朽ちた文集

祭屋 銃銃太郎

国道0.66号


 照りつける太陽が眼を焦がした。

 喉を通る大気には水素がなかった。

 安いスニーカーの下はひび割れたアスファルトだった。

 8時間、歩き続けている。

「2時間も歩けば着くよ」

 そう説明した市民バスの運転手はもういない。

「あと2時間で着かなければ、私たちはあそこで待つわ」

 そう言って道の駅にとどまった母子は今頃どうしているだろうか。

 デボラックやウエイメンの餌食になっていなければ良いが。

 遠くから轟音が響いた。

 巨大なトルルノントが鉄の送電塔を食っている最中、間抜けにも地面へ横倒しになってしまったようだった。

 もっとも、そんなことで諦めるような奴ではない。

 耳障りな不協和音が聞こえ始めた。

 鉄を唾液で溶かすことなく、そのまま食べ始めたのだろう。

 トルルノントにも感情があることを俺は知った。

「あと2時間じゃ着かねぇよ。それ、俺の嘘だもんよ」

 自衛隊の迷彩服をまとった男はそう言った。

 歩き始めて6時間目のことだった。

 俺は、偶然に自衛隊員の衣服を得ただけの虚言癖の妄想症の社会病質者の言葉を信じてここへ来てしまったのか。

 初めて本気で人を殺したいと思った。

 男を睨む俺の目の前に、拳銃の銃口が現れた。

 大小を問わず、今や鉛と真鍮を火薬の力で分別するだけの装置。

 しかし人間の数を減らす機能はまだ有効だ。

 その機能はしっかりと働いた。ただし男が対象に選んだのは俺ではなく、自分自身の頭部だったが。

 銃声が四方八方へと広がり、反響して戻ってくる。

 俺は倒れた男へと駆け寄り、腕を踏みつけて拳銃をもぎ取った。

 走る、走る、走る。

 恐ろしいのはシ・ファだ。

 透明で鷲ほどの大きさのシャボン玉が見えた時にはもう終わりだ。

 俺はデボラックが早急に死体を片づけてくれることを祈った。

 ウエイメンは死体をウエイメンにするだけだ。

 もしバルルカンネルが先に着いたのなら、それはトルルノントをおびき寄せてしまう。

 それから俺はずっと移動し続けた。休むとか隠れるという選択肢はなかった。

 そして今、俺は道の脇にあった民家の屋根にいる。

 昇るのは簡単だった。完全に崩壊した建物の屋根に昇るなど、極めて簡単なことだ。

 世界は薄暗くなりつつあった。

 この民家の痕跡にある隙間こそが、世界に残された唯一の安全地帯かもしれない。

 俺は屋根と壁の機能がありそうなスペースへ身体をねじ込んだ。

 あの運転手と母子を思う。

 きっと生きている、きっと生き延びられる。

 この世界にまだ希望があると信じていたいから、そう願うのだ。

 俺は一度別れた人間と再会したことがない。

 俺から別れた者は誰もが死んでしまうのか。俺が会えていないだけなのか。わからない。

 しかしあの三人はまだ幸福だろう。

 俺のように落胆し、絶望の回数を増やすことがなかった。

 もしかしたら男の嘘に気づいていたかもしれないが、それでも真実を告げられた俺よりは……マシだ。

 雨が降り出した。

 まだ小雨だ。

 雨粒がやけに大きい。

 俺は屋根の縁から雫が垂れるのを見た。

 粘液のように、縁から地面まで一本の線を引いた。

 弱々しい太陽光の切れ端が、俺にその光景を見せた。

 俺へと粘液が新しい川の流れのように忍び寄ってくる。

 すくみあがった俺の身体へ触れる直前、それは緑に発光し始めた。

 そして粘液は俺からやや距離を置き、粘つく雨に当たった。

 こんな現象を引き起こす存在を俺は知らない。

 雨粒の音は止まない。

 粘液たまりは表面に波紋が広がるたびに、支配する領土を大きくした。

 俺はそばに置いておいた拳銃をつかみ取った。

 金属の重みが、俺の手を震わせた。

 こんなものがあるから、自分にはもう、ありもしない希望にすがってしまうのだろう。

 俺は希望を捨てられずにいた。

 おそらく人間が何兆回何京回、その数億倍は想像した変化、奇跡というものを俺は待ち望んでいた。

 ここまで来る途中で、弾が何発あるかを数えた。

 あと一発だった。あと一度だけ人間の数を減らす機能が使える。

 人間とは俺のことだ。数とは俺のことだ。

 粘液はきっと俺を生きたままダッハにしてしまうだろう。

 それは想像しうる中では、まだ救いのある未来だった。

 すでに身体の感覚は失われつつある。

 身体のどこかが冷たく濡れ、とろけていく感触だけがあった。

 残されたわずかな時間で、俺は画期的な打開策を思いついた。

 それは俺がウエイメンにもダッハにもならずに済む方法だった。

 俺は画期的な打開策を。

 俺は。

 本当はもう気づいている。

 自分が、あれらの存在のいずれにもならないことを。

 そして、死者にも生者にも決してなり得ないことを。


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