卯の巻 壱

「そういえば、こんな話を知ってるか?」


 涼やかな風が、鈴虫の音色を乗せて優しく揺蕩う秋の夜。

 とある宿の縁側で、二人の男女が腰掛けていた。側から見れば、長い秋夜を紅葉の如く染め上げる、逢瀬の最中に映るのかもしれない。


「ぅん? なにか言ったか?」


 女が男に目もくれることなく、山盛りの団子に舌鼓を打っていなければ、だが。

 女の名は繚華りょうか。歳のころは二十代。たおやかで色白な腕を団子に伸ばし、艶やかな肉つきの唇へと運ぶ。表情の変化に乏しいながら、見目よく整った小顔には、咀嚼のたびに明るい色が浮かんでくる。頬張った団子を嚥下する頃には、落ちた頬を上げて、その味わいを美しい顔で顕していた。麗人に、ここまで綺麗な笑顔を出させることができれば、団子も冥利に尽きるというものだ。これだけの健啖家ながら、その体は精巧な硝子細工のように、細く透き通っている。慎ましくも確かに主張をする体の丸みを、お気に入りの朱色の着物で覆っている。

 

「いぃや。色気より食い気のお姫様にゃ、少し早いお話だったかもしれねぇな」


 男は女の態度に気落とした様子もなく、悪態をつきながら紫煙を燻らす。

 男の名は慈照じしょう。歳のころは三十代。後ろで僅かに束ねられる程度に伸ばした髪の毛と、顎に生やした無精髭、傍に置いた酒瓶からは、世捨て人に見えなくもない。しかし、酒瓶の反対に置かれた托鉢笠たくはつがさと、その身を纏う埃も汚れもまるでない漆黒の僧衣そうえ、肩にかかった藍色の略肩衣りゃくかたぎぬを合わせると、どことなく徳がありそうな気配はしてくる。精悍さと剽軽さのちょうど境と取れる顔つきに笑みを浮かべて、煙管と緑酒を嗜む姿は聖職者らしからぬ姿だが。


 寄り添うとは言い難く、けれど離れることはない。

 互いが互いを気にかけることもなく、されど不思議と同じ場所にいる。それが、この二人の距離感である。


 串が皿に置かれる軽い木の音と、酒瓶が傾いて響く水の音だけが時折聞こえながら、長夜は静かに更けていく。


 繚華は脇に置かれた緑茶を啜る。その熱はだいぶ冷めてしまった。残りも少なくなってきた団子に手を伸ばすついでに、隣で寝転がる慈照を見る。このまま放っておくのも悪くはないが、箸休めに話しぐらいはしたい。団子を楽しんだその口が、清く澄んだ声を紡いだ。


「なんだったんだ、さっきの話は」

「んん? あぁ、なんだっけ?」


 目元を擦りながら、酒焼けした声で慈照は返す。


「酩酊するほど呑んだのか。お酌もなしにすまなかった」

「ひとり酒もたまにゃ悪くな――あぁ、思い出したよ」


 どこか覚束ない様子で体を起こすが、その顔の色には寸分の変化はない。常のへらへらした姿も相俟って、酔っているのか、そうでないのかよくわからない素振りを見せながら、慈照は空を眺めて話を続ける。


「おれの地元の御伽噺でな。空を見てごらん」

「空、とな」


 歌うように話す慈照に釣られて、繚華は空を仰ぐ。そこに浮かぶは真円の月。太陽とは比べるべくはないが、黄金色の淡い光の淑やかな眩さには、静謐な秋夜にふさわしいまでの美しさがある。繚華はほんのりと目を伏せた。


「お月様にゃが住んでるんだとさ」

「えっ、そうなのか?」

「あぁ。月には多くの――穴ぼこがあるんだけど、それが、ウサギが餅をついているように見えたそうな。ちょうど、この辺りでもそれは一緒みたいだな」


 虚空に浮かぶ月に目を細める。言われてみると、黄金に輝く月の表面には黒い穴が見てとれる。手に持つ団子でその輪郭を結んでみれば、なるほど、長い耳のウサギに見えなくもない。それに気づいた時に浮かべたはんなりとした微笑みを、慈照は見逃さなかった。


「いやぁ、綺麗な月だ」


 見開かれた茶色の瞳は、満月に負けじと輝いている。遠く離れた月へと寄せられていた。

 今までの旅の中で、幾たびか繚華は餅をついている様子を見たことがある。杵を振るう人と餅を捏ねる人とが息を合わせて繰り返し繰り返し餅をついていたか。息の合った掛け声と、木々のぶつかる柔らかな音が重なり合って、見応えのある楽しい物だったことをよく覚えている。


 そんな餅つきの様子を思い出すと、その双眸に翳りが生じる。


「慈照、気になることがある」

「なんだ?」


 月が見せる貌には、確かに杵を振るう兎がいる。だが、どれだけ探しても隣で餅を捏ねる相方がいないのだ。


「なんで、ウサギは一人で餅をついているんだ?」

「……さぁな、おれもそこまでは知らねぇや」


 これだけ離れていてもはっきり見える月。これだけ大きな月に、たった一羽でいるウサギ。その姿を想像すると、


「――それは、随分と寂しいな」


 思わず言葉が漏れていた。酒瓶を傾ける慈照の手が止まる。


 月へと向けた明るい羨望が影を潜める。手にとった団子を口に含む。まろやかな風味に変わりはない。それでも、僅かながらの塩気があるのはどうしてだろう。


「冷えてきた。そろそろ寝るか」

「……そうだな。眠くなってきた」

「精つけとけよ。明日は久々の街だ」


 縁側と寝室を隔てる襖がぴしゃりと閉まり、僅かな灯がふと消える。

 月の光が差し込む闇夜には、ただ虫の囀りだけが響き続けていた。


 ***


 そこゆく嬢さん、お一人かい?


 月夜は怖いよ、危ないよ。


 月には寂しがりの兎がいるんだって。

 ひとりぼっちだと、月に連れてくんだって。


 怖いねぇ。怖いよぉ。


 ぼくも一人、お嬢さんも一人。


 だったら、二人で一緒にいようよ。


 そうすれば、一人じゃないよ。


「いやっ! "奪兎だっと"⁉︎」


 なんで、怖がるの?

 どうして、逃げるの?


 二人一緒なら、悪い兎は来ないんだって。


 おっと、悲鳴なんてもってのほかだ。

 兎は耳がいいからね。


「誰か、助けっ――」


 喉は潰してしまおう。

 まなこいてしまおう。

 逃げる脚は切り落とそう。


 さぁ、これでもう怖くない。


 叫ぶ喉で、兎を呼ぶことも無くなった。

 丸い眼で、怖い物を見ることも無くなった。

 細い脚で、逃げる必要ももう無いよね。


 さぁ、が待ってるよ。

 楽しいところに、旅立とう。

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