深海の日々

 ヒールを履いた足はアスファルトの上に立ち、手に持った缶ビールの中身はまだ半分ほど残っている。

 頭上の空は暗く、同時に明るかった。この街を照らす一日分の電気代に比べれば、私の月の給料など乾電池一本程度の値に過ぎないだろう。

 もっとも、今後も給料とやらにありつけるかどうか、目下のところ不明だ。

 肩から提げたバッグから、最後の給料で買った缶ビールの最後を取り出す。片手に隠れそうなほど小さい。元々酔いやすい体質だが、ストレスからの逃避にはむしろ好都合だった。

 電車にただ乗っている時が、一番辛い。駅に入る前に缶を口につけ、一気に飲み干した。

 口に苦味を残して、喉を下っていく液。胃で感じる泡立ちが不快だった。鼻に抜ける香りは嫌いではない。

 バッグを開き、コンビニのビニール袋へ空き缶を無造作に押し込む。軽い音が鳴った。中には同じ空き缶が二つある。惰性で小さいのを選んだが、大きいのを一つでも良かった。いや、翌朝の分も加えて買うべきだったかもしれない。

 早足で、電灯が降らす光の雨から逃れるように電車へと乗り込んだ。

 空いた車内。座席に腰を落とす。力を抜くと身体が鉛みたいに沈み込んだ。

 乗客をもう二人乗せてから、電車は動き始めた。

 頭を上げると、目が合った。壁の広告の中で缶ビールを持って微笑む女。

 彼女には見覚えがあった。無垢な顔をしているが、まったくひどく我がままな女で……。

 ――女だからって。

 思い出すなよ……。そんなことを……。

 良かったじゃないか……。嫌な職場から逃げ出せて……。

 ……他の事を考えよう。スマートフォンを取り出しかけて、やめた。メッセージの通知が着ていたらと思うと嫌で電源を切っていた。たとえ単なるテキストでも、誰の感情にも向き合いたくなかった。

 車内を見回す。私以外には二人だけ。男女のカップル……、ではなかった。

 女の方はともかく、男の方は服装から察するに、高校生くらいの少年だろう。姉弟か親子か。まさか、愛人とデートでもないだろう。いくらこんな夜更けでも。

 私が横目で覗く間、二人は会話もなくただ座っているだけだった。勝手な話だが、少し不気味に感じた。

 広々とした車内で隣り合う二人の人間が、沈黙を続ける理由があまり想像できない。二人とも本、あるいは携帯端末の輝きに夢中というわけでもないのだから。

 段々とこの二人が動いていないような、人形のような存在ではないかと思えてくる。

 そんな空想じみた思い込みを否定しようと、私はバッグから取り出した真っ暗な自分のスマートフォンへ視線を落としながら、横目の焦点を少しだけ長く二人へ合わせることにした。

 目が合った。私と、少年の目が。彼は顔を私に向けていた。

 電車が止まった。スマートフォンをバッグへ戻す。まだ早いが、降りることにした。まあ、私が自分の現実逃避に巻き込んだだけの二人だったが、なんとなく居辛い。

「ちょっといいですか?」

 声へ振り向くとき、私はなるべく平静を装った。私の後ろに少年がいた。

 このまま車内で用件を聞こうと思った。この駅で降りねばならないわけではない。

「すいません。ちょっと、ちょっとだけちょっと」

 バッグを掴んでいる。私のバッグだ。

 私はバッグのショルダーベルトを握ったまま、ドアへと後ずさった。下げた右足がホームの床を踏んだ。

「待って待って」

 バッグごと、強く引かれた。抵抗すべきではない、そう分かっていながらもベルトから手を離せない。

 落ち着け。固まっていた手はもう離せた。私はバッグと引き換えに車外へ出られた。助けを呼ぶか、逃げなければ。

「助けてくれ!」

 声を発したのは私ではない。少年の方だった。

 振り向いた瞬間、ドアが恐ろしい勢いで閉じた。悲鳴があがった。閉じたドアの隙間から片腕が水平に突き出している。右肘のあたりで挟まれていた。

 ドアへ駆け寄り、隙間をこじ開けようと手をかけた。ドアはがたがたと震えだし、いくら力を込めても隙間は広がるどころか、むしろ狭まりつつあった。

 窓越しに彼と目が合った。私は手を、ドアへかけていた指を離した。

 竹を割るような音がした。ドアは隙間なく閉じていた。突き出ていた腕が力なく垂れる。

 こもった悲鳴が。ドアはいつものようにゆっくりと開き、床に倒れた彼の叫び声を。

 助けを呼ぼうとホームを見回しても、誰もいない。車内の女の方はこちらを無表情で見つめているだけだ。駅員、車掌、誰でもいい。大声で叫んだ。繰り返し、何度も。

「おい!」

 手首を掴まれ、車内へ引き込まれた。

 倒れ込んだ私へ少年が苦痛に歪んだ顔のまま叫んだ。

「ロックを外せ!」

 彼は床に落ちていた私のバッグを無事な左手で探ると、取り出したスマートフォンを私へ突きつけた。その画面は真っ暗なままだった。

「くそっ! なんで電源が落ちてる!?」

 少年はそう怒声をあげてから、肩を抱え、歯を食いしばってうめいた。

 私の背後でゆっくりとドアが閉じるとともに、スマートフォンが起動した。

 とにかく救急車を、そう言おうとした。

「どう解除する!? 指紋か!? 顔か!?」

 目が合った。少年の背後に立つ女と。私はそれから目をそらすことができなかった。

 それは人間の顔ではなくなろうとしていた。顔面全体に及ぶアンバランスな変形は、まるで何かの液体から盛り上がり、すぐさま消える泡のようだった。深海魚を思わせる巨大な顎。肥大化した唇の向こうの黒々とした空間は鍾乳洞にも似ていた。鼻は顔面へ吸い込まれたように潰れ、両目は下からの圧迫に細まっている。

 変形した部位を除けば、それは健康な人間そのものだった。それは私を見ている。見られている。

 私の背後でドアが突然がたがたと震えだし、弾けるように開く音がした。

 前屈みになり、両腕を垂らす女。私は女の方へ振り向いたままの少年の左手をとった。

 手を引いて車外へと駆ける。わずかな段差に足をとられ、勢いでホームの床へ倒れ込んだ。私はつないだ手を離し、少年に先を行かせた。立ち上がる前に、ドアからわずかでも離れようと身を縮めた。

 嫌な音がした。ドアを見れば、私を見下ろす顔が突き出ていた。がたがたと震えるドア。首を左右から挟むドア。それは上下に、互い違いに、繰り返し動いた。二つの鋸で引くように。

 女の首が左右へ回り、徐々にドアの隙間が狭まっていく。昆虫のような叫び声が耳をつんざく。私は赤い液が滴り落ちるのを見た。激しく噴き出た血が女の長い髪をドアに張り付けた。女の身体が脱力していく。死んだのだろうか。尋常の生き物であるとも思えないが。

 閉鎖するドアに注意を促すアナウンスが流れ、電車は次の駅へと進み始めた。怪物の死体を乗せた車両は血まみれのまま、私の視界から去っていった。

 立ち上がる気力はなかった。ただ下を向いて深く息を吐いた。

 がたがたと振動するレール。次の電車は、やけに早く到着したらしい。私の目の前へ、ちょうどドアが来るように停車した。そのドアは閉じ切っておらず、隙間があった。向こうには女物の服を着た人物が見えた。服も、ドアも、血で濡れていた。見上げると、私を見下ろす顔があった。

 多分、まだ彼女は生きている。何かを探しているのか、満月のように見開いた二つの眼球が恐ろしく早く動き始めた。ドアが開き、いましめから解き放たれた女が前のめりに倒れる。足首に冷たい感触。掴まれている、そう気づいた時には私と女の目が合っていた。

 私と女の間へ電源の入ったスマートフォンが突き出された。瞬間、ロックが解除された。

「いちたすいちは?」

 女の顔が声の主へと向いた。一度、音が鳴った。カメラのシャッターを切る、あの音。

 私の目の前にいた女は、一瞬で姿を消した。始めからいなかったかのように。

「顔認証だったか」

 私は少年を見た。彼の両目は異様に黒かった。顎のあたりで生じた泡立ちが、頬から額へと逆さに伝わっていく。泡が消えたあとの顔は、あの女に似ていた。

「いちたすいちは?」

 ひどく歪んだ声だったが、確かにそう聞こえた。

 一度だけのフラッシュ、私の意識はもうろうとなっていった。

 しかし気絶はしなかった。まぶたが重い。倒れた身体は甘く痺れて動かせない。

 段々と人の気配を感じるようになった。革靴やスニーカーのぼんやりとしたシルエット。

 急速に意識が鮮明になってくる。さっきまで誰もいなかったはずなのに、私は人々に囲まれていた。

 そばに落ちていたバッグを掴み、ふらつきながら立ち上がる。

 私を留めようとする人々を避け、強引にその場を去った。

 駅を出て見上げると、空は夜明けの色をしていた。

 あれから五日がたった。

 一つの言葉がずっと頭から離れない。

 どうにか帰り着いたアパートの部屋の中、ずっと私はその言葉に憑りつかれ、それを恐れて口を塞ぐと頭蓋骨から漏れ出て、周囲を埋め尽くしてしまいそうだった。あれからずっと。ただの妄想症だ、ただの。

 痺れた手で冷たい金属を捻って、光沢のある蛇口から洗面台へ水を流す。ざぶざぶと波打つ水面が溜まっていく。

 ついに水位は上がりきり、洗面台から溢れた。足が水に侵される感覚。

 冷たい、と口を動かそうとすると、見下ろした水面に限りなく透明な文字、「チ」が浮かんだ。次の字が浮かぶよりも早く、私はチョウチンアンコウという魚の姿と、その生態を思い出した。

 海中でメスと会ったオスは、メスに融合されるという生態。

 街中で人間と会った人間が、人間に融合されるという、あの日の事件への推測。

 私が憑りつかれた言葉とは、その魚の名だ。すべてただの、ただの……。

 鏡を見る。五日より前と同じ、私の顔だ。唇が閉じている。

 閉じた唇へ痺れた右手の指をねじ込み開く。目だけを動かすと、視界の隅に鈍く光るハサミが置かれているのが見えた。

 開いた顎は閉じることも開くこともできない。手を使わない限り、自分の意思では。

 私は左手の指で自分の舌を引き出し、鏡に映るそれを眺めた。

 赤い舌に盛り上がった白い塊。まるでふやけた皮膚のよう。

 空いた手でハサミを床へ落とす。彼を怖がらせてしまう前に。

 小豆ほどの大きさの黒々とした目が開く。まだ声は出せない。

 鏡を通して私と彼は目を合わせた。

 慈しみ、愛おしいという感情が、心から湧いた。

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朽ちた文集 祭屋 銃銃太郎 @gungun

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