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女は甘えるように言った。
「ねえあなた、ここで恵理に何を言われたの? 『わたしが殺した証拠』って、なんのこと?」
「恵理は俺がこの部屋に上がり込んでからしばらく、怯えてだんまりを決め込んでいた。だから仕方なくて、ガキを銃で脅した。とたんにあいつは『静江が犯人だ。証拠もある』とわめき出した」
「内容は話したの?」
「昨日の晩、兄貴の家で殺人を目撃した――そして、あんたに買収された――あいつはそう言った。現金で1000万。金は駅のコインロッカーにしまってあるそうだ。それを持って来させれば、立派な証拠になる。あんたの指紋だって残っているかもしれない。だからガキを人質にして、取りに行かせた。ところが、あっという間にパトカーに取り囲まれちまった。もう、あんたを連れて来させるしかない。破れかぶれさ」
女は冷静に断じた。
「自殺行為ね」
「今になって考えれば、確かにそうだ。だが俺は、はなから犯人だと決めつけられていた。動機はあっても、アリバイはない。考えている余裕なんかない。だからパトカーの巡査に『着替えを取りに行きたい』と頼み込んで、隙を突いて逃げ出した。拳銃を奪ったのはただの偶然さ。俺もいい歳をして、しょんべん臭い小娘に振り回されちまったわけだな……。しかし、咄嗟にあれだけの作り話を、よくもまあ……」
「恵理だって、女ですから。しかも、一応は母親。嘘はお得意よ。でも……」
「でも、なんだ?」
「わたしが殺した証拠だっていうお金が、もしも前もって考えていたトリック――いえ、罠だとしたら……」
「お前に罪を着せるために1000万も用意していたっていうのか?」
「実際にそんな大金があるならの話だけど。でも、あの人の愛人だったんだから、1000万円ぐらいなら都合できるんじゃなくて?」
「つまり、殺したのは恵理だ――ってことか? たしかに俺は、兄貴が殺された頃に、偶然お前の家の裏口から出てくる恵理に出くわしたが――」
女の顔色が変わった。
「何ですって⁉」
「だから俺は、恵理の言い分を簡単に信じてしまったんだ……」
女はテーブルの上に身を乗り出していた。
「恵理に会ったの⁉ どうして今まで黙っていたの⁉ じゃあ恵理は、本当に家に来ていたんじゃない!」
「もちろん警察には言ったさ。奴ら、鼻も引っかけなかったがね」
「確かに見たんでしょうね?」
「話だってした。しかしな……」
「じゃあ、殺したのは恵理よ! 決まっているじゃない!」
「俺だってそう思いたい。でも、理屈が通らないだろうが。兄貴は恵理のガキを認知していない。子供が認知されなければ、父親を殺しても遺産の分け前はゼロだ。金の卵を産むニワトリを絞め殺す馬鹿がどこの世界にいる? 遺産を捨てるための殺人――なんて、あり得ない」
女は納得したようにうなずき、再びソファーに腰を沈めた。
「どんなに腹黒く見えたって、所詮、女ですから。理屈を忘れてしまう瞬間だってあるわ」
「ヒステリーを起こして兄貴を殺した――っていうのか?」
「あなたが言った通り、あの人は妾の子を認知するほどお人好しじゃない。恵理が昨日、直談判に来たんだとすれば、そこで言い合いになったっておかしくはない」
「夜中に押しかけて認知を迫ったが、兄貴は首を縦に振らない――。で、かっとして……?」
「わたしは2階で眠っていたし、使用人は離れで休んでいた。あの人が、わたしに隠れて恵理をこっそり部屋に入れたんだとすれば……」
「恵理は兄貴を殺してから、事の重大さに怯えて逃げた……。この部屋に戻って落ち着いてから、自分に疑いがかからないように、俺たちに罪をおっかぶせる嘘を練っていた――ってか?」
「残念だけど、わたしたちに強力な動機があることは否定できない。逆に恵理は、あの人が死んだら損をするだけ。理屈で考えれば、絶対に犯人であるはずがない。言い逃れには最高ね」
「衝動的にやったなら、きっとどこかに証拠を残したはずだ」
「警察なら探せるわね。花瓶の破片に指紋が残っているかも。ところであなた、本当にアリバイはないの?」
「あれば、逃げたりしない。昨日の夜はずっと1人で部屋にいた。前の晩に呑みすぎてな。外に出たのは煙草を買いに行った時だけで、その帰りにばったり恵理と出くわしたんだ」
「わたしたち、立場は同じね……。ねえあなた、自首して」
「まだ疑うのか⁉」
「そうしなければ、証拠を探してもらえないじゃない。殺したのは恵理に決まっているんだから」
「それはそうだが……」
「一緒に警察にいって話を聞いてもらいましょう」
「うん……君が犯人でないなら……」
「わたしは殺していません!」
女の強い口調に、男は冷静さを取り戻した。
「待てよ……。お前、警察にそう言えと命令されてきたんじゃないのか⁉ 俺をこの部屋から誘い出すために!」
女は叫んだ。
「疑り深い人ね! わたしは無実だと胸を張れるわ! あなたも堂々と潔白を証明すればいいじゃない!」
しかし女の目は口調の強さとは裏腹に、急速に落ち着きを失っていった。男に何かを訴えようとしているようだった。
まるで、助けを求めてすがりつくように……。
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