目立たなくなった。
これには皆も、「お洒落な作業服になったし、これを着てるとなぜだか虫が寄ってこないんだよね」と喜んでくれた。
一方、イアンは気になることがあった。
最近、街に行ってもあの娘に出会わない。何かあったのだろうか。はにかんで笑ったあの子の笑顔を思いながら、夜にでも確認に行こうと思った。
どんよりとした厚い雲が、今にも大泣きしそうだ。街の人間に見つからないように飛んで行くには絶好の天気だ。
「たしか、街の北側の古くて小さな一軒家で、家の前に小さな畑があると言ってたな」
他の農家は、広い土地に大きな家が建っている。あの娘の家はすぐに分かった。
家の裏側に降り立つ頃には雨がぽつぽつ降り出していた。
耳を澄ましてみると、ぼろ屋の薄い壁からは言い合いをする人の話し声が聞こえた。
「八重、もっと酒を持ってこい」
「お父ちゃん辞めてよ。お酒なんか買うお金、もう無いよ」
「お前が又、反物織ってズボン作って売ればいくらでも金になるだろう。なんなら身体も買って貰え。あの大男達を掴まえて離すなよ。これで働かなくても酒が飲める。あーはっはっは」そう言ってドカッと寝てしまった。
母と兄がこの家を出て行くとき、八重も一緒に行こうと思ったが、家のことを何も出来ない父を可哀想だと思い、一緒に残ることを決心した経緯があった。
今では、母も兄も何処へ行ったか便りも無く、一緒にいるのかさえ分からなくなっていた。
小さな畑だけでは食べていけないと、母は織機で反物を織り生活の足しにしていたし、将来の為にと八重にも小さい頃から織機を教えていた。
「もう、反物織る糸さえ買えないのに・・・やっと、やっと、水飲み百姓から這い上がれると思ったのに・・、お父ちゃんのばかぁ。だからお母ちゃんも、お兄ちゃんも家を出て行ったじゃないの。うぐっ・・うっうっ・・」
飲兵衛で尚且つ働かない父の所為で、この家族は崩壊していた事をイアンは知った。
八重は声を殺して鳴いている。
外は雨が強く降り出していた。辺りは真っ暗なのに加えて、雨の所為で一寸先も見えない状態だ。これから夜中にかけて雨粒がもっと大きくなり、土砂降りになってくるだろう。
八重は隣の部屋で泣きながら眠ってしまったようだ。
夜中に目を覚ました父はまだ酔いが覚めず、ふらついた足取りで外の厠へ向かった。
『近くだから』と傘も差さず、泥濘んだ所を歩いた時だった。
酔いでボーとした頭に、後ろから何かがぶつかったと思ったらそのまま大きな水たまりに倒れてしまった。驚いて、一気に酔いも覚めた気がしたが、今度は水たまりに浸かった頭と背中を押さえ込まれ、息が出来ない。
心の中で『八重!・・や え』と叫ぶが、声にならない。息も出来なくて苦しい。水たまりの泥水を飲み込むがあとは藻掻くだけで、土砂降りの雨が水たまりに絶えず水を注ぐばかりだった。
翌日、まだ止まない雨の中、父が居ないことに気がついた八重が探し出したのは、厠の手前で倒れている父だった。
動かない父を水たまりからなんとかずらして、急いで一番近い農家の家に走って知らせたが、時既に遅く父は亡くなっていた。
確認に来た警察にも
「雨に打たれても酒の匂いがしている。・・泥酔して泥濘みに足を取られ転んだんだろう。そこが運悪く水たまりで息も出来ずに溺れ死にしたと言うところだな」と結論付けられた。
何日か経って市場でイアンと出会った八重は、申し訳無くお礼を言った。
せっかく仕事を頂いたのに、父が使い込んでお金を無くしてしまい反物も織れなくなってしまいました。その父も亡くなったので、又花売りから始めます。との事だった。
その日の夜イアンは、人間の格好で八重の家を訪れた。
「イアンさん。・・・どうしましたか?どうぞ中でお茶でも飲んで下さい」
「八重。今までよく一人で頑張って来ましたね」
「ありがとうございます。父も亡くなってひとりぼっちになってしまいましたが、これからも少しずつ頑張って行きます。イアンさんには、お世話になりっぱなしで申し訳無かったです」
「八重。娘が一人で暮らすのは良いことではない。一生懸命働いて・・頑張る君は立派だし尊敬できるけど・・・」
「尊敬だなんて。そんな大した人間ではありません。ここら辺には貧しい農家の娘はたくさんいますし、皆このようなものですよ」と笑った。
「八重、もう心配掛けないでくれ。僕は君が元気でいて欲しいし、僕のそばで笑っていてほしい。・・・八重、君が好きだ。だから僕と一緒になって欲しい」
八重は、真剣に懇願するイアンの目を見た。
初めて市場で見た時は、あまりに大きな身体に怖さを感じたが、八重の織物や手縫いの技術を褒めて注文までしてくれ、商売の仕方までも教えてくれた人だ。
そんなイアンにはいつも綺麗な女の人達が群がっていたから八重からは声を掛けられなかった。淡い恋心を抱いても少し離れたところから黙って見ているだけだった。
だけど、もう考え方を変えても良いんじゃないか。父もいない。母も兄も。私は自由なんだ。何をしても何処へ行っても良いし、誰からも何を言われても構わない。野垂れ死にしたって全部自分の責任なんだ。アランと一緒に、又好きな織物を織って売っていこう。
「アラン。私を連れて行って下さい」と、八重は頭を下げた。
アランは嬉しいような泣きたいような顔をして、無言で八重をそっと抱きしめた。
そうして、アランも働き者で可愛い人間のお嫁さんを娶ることが出来た。
❄ ❄ ❄
ユーリ夫妻と共に八重とイアンは美山村で暮らし始めた。
同じ頃、バートにアンドレイ、フロル、デニス達も八重と同じような、働き者で優しく可愛らしい、それなのに親がいなかったり、親代わりの親戚にまで虐められていた娘達をお嫁さんにして暮らし始めた。
6組の夫婦で、新しい街を作っていったのだ。
この土地を『美山村』と改めて皆で決めた。『決して海や山、土を汚してはならない』と定め、これを『戒めの書』として、各家に飾った。
それからは、村に関する決め事は必ず12人で決めた。
冬が近づいた頃、真尋が赤ちゃんを産んだ。
色の白い目がくりっとして、真尋に似たとても可愛いらしい男の子だ。
雪のちらつく頃には、ユーリの家族やイアンたち仲間の家族も続々と澄鈴湿原にやってきた。
マヒロとユーリは、ユーリの家族に二人の赤ちゃんを見せる事が出来て、本当にうれしかった。白鳥人と人間の間に出来た子供は白鳥人にはなれない。それでも、人間の姿をした赤ちゃんでも、ユーリの両親はとても喜んでくれ、大きな翼で包んで抱いてくれた。
イアン達の奥さん達も、皆お腹に赤ちゃんがいる。来年の夏までには生まれる予定だ。
そのことを知ると、白鳥達は翼を広げて一斉に鳴きだした。喜びの表現なのだという。
ここの暮らしや仲間の幸せな姿を見て、新たにここに残る白鳥がいる。去年より多い数だ。
こうして村には白鳥人とその妻達によって人口が増えて行った。
夫である白鳥人達は、夜中に飛んでは各地を回り、これからはどの職種が商売に向いているか情報を集め、その上で自分達には何が出来るかを調べた。
この国にミシンが入ってきた。洋服を着るようになったので、妻達にミシンを買え与え洋服を作って貰い、男達が売って歩いた。これは本当によく売れた。ただ何年かするとあちこちに大きな工場が出来、安価でおしゃれな服が出回ったせいで殆ど売れなくなった。
ミシンは高額だったので、利益も大したことは無かった。
意外とよく売れたのは花卉だった。当時他で見ることの無かった温室のような物を造って、中でいろいろな花を育てた。その頃になると外国からの種も入って来ていたので、珍しい花に高値が付いた。
お盆にお彼岸に、花は重宝された。
こうして、時代と共に新しい技術や研究を重ねていった。
その中での一番は、『藍』だった。
偶然出来た『宿根草の藍』だったが、野菜や花の防虫に効果のあることが解った。藍の液体を植物全体に蒔くと虫が寄って来なくなり、野菜や花は良い物が獲れた。おまけに藍染めの作業着と反物も売れた。評判が評判を呼んで、男達はこの液体を大量に造って売りまくった。これによって『宿根草 藍』は門外不出の『美山 藍』として、この村だけで大事に育てられるようになった。
こうして成功も失敗もあったが、皆で泣いたり笑ったりしながら、苦楽を分かち合い仲良く暮らして来た。
❄ ❄ ❄
その頃より、時代は百五十年ほど経っていた。
美山村は『白鳥人』によって様々な産業が発展し、人口も7万人くらいに増えて、美山市となっていた。
20年前には、両隣の町と繋がるトンネルが掘られ、噂の『澄鈴湿原』を一目見たいと観光客が押し寄せるようになっていた。
あの欅の木は益々大きくなり、市のシンボルツリーとなっている。ここ一帯は綺麗に整備され、墓地公園となった。
欅のとりわけ大きく左右に伸びた枝に抱かれるように一番近い所に、開拓者の碑が建ち最初の6人の夫婦の名前が刻まれていた。
碑の横には3組の家の墓地が並んでいる。そしてその隣に並んで、最初に亡くなった娘達のお墓もあり、開拓途中で亡くなった娘達と紹介され、市の慰霊祭で弔っている。
時代の流れから、自らを『白鳥人』と名乗る人はいないけれど、この町の町長始めこの町にある大きな会社や団体のトップや役員は、皆『白鳥人』で締められていた。彼らの繋がりは強固な物で、どれほど裕福に財産を築いても、この町を切り開いた『白鳥人』達の『戒めの書』を飾り、先人達の苦労と美山市の成り立ちを忘れないよう息子達にも強く訓育して来た。
ただ、水晶や琥珀などの宝石が取れる山のことは、開拓者達6人の直径子孫である女性と番いになった白鳥人達だけで管理されていた。
これは、他者に漏れると直ぐに人間達にも知られ、採られてしまうと危惧していたからだ。勿論町長の思いも一緒だった。だから、人間との番を望む白鳥が現れると、優先的に開拓者の子孫の娘を紹介したが、嬉しいことにこのお見合いは必ず恋愛に発展した。
こうして、開拓者の家系は存続して来たのだった。
しかし、『白鳥人』を管理している役場の部署では悩みもあった。ここ5年は、新しい白鳥人が一人もいないのだ。群れの長達に尋ねてみると、世界的にそうなっているのだとか。・・・理由は簡単だ。
世界のあちこちで大きな戦争が勃発したり、小さな紛争が収束せず長引いたりして、人間として生きる勇気や魅力が薄れてしまったのだ。危険を察知したら、すぐに遠くの安全な場所に飛んでいける白鳥の姿の方が有利だからだ。
そうして時代と共に、そのほかの町民は自分達が『白鳥人』の子孫だということも知らない人々が増えていった。他の土地からの転入も産業の発展と共に増えて、『白鳥人』の人口割合の減少を防ぐことが出来なくなっていた。
あえて『白鳥人』と表明出来なくてもその心を忘れないようにと、絵本『白鳥人の住むところ』を作成した。
❄ ❄ ❄
湿原の入り口には管理小屋があって、白鳥達にあげる餌が売っている。
『食パンの耳』だが、紗雪も小さい頃から白鳥の群れに餌を投げ入れてきた。
ある日、遊歩道を異動しながら湖の白鳥達に餌をあげてると、異動するたびに同じ方に泳いで付いてくる白鳥がいた。餌を欲しがるわけでは無いようだが、紗雪が右に行けば右に来て前にいるし、左に行けば左に来て前にいる。ジッと紗雪を見ているようで、目線が合う。
今年の冬、ここには来たのは5度目の紗雪だが、いつ来てもその白鳥が分かるようになった。他の白鳥より白さが際立っている白鳥に「皓貴こうき」と名前を付けた。
いつものように紗雪の前を陣取った『皓貴』
に、「こうき、こうき」と呼びかけた。
「皓貴」は呼びかけると、「コォーコォー」と返事をする。まるで言葉が解っているような気がする。
卒業式も終わった3月初め、今日も澄鈴帯に来ている。白鳥も帰る時期が近づいているのが解るのだろう。相変わらず紗雪の前を陣取っている。
「行っちゃうんだなぁ。さみしくなるね」
紗雪には父親がいない。母は何も言わないが、律子は離婚してから紗雪を一人で育ててくれたのだろうと思っている。ここまで育ててくれて母には感謝するばかりだ。
なんとなく大学に行きたい気持ちはあったが、片親で育ててくれた母に遠慮する気持ちも少しはあった。
母は大学への進学を薦めてくれたけど、大学に行くにはこの街を出なければならないし、特別やりたい事も無かったから地元の大きなスーパーに就職することに決めた。
何より澄鈴帯から離れたくない気持ちの方が強かったからこれで良い。これからは母に楽をさせてあげたい。
紗雪と律子は、律子の両親が住んでいた家で暮らしている。
律子から聞いていた話では、
律子の母は暖かい地方の出身で寒いのが苦手だったらしく「早くこんな寒いところから出て行きたい」と、いつも怒ったり泣いたりしていた。
さすがにその態度にうんざりした父は会社を早期退職して、母の実家近くに引っ越して行くことを決めたのだと言う。
律子が23才の時だったらしい。
律子は、仕事もしているし収入もある。と言うことで、両親に付いて行くことは考えなかったが、
「付いていかないからこの家を私に頂戴」と両親にお願いした。自分達の我が儘を理解していたのか、又は律子に対しての後ろめたい気持ちからか了承してくれた。
律子は両親と離れてから、6年ほどして紗雪を生んだ。
両親には結婚・妊娠・出産、どれも知らせていない。律子はプログラミングの仕事を在宅に変え紗雪を育てた。と聞いていた。
家族で住んでいたと言う家は、『澄鈴湿原』から北側に2km程離れた所で、街中からもちょっと遠い場所だ。辛うじて車がすれ違える程度の道路がついてはいるが、周りには他の家も無い。学校へ通うためのバス停までは、自転車で5~6分南に走る。だから日中バス停には、紗雪の自転車が置き去りにされているのは学校や街に行っている証拠だった。
家の東側の雑木林を抜けるように緩い坂を30メートルほど下ると、水の湧いている池があった。そこは紗雪にとっては小さい頃からの遊び場だった。
小さい頃、雑木林へはお弁当を持って律子とキノコや山菜を採りに行ったが、お弁当を食べる場所は決まってアネモネやコスモスが咲く池の畔だった。
冬になってからも、その池にはたびたび行っていたが、今日は青空も覗いて風も無い。久しぶりに行ってみようか。
風も、ほわっと暖かく感じる。
「春が近いなぁ」
北国と言っても、寒いのは確かだが積もる雪は精々20~30cm位で大したことは無い。
狭い道は雪が少し残っている程度で、池まで歩くのには滑るのを気をつける程度だ。
凜とした静けさの中、その池はいつもと同じで、凍ることも無く静かに水を湛えて佇んでいた。
「きれい・・」
ちょろちょろ と、池から溢れる水の音がなんとも清々しく心地よい。
「コォー」鳴き声と共に一羽の白鳥が池に降りた。
この池は、広いところでも幅が10mも無い小さな池だ。
飛んできた白鳥の姿を見て、「そう言えば」小さい頃、一羽の白鳥が池にやって来ていたのを思い出した。その白鳥が春になっても帰ること無く池にいたのが嬉しくて、学校から帰ると池に走って行っては「ただいま」と声を掛けていた記憶がある。
「あの白鳥はどうしたんだっけ?」
ある日を境にその白鳥を見ることが無くなった気がする。
「きっと北に帰ったんだね」と母と話していたのだ。あれは何時だったろう?
そのことを思い出そうとすると、何故か泣きたくなる。
池に「白鳥が来た」と感激していた紗雪だったが、降りてきた白鳥をみて驚いた。
「あれ?皓貴?」頭の中でその名前が浮かんだ。
「こうき。こうき」と呼んでみると、「コォー」と返事をする。
池の水を掻きながら泳いで来て、池畔を歩いて向かってきた。そして皓貴が紗雪の前まで来ると、
「さ ゆ き」と呼んだ。
「えっ?えーっ? も・もしかして喋った?」
紗雪は怖くなって逃げようと後ずさりする、
皓貴は咄嗟に羽をばたつかせ、紗雪の前に飛んで来て、逃げ道を塞いだ。
皓貴が話を聞いて欲しいとその場に座り込んだ。首の付け根辺りからお腹にかけての、もふもふ感があまりに可愛らしいので、話を聞いても大丈夫だろうと勝手に思いそこに佇んだ。
「紗雪が湿原に遊びに来て、名前を呼んでくれるのが嬉しくて、今日はまだか・今日はまだかと紗雪を待つようになったよ。そしていつの間にか紗雪に恋をしている自分に気がついた。だから紗雪とずっと一緒にいたいと思う。もうすぐ皆は故郷に帰るけど、僕は帰らずにここに残りたいと家族に伝えた。・・家族は、紗雪の気持ちがお前にあるならば残っても良いと言ってくれている。だから、紗雪の気持ちを知りたくてここへ来た」
紗雪は、
『この白鳥、何でこんなにすらすらと喋れるの?』と、信じられない光景にボーとしてる。
「あの、どうして言葉を話せるんですか?それとも、私があなたの言葉を理解できているのは、・・これは夢だから?・・・・」
「紗雪も美山市の絵本読んだでしょ。白鳥人の・・・」
「あれはただの物語で、作り話でしょ」
「うーん、僕たちの言い伝えとはちょっと、と言うか、かなり違ったりするんだけど、『白鳥人』がこの街を作ったのは本当の話しだよ。この通り、僕も人間の格好が出来るし紗雪の父親も『白鳥人』だったでしょ?」
いつの間にか人間の格好をしている皓貴は、きちんと人間の若者に合った服も着ている。兎に角背が高い。二重の目も大きくて鼻も高く、白鳥だからか色白の外国人のような、ずいぶんイケメンな青年だ。
「えっ?私が『白鳥人』のむすめ・・・?」
「そうだよ。君の影には白鳥が見える。『白鳥人』の子供の証拠だよね」
『白鳥人』だけが見ることが出来る影だ。
紗雪はショックだった。ここの伝説が、本当の話しだと言うことも信じられなかったが、自分の父親が『白鳥人』だったなんて・・・。
ずっと人間として生きてきた。白鳥が大好きだけど、白鳥になりたいとかは思ったことが無かった。まあ、時々は空を飛んでみたいと思うことがあるくらいで・・・。
「えーと。ずっと一緒に居たいってどういうこと?」
「僕と番いになるって事。あー・・番いって、結婚するってことね」と、軽いノリで話す。
「番?結婚?・・・・」首を捻る紗雪の口から、言葉が出て来なくなった。
❄ ❄ ❄
「さゆきー、さゆきー・・」母が呼んでる。
すぐに姿を見せた律子だけれど、池の畔で若者と向き合って硬直している紗雪を見て全てを理解した。
「あなたの名前は?」若者に向かって尋ねた。
「エーリクです。サユキからは皓貴と呼ばれています。・・・紗雪のお母さんですね」
「・・そうよ、エーリク。私の家に行きましょ。・・・・ここは私と紗雪には寒すぎるわ」
そう言って紗雪の腕を掴んで歩き始めた。
その後ろをエーリクも黙って付いていく。
居間には大きな薪ストーブの炎が赤々と揺らめいて、ストーブの上のヤカンからは湯気が勢いよく吹き出ていた。
ショートカットの利発そうな律子は、蜂蜜入りのホットミルクをソファに腰掛ける二人に渡した。
「おいしぃ」小さな声で紗雪が呟いた。
「この部屋、暖かいですね。こんなに暖かいところはじめてです」エーリクは上着を脱ぎ、薄着になった。白鳥には熱すぎるのだろうと紗雪はエーリクを伺った。
三人が何も言わずホットミルクを啜っていて・・・、律子がまだミルクの残っているカップを目の前のテーブルに置いた。
「紗雪にもこの時が来たのね。・・・・」
「フー・・」と一息ついて話し始めた。
「あれは、父と母がこの土地を去ると言った頃から始まるわ。
一人っ子だけど家族3人仲良く暮らしていて、お金持ちじゃ無かったけれど幸せに暮らしていたの。
もし誰かと結婚したとしても両親を大事にしながら、両親の近くで暮らして行きたいなぁ、漠然とだけどそう思っていた・・。
ところが突然、暖かいところに引っ越すって言うじゃない。それもすぐに会える距離じゃ無い。私には何の相談も無かったから、私を連れて行く気が無いんだなと思ったのよね。
両親は、行きたいなら一緒に行っても良いと言ったけど、それって仕方なく連れて行くって事でしょ。
解ってるのよ。もう独り立ちしなさいってことを言いたいんだなって・・。でもね、いくら成人していたとは言え、・・・私が残る決心をするとしても、引っ越しの相談くらいはして欲しかった」
「あんなに大好きだった両親を、もう見るのも嫌になって、口も聞きたくなかった。だからね、もう口も出さない、会いにも行かない。・・親子の縁を切っても良いからこの家だけは頂戴って言ったわ。たった一人の娘にそこまで言われて、両親も引っ越しを自分達だけで決めたことを詫びたけど、許す気も無かったしね。どうぞ御勝手に!って、それきり部屋に籠もって、親とは話しもしなかった」
「私も強情張りなのがいけないのよね。相談されなかったことが淋しかったとか、悲しかったって言えれば良かったのに・・・・、まぁ、この家を残してくれたのには感謝している・・・・」
ハードな内容の割には淡々と語る母。
「紗雪が知りたいことはこの後から始まるのよ。ふふ」
律子が窓の外に目を移して続けた。
「一人っ子で元々寂しがり屋なんだけど、友達も少ないし行くところと言ったら決まってるよね」
「澄鈴帯?」紗雪が言う。
「そう。仕事が終わってからとか、休みの日にはおにぎりと熱いお茶を入れた水筒を持って何時間も湖を眺めたり・・・・、他にも見に来てる人が沢山いるから、自分一人じゃないって、少しは寂しさも紛れたのよね」
「そのうち冬になって、沢山の白鳥が来るじゃない。ある群れに、大きいけれど飛び方が優雅で、そしてその姿が綺麗な白鳥がいたの。もう綺麗すぎて目が離せなくなって・・・。その白鳥に『李白』って、自分だけが解る名前を付けて・・益々湿原に通っては、夢中になってその白鳥を探すようになった」
「ある日、さっき貴方たちがいた池の上空を一羽の白鳥が飛ぶのが見えたから池に行ったのよ。あそこは小さい時からの大好きなお庭の一部だけど、池があの通りで白鳥が降りるには小さいじゃない。だから子供時代から通ってても、白鳥が降りて来たのを見たことが無かったの」
「池に降りてきた白鳥は、そう、今貴方たちが思ったとおり、あの綺麗な白鳥だった。・・後の紗雪の父親になる人」
「白鳥人だったの?」紗雪が興奮した声で言った。
「私もそんな話し信じていなかったから、ここにいるエーリクと同じで、人間に変身した姿を見たときは本当にビックリして腰を抜かしちゃった。・・そんな私の手を取って立たせてくれて、僕を君の旦那さんにして下さいって言ったのよ。きゃー・はずかしぃ・・・・」
「うふふふ・・・」嬉しそうにはにかんでいる瞳に、零れそうな位涙が浮かんでいる。
「おかあさん?・・大丈夫?」
涙を手の甲で拭った母が
「ごめんね。あの人のこと思い出しちゃって・・・・」
フーっと又小さな溜息をついた。
「暫くは幸せだった。『白鳥人』が現れると役所に届けることになっているんだけど・・・、
あぁ特別な部署があるのね。誰にも知られず戸籍を作ってくれて、仕事も家も用意してくれるの。幸い家はあったし、役所の仕事に就くことが出来て・・・・。一緒に暮らし始めてから、なかなか子供が出来なくて・・紗雪が生まれたのは6年目くらいしてからだったかな。覚えていない?良くあなたを連れて、湿原や裏の池に散歩に行っていたのよ。ただ、それが出来たのもあなたが9才位までかな」
そう言われて紗雪は思いだそうと目を瞑り、昔に思いを馳せていた。
「小さい頃裏にあるさっきの池には良く行った記憶はあるよ。でも隣にはいつもお母さんが、おにぎりとおやつが入ったバックを持っていて・・・あれっ・・わたし誰かと手を繋いでいる?この人の顔は・・・?顔が解らない。横顔は・・・笑っているみたい。そしてとっても背が高い人・・・」
そう言って、「はっ」と紗雪は目を開いて律子を見た。
「思い出したみたいね」
「パパ、死んじゃったんだね」
律子に向かっていたエーリクの視線が、静かに紗雪に向かった。
「紗雪はお父さん子でね、あの人が死んだって知ったらショックで泣き過ぎて・・、過呼吸で倒れてしまったから慌てて救急車呼んで・・・・。だから、あなたが入院している間にあの人を思い出す物を全部隠してしまったの。何日も眠ったままだった紗雪が目を覚した時には、パパのことは忘れてしまったみたいだった。心の中の辛いことを排除してしまったのね。それからずっと思い出すこともしなかったみたい」
「お父さんは、どうして死んじゃったの?病気だった?」
律子はエーリクを見て答えた。
「『白鳥人』しかならない病気でね・・・。エーリクはこの病気知ってる?」
エーリクは小さく頷いて答えた。
「変身不可能状態・・・死しかない・・・」
『白鳥人』は人間になれても、いつでも思うように白鳥に戻って飛ぶことが出来るし、又直ぐに人間の姿にも戻れる。
ところが『白鳥人』が白鳥に戻ってから、人間の姿に戻れなくなると一気に白鳥としての老いが現れてしまう。何年も人間として暮らしていたなら白鳥としては寿命が過ぎていることになるからだ。
生きて行くため、白鳥から人間に戻れる有効期限は、長くて10日と報告されていた。
愛する人と長く一緒にいたい。だから人間に変身するのに、突然それが出来なくなる病気。なぜ変身出来なくなるのか、原因は分かっていない。
人間として生きるならば50年以上生きる事が出来る。でも白鳥に戻った時点で、寿命が尽きることが殆どだ。個体差があるとしても白鳥が長生き出来る年数は、精々20年前後。
「春の匂いがする風が吹いて暖かくなった頃、あの人が人間でいられなくなっても、1週間ほどは白鳥の姿でさっきの池にいてくれた。私は紗雪を連れて毎日会いに行ってた。なるべく長い時間を一緒に過ごそうと思ったから・・・。でもあの日、あの人はもう話すことも泳ぐこともやっとのようだった。
池の向こう岸においでと言って・・、私は紗雪の手を掴んで畔を歩いて向こうに行ったわ。・・・・・
そこには、そんなに深くは無かったけど、大きな白鳥が横たわるには十分な穴が掘ってあって・・・・掘った土が脇に盛られていて被せるだけにしてあった。
穴の周りには、私たちが好きな色とりどりのアネモネの花がびっしり咲き乱れて・・・・
私は、クラウスが・・李白が居なくなることが信じられなくて、何も考えないようにしていたのに、あの人は・・・、自分のお墓を準備して・・・私たちが好きな花を植えていたのよ。・・・
最後に、
『幸せだったよ。ありがとう律子って。さよなら、僕の可愛い紗雪って』・・・その穴に眠るように横たわって・・・・・・・。白鳥が父だと知らずに綺麗な花に夢中になっている紗雪に、白鳥さんにさよならをしましょうって、一緒に手を合わせてから・・・土を被せてあげたわ。何日かして紗雪にはパパが死んだことを教えて・・・救急車呼んで・・・」
たった今まで静かに語りかけるように話していた律子が、涙を流し感情をむき出して言った。
「エーリクは怖くないの?もし紗雪が結婚しても良いと言ったとしても、貴方が何時まで一緒にいられるか考えたことある?・・子供が生まれるまで?生まれた子供が結婚するまで?それとも紗雪と共に老いることが出来るまで?・・・或いはどれも叶わないかも知れない。・・それでも人間と・・・・、紗雪と一緒になりたい?私は、紗雪には白鳥人と結婚して欲しくない」・・叫ぶように問い詰めて慟哭する律子に、エーリクと紗雪の声が重なった。
お母さんは(貴方は)お父さん(クラウス)と一緒になったことを後悔しているの(後悔していますか)?
「・・・・後悔なんかしていないわ。あの人を本当に愛してたもの・・・・。でもこんな辛い思いは紗雪にはして欲しくない・・」
興奮する律子を落ち着かせるため、紗雪とエーリクは一度外に出た。
❄ ❄ ❄
二人とも無言で裏の池まで歩いた。
律子の言っていた池の反対側に歩いて行く紗雪を、エーリクは黙って付いてきた。
反対側は日当たりが良い所為か、雪が溶けて土が見えている場所がある。そこに、一重や八重の紫と白とピンクのアネモネが少しだけ咲いていて、殆どがまだ堅い蕾だ。父が亡くなってから9年くらい経っているので、蕾の数から解るように、アネモネが自然に増えて群生していた。もうすぐ一帯が見事な花畑になるだろう。
アネモネの花を律子が好きなのは知っている。一重から八重の可憐な花が家の花壇にも植えてあって、二人でよく眺めているから。だけど、父も好きだったなんて初めて知った。
父のお墓だろう、周りより少しふっくらと盛り上がっている場所があった。
紗雪はしゃがんで、手を合わせた。黙っていても涙が溢れた。
後ろでエーリクも手を合わせていた。
「紗雪、今日は帰るよ。・・・僕だって病気が怖くないわけじゃない。でも白鳥人として紗雪と暮らしたい。本気で紗雪が好きなんだ。・・・周りの景色を見たらわかるだろうけど、そろそろ僕たちも北へ帰る時間が迫っている。なんとかそれまでには紗雪の返事が欲しい。お願いだから僕の気持ちを受け入れて欲しい・・・・・それじゃ、又来るね・・・」
そう言って、白鳥に戻った彼が飛び立った。
「きっと澄鈴湿原の仲間のところに行ったんだろうな」
「でもね・お父さん、どうしたら良いかわかんないよ。彼氏なんていたこと無いし・・・・、だからお付き合なんてしたことも無い。それに、私まだ18才だよ。結婚なんて考えられないし、したくない。どうしたら良い?・・」
しゃがんだまま、盛り上がった場所とその上に咲く花に紗雪は話しかけた。
❄ ❄ ❄
律子もエーリクもそれぞれに悩んでいた。
湿原の群れに戻った彼は、群れの仲間達から責められた。
その中で母は優しかった。
「又あの女の子を追いかけてたんでしょ。いつも皓貴って呼んでいて、可愛い子よね。貴方が夢中になるのも解るわ」と母が嬉しそうな笑顔で言うと、
「私はお前が『白鳥人』になるのは反対だ。あの娘は、例の『白鳥人』の娘なんだろう?」と、父はムスッとしながらも紗雪の父の話を始めた。
「お父さんその『白鳥人』を知ってるの?」
「ああ。ここに来ている族長や、歳取った白鳥の殆どが知っているだろうよ。会ったことは無いから話だけだけどな。この国での名は李白だったと思うけど、元々はクラウスとか言っていたと思う。
クラウスは北欧の北の方で生まれたヨーロッパ系の白鳥らしい。私たちはシベリアから渡ってきたが、私たちが何故ここの湿原を知ったかというとそのクラウスのおかげだ」
「ここに飛来する群れの長達が、翌年は何処に飛来するか話し合っている所に居合わせたことがあってな・・・、若いときだから、もう何年も前の事だよ。
お前も勿論知っている事だが、世界中には白鳥だけでなく渡り鳥たちが休める湿原や湖が沢山ある。小さな所から広大な場所まで沢山あった。白鳥もそれぞれの群れが好きなところへ行ってた時もあった。その頃は翌年の場所についての話し合いなんて無かったからな。
ところがだ、現地で病気になったり、死んだりする渡り鳥が増えて問題になったんだ。理由は簡単、農薬だ。
降り立つ湖近くの農地に、多くの農薬が使われていて、餌とする作物にも残っていたんだ。おまけに、雨などによってそんな農地から、湖や池まで農薬が流れ込んで汚染されてしまい、多くの渡り鳥、白鳥が被害を受けてしまった」
「春が来て、なんとか生き延びた白鳥の群れが北に帰った時に、ある群れの長がこっそり教えてくれたんだ。それがここ、澄鈴湿原なんだそうだ。
何でも、『白鳥人』として役所で働くことになったクラウスは、白鳥達から農薬で苦しんでいる窮状を知り、役所に掛け合ってこの湿原を白鳥が安心して休める場所にしたいと。そのために農家に農薬の減薬や代わりに使える薬の開発をお願いしたのだそうだ。
ここは『白鳥人』が作った街だから、役人もすぐに行動したらしい。こうして今の澄鈴湿原があるし、ヨーロッパでは特に農薬による規制が強くなったそうだ。この国でも少しずつだが広まって行っている。そういう意味で、クラウスの名前を知っているし、ある意味彼はヒーローなのだと。・・・・・だからクラウスの娘と一緒になることは光栄なことなんだと思う。
だけどなぁ・・・お前は、クラウスの死んだ理由を知っているのか?」
「さっき、紗雪のお母さんから聞いた。変身不可能状態だったって」
「はー・・、やっぱりそうだったのか。・・『白鳥人』になって10年以上経ってからその病気になる奴がいると、数は少ないが報告されていてな・・・・遺伝じゃ無いかも知れないし・・・原因は分かっていない。白鳥人になった皆が皆、その病気に掛かるわけでも無い。・・でもお前にはそうなって欲しくないから反対するわけで・・・・解ってくれよ。子供には唯々、幸せになって欲しいだけなんだ」
そこまで聞いてエーリクが言った。
「お父さんの気持ちは分かるよ。僕だって病気になんかなりたくないから。でもね、考え方によると思うんだ。だって、白鳥のままなら、事故やそれこそ病気にならない限り、殆どが20年前後しか生きられないだろう。『白鳥人』なら人間と同じ位、今からでも50年前後は生きられる。そして病気に罹る確率は、『白鳥人』になって、10年以上経ってからだ。それなら紗雪と・・、好きになった女性と一緒に暮らす方に賭けたい!」
「そんなにあの子が好きなのか。・・・・・
そうか・・・それなら仕方・・・それよりお前あの子から一緒になる事を了解して貰ったのか?」
「それは・・まだ です」
「は~・・・。私たちの群れは、あと7日でここを経つ事になっている。それは解っているな」
「はい・・・・」
「なら、それまでにあの子から了解を得ることが出来たらここに残っても良いことにしよう。・・しかし、あの子は人間としてはまだ若い。良い返事が貰えないなら、彼女を困らせないできっぱり諦めなさい」
エーリクの父はそう言って、集まっている皆の方へ向かった。群れの仲間達は、エーリクを見ている。何か言いたいのだろう。
白鳥のままのエーリクは父との会話にがっかりして、長い首を背中に埋めて皆からの質問を受けたくないポーズを取った。
心は決まっている。「残りたい・・・」
❄ ❄ ❄
その頃律子も悩んでいた。
いくら李白との別れが辛かったとは言え、紗雪とエーリクのことは本人達が決めることだ。
ただ紗雪のことを思うと、解っていても黙っていられなかった。
それにまだエーリクと一緒になることは決まっていない。池でのやりとりを聞いていたら、エーリクは紗雪に恋してるみたいだけど、紗雪の心はそこまでではないようだし。 高校を卒業したばかりで、異性と付き合ったことも無い紗雪が、結婚なんか考えられる訳がないと自信を持って言える。
『白鳥人』の李白が父だと紗雪には知られたというか、思い出させてしまった。もう隠しておく必要もないし、紗雪に思い出の品の入った箱を返そう。
❄ ❄ ❄
池の畔にある父の墓前に暫くいた紗雪だったが、日が陰ったせいで急に寒くなった事に気がつき、家に帰ってきた。
家に戻ると、母が二階の物置部屋から何か箱を持って降りてくる所だった。思いっきり泣いた目が、まだ赤く腫れぼったい。
言葉も無く紗雪の手に渡された箱は見覚えがあった。
「疲れたから夕飯は簡単にシチューにするね」そう言って律子は台所に消えて行った。
「うん。ありがとう」
簡単にと言ったけど、シチューは紗雪の大好物だ。
渡された箱を部屋に持って行って開けてみた。あんなに泣いたのに涙が溢れてくる。
あの池をバックに撮った家族写真。それをみて父の仕草をしっかり思い出し、声も蘇る。
「可愛い僕のサユキ」と頬ずりする父。サユキと呼ぶときはたどたどしく聞こえるけど、外国人のような、背が高くてハンサムな父が大好きだった。いつも抱きついていた。小さいときに書いた、優しく笑う父の似顔絵も箱に入っていた。思いでの品々を出していると、箱の一番下に・・・和紙に包まれた、10本の大きな白鳥の羽が出てきた。色は褪せていたけど、無理矢理抜いたのだろう芯の先が薄らと赤っぽい物が付いたままだった。
美山市でも白鳥の羽根は人気だが、簡単に手に入る物ではない。白鳥の換羽期は夏だから、北の繁殖地でしか羽根は手に入らない。ここでは、たくさんの白鳥達から、偶々抜け落ちた羽根を拾う程度なのだ。それなのに、この立派な羽根・・・。
「パパ・・、痛かったでしょう?・・・私達に残してくれたのね・・。ありがとう・・ありがとう・・・」
❄ ❄ ❄
夜、今日起こったことを考えるとベッドに入っても眠れないでいた。
エーリクからの告白で、白鳥人が実在することを知った時でも、まだ信じられないとか怖いとか思ったけど、父の事を思い出してから、白鳥人の愛情の深さは・・勿論個々に依るものだろうけども、人間と何ら変わらないと思えた。
「エーリクの事はもう一度会ってから、よく話し合おう・・」そう考えることで、やっと眠りにつくことが出来た。
翌日、エーリクが家を訪ねて来てくれた。母がいない事もあって、二人で又池に向かった。道中、昨日の父からの残された『羽根』
の事を紗雪が話し出した。
『白鳥の羽根』は、他の土地でも人間に重宝されていて高い値で売られているのは知っている。
李白は、紗雪と律子が生活に困った時のためにと残してくれたのだろう。・・それでも10本だなんて・・・。いくら死に際だったとしても、自分で10本も抜くなんて、どんなに痛かっただろう。クラウスの、家族への大きくて強い愛を思い知った。
僕も大きな愛を持てるだろうか?
「あのね、昨日はエーリクのこと、『白鳥人』のことをよく分からなくて、信じられなかったし怖かった。でもエーリクが本当に私のことを好きでいてくれるなら・・・ちょっとは考えて見ようかな・・・」
「本当に?僕と結婚してくれるの?」・・・やったぁ」
「ちょっと待って。いきなり結婚は無理だよ。せめて、一年くらいはお付き合いしてから考えたいんだけど・・・」
「えっ・・・・一年?・・」
「だめ?私、男の人と付き合ったことがないから・・どうして良いか解らなくて。・・まして結婚となると・・・」
「・・・うん・・良いよ。僕、今年は北へ帰らない。ここに居て、紗雪と一緒に居られるようにする。澄鈴帯にいるようにするよ」
エーリクは紗雪の父のように、強い愛情を持ってすればなんとかなると思った。
それは、紗雪も同じだった。
「好きでいてくれるなら、・・・ずっとここに、美山に居てくれるんでしょ」
❄ ❄ ❄
エーリクが家族と別れるとき、紗雪も澄鈴帯に来ていた。
エーリクが群れの皆に別れの挨拶をしているとき、エーリクの父が紗雪に話しかけた。
「白鳥の寿命は知っているかね?」
「はい。20年前後ですね」
「エーリクは人間で言うと、既に20才は越えているんだ。来年は25才、次は30才を越えるくらいになる。自分の子供を育てることを考えると、あと一、二年で適齢期を過ぎてしまうんだ。もしこの一年で結婚を決められないのなら、エーリクに別れを告げてくれないか。・・・君はまだ若いから、エーリクで無くても大丈夫だろう。宜しく頼む」と、
『反対されているんだ』と思ったが、それを聞く言葉を探している内に、スーと泳いで行ってしまった。
春を過ぎても一羽の白鳥が残っていると、澄鈴帯に多くの観光客が見に来るので、エーリクはなかなか人に変身出来ないばかりか、紗雪とも会えないでいた。
夜中に人がいなくなったのを見計らって、紗雪の裏庭の池にやって来た。
澄鈴帯に来た人達は、とうとう帰ったのね。残念!と、エーリクがいなくなったことを諦めてくれた。
勤めだした紗雪の休みに合わせて、二人でデートを重ねた。映画に行ったり、おしゃれなカフェに入ったり、人間のカップルと同じようにデートを重ねた。一緒にいることが当たり前になったし楽しかった。・・・それでも紗雪は、結婚のことは考えられなかった。
律子はそんな二人に何も言わず、見守っていた。
❄ ❄ ❄
今年の夏は暑い。梅雨が明けてから一気に気温が上がってきて、35度近い日が5日も続いていた。
仕事が終わってからは、池に顔を出してエーリクに会いに行っていた。
湧き水で出来た池だけど、水の湧く量は少しずつなのと、小さな池なので気温に左右されやすく、このところの高温で池の水温も上がってきていた。
池から上がって、ふらふらと人に変身したエーリクの様子がおかしい。紗雪の方を見ているが、焦点が定まっていない。身体もまっすぐ歩けない。身体が揺れたと思ったら地面に膝をつき、身体を横にしてしまった
「エーリク?大丈夫?・・・」
「サ・ユ・・キ?・・サ・・・ユ・・キ?」
「エーリク?エーリク・・。直ぐもどるから
待ってて!」
走って家に戻り、律子に「エーリクが・・」と知らせた。エーリクの状態を知って冷凍庫の氷をあるだけバケツに入れて、タオルと一緒に持たせてくれた。
「先に行ってて。直ぐに行くから」と。
エーリクの身体の上や周りに氷をばらまき、身体全体をタオルで隠しその上から池の水を掛けた。
「エーリク、エーリク、死なないで、死んじゃ嫌だ。私と一緒になるんでしょ。結婚するんでしょ。お願いだから・・・」そう言いながら零れた冷たい水を、エーリクの顔に掛けてあげていた。
「んっ・・・」少しだけエーリクの目が開いた。
その時、
「どいて下さい。今から病院につれて行きます。貴方は後でお母さんと来て・・」
男達3人が手際よく身体を冷やすシートをエーリクに被せ、車載用ストレッチャーに乗せて連れていった。後をやっとの思いで追いかけてくると、家の前には律子が立っていた。
「お か あ さん、(ヒクッ・)エ エーリクが、エー リクが・・・アー・・」
紗雪は狂ったように泣き叫んだ。
「しっかりしなさい。病院に行くわよ」そう言って紗雪の肩を抱いて助手席に乗せてくれた。
どうしよう、どうしよう・・・エーリクが死んじゃったら・・・・車の中で紗雪は、その言葉だけを繰り返した。
❄ ❄ ❄
病院に着くと役所の担当者が入り口で待っていた。人差し指を口に当て、何も言わないように合図した。早足で後を付いていくと、入院棟とは別の奥まった建物の一室の前で扉を開けてくれたので、私たちは中へ入っていった。中は広くて立派な個室だった。
大きなベッドに横たわり眠っているエーリクの腕に、何本かの管が繋がっていた。
「間に合って良かったです。数日で退院出来ると伺っています。安心して下さい」と対応してくれた役所の男性が言った。
「あの・・・エーリクは・・その・・」紗雪はエーリクが『白鳥人』だとなかなか言えない。
知れたらエーリクの身に何か起きるんじゃないかと思っているからだ。
しかし、その思いを解っているように役人が言った。
「宮永さんのお母さんから、『白鳥人』がいるという情報を頂いていたお陰で、早くから体制を整えることが出来ました。この部屋は、『白鳥人』のために作ってあります。姿が白鳥の時でも対応できるのです。治療費、入院費、全て基金から出ますから何も心配要りません。
白鳥人はここ数年やってこなかったので、とても嬉しい出来事なんです。彼を大事にするつもりです。仕事や住まいもお世話出来ますから安心して下さい」
そう言って「何かあったら連絡を・・・」と、『神谷』という名前の付いた名刺を差し出して帰って行った。
その後を母も続いて行った。
流れる涙を拭うこともせず、眠るエーリクの点滴針の刺さっていないほうの手を熱の籠もった紗雪の両手で包み込んだ。
❄ ❄ ❄
家では、役人の神谷さん、すっかり元気になったエーリク、そして律子と紗雪の4人が、話し合いを行っている。
二人が知らないうちに律子が話を進めていたようで、話し合いと言うより決定事項を伝えられている状態だ。
母は、この家でエーリクと紗雪が暮らすようにと言った。ここに住めば、いつでも人の目を気にせず池に浮かぶことが出来るだろうから。
「ストレス解消にいいでしょ」と親指を立てた。
そして律子は、会社に近いアパートに引っ越すという。
役人は、エーリクの仕事について「澄鈴湿原」の管理の仕事をお願いしたいと言った。飛来する白鳥達が困らないよう話を聞いて、出来るだけのことをしてほしいと。予算も十分あるから、必要なことは遠慮せず申請して構わないと言ってくれた。
これには律子も紗雪も喜んだ。何せ、李白と同じ仕事を受け持つからだ。
律子が李白の事をちょっとだけ聞いて欲しい、と話し出した。
「李白は、白鳥達が農薬に苦しんでいると聞いて、美山市が昔から育てている『藍』を農薬の代わりに出来ないか研究して欲しいと役所に提案したの。・・・それがとても上手く行ってね。野菜などの防虫だけでなく、病気の改善や肥料の代わりにもなる事がわかって、動植物には影響を与えないって・・、ここの農家達は皆この「藍エキス」を使っているの」
「エーリク・・、家族や群れの皆さんに安心してここで休んでください。と、伝えてね」
市役所の神谷さんも、
「李白さんは本当に凄い方でした。美山市のスーパーヒーローなんですよ。本人が目立ちたくないからって、『藍エキス』の発案者名簿に名前を公表していないんですから。・・・『美山藍』は昔から美山市が大事に育て、染料だけで無く、様々な商品化には成功していたんですけど、『藍エキス』のお陰で市は一気に財政が潤いました。今では、世界中から注文が来ていますからね」と笑顔で話してくれた。
❄ ❄ ❄
こうして3人の新しい生活が始まった。
あれから、紗雪とエーリクは籍を入れ、律子の言葉に甘えてあの家で暮らし始た。
19才になったばかりの紗雪、若い白鳥人夫婦を役所もサポートをしてくれている。
今年もそろそろ寒い季節がやって来た。
10月の後半、澄鈴帯に今年一番早くやって来た群れは、エーリクの家族達だった。
『白鳥人』になると言った息子がどうしているのか心配で、早くやって来たのだという。
夜中に、律子と三人で会いに行くと、エーリクの両親は紗雪のお腹が少し膨らんでいるのを見て、「赤ちゃんがいるの?」と喜んでくれた。エーリクの母は、陸に上がって紗雪のお腹を翼の先で優しくなぞってくれた。何度も何度も・・。
父親は、前回紗雪に言った言葉を詫び、エーリクと一緒になってくれた事を「ありがとう」と言った。そして、
「私たち『白鳥人』になれる種族は、いつ頃からいたのかは解らない。けれど、昔から何故か人間に恋してやまないのだ・・・そしてその中から一人の人を見つけてしまう者がいる。そうなるともう諦めるのは無理で・・・。きっとエーリクは君を見つけてしまったのだろう」と、最後はエーリクに向かってそう言うと、エーリクも大きく頷いた。
なんと嬉しい言葉なんだろう。
私たち人間は、白鳥に嫌われないように生きていかなくちゃ・・。と強い思いを持った。
エーリクは、紗雪と繋いでいた手を強く握り直したのだった。
おわり
白鳥人(はくちょうびと)の住むところ 季暁 @tanabota77
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