第143話

 「紘くん……」やさしく甘い声。大好きだった声だ。


 部屋に引きこもるようになってから、南由の声はいつも陰気で、怯えているような響きが混ざるようになっていた。南由が好きなほど、聞くだけで心配が募り、神経がざらついたものだった。

 

 でもこの声は……。自然に笑みが浮かぶ。もう一度聞きたいと願っていた、南由が元気だった頃の声だ。聞いていると、南由がここにいる、という異常さなんかふっとんでしまう。


 「紘大君ったら!」と永里が再び腕を掴んで現実に引き戻す。


 「あ、ああ……。そうだな、ちょっと揺れるけど、アスファルトのせいじゃないかな。エンジントラブルではないから大丈夫だ」


 「そうかなあ……」と永里は首を傾げて考えている様子だったが、異常な揺れではない、と結論を出したのか、それ以上聞いてくることはなかった。


 そのかわり、あまえるように腕に抱き付いてきた。確かに長い直線の道路なので、右手だけでも運転できる。しかしミラーの中の南由の顔が怒りを帯びて歪んだ。ゾクッとして、永里を振り払ってしまった。


 「あっ、ごめん! 運転しにくいから……」

 「ううん。私がいけなかったね。運転、しにくいよね。ごめんね」


 永里はわかりやすく傷ついた顔になった。


 「ほんと、ごめん。反射的につい」

 「もう、いいよ。今日は楽しく過ごしたいし」


 永里は笑って、前をむいて座り直した。

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