第89話 母と子8:イラクのスルターン3

 潜伏先を見つけられぬまま時のみ過ぎ行き、そしてスルターンは、先に通過したレイにモンゴル軍が到着したとの報告を受けた。これを報せたのはレイに留め置いた斥候であった。ただモンゴルの一部隊までが姿を現した。


 スルターンは斥候をねぎらうどころか、「何と無能な者たちだ。後を付けられおって」と怒鳴りつけた。その不用意さにカンカンになりながらも、急ぎスルターンは息子たちとわずかなお供のみを連れ、そこを発った。


 先に后妃たちを逃がした城であり、それゆえこれまで避けておったカールーンを目指すしか道がなかった。ルクンとその軍三万には付いて来ることを許さなかった。その理由はニーシャープールの時と同じであった。


 スルターンはその道中モンゴル軍の襲撃を受けた。敵はまさかこんなに少数のみすぼらしき者たちがスルターン一行とは想いもしなかったのであろう、執拗に追って来ることはなかった。


 何とか城に辿り着くを得たが、愛馬は矢傷深く、最早乗り継ぐことは無理であった。馬を何頭か手に入れた後、わずか一日の滞在でそこを出た。


 その際スルターンは奸策を用いた。カールーン城主に次の如く命じた。モンゴル軍が至って攻めて来たら、我らが出発したしばらく後を見計らって、『既に我らはバグダードへ向けて逃げた』との噂を流せと。さすれば、この城は執拗な攻囲をまぬがれようし、更にはモンゴル軍がバグダードへと向かえば、我らもまた逃げる時をかせげるゆえにと。


 この後、モンゴル軍はまさにスルターンの読み通りに動くこととなった。カールーン城の裏切り者が、礼金欲しさにモンゴル軍の陣に自ら赴き、スルターンは城を去りましたと伝えたばかりか、バグダードへの道案内まで申し出た。そして、モンゴル軍がそれに乗ったのであった。城内に残して来たギヤース王子と后妃の一団は、実際この策のおかげで助かった。


 そしてこの策にはもう一つ、スルターンが誰にも口外しておらぬ狙いがあった。バグダードは言うまでもなく、カリフ・ナースィルの御座所である。異教徒たるモンゴル軍ならば、我の如くの躊躇ちゅうちょとは無縁にあの御方を、アッバース朝を滅ぼしてくれようと。それもあって、モンゴル軍が策にはまったと知った時はここ最近ないほどにスルターンは気分を良くした。




 注 カールーン城は恐らくはハマダーンの近くにあったろうと考えられている。ファラジーン城(現アラーク近郊)より北西へ約140キロほどのところとなる。ハマダーンは、グーグルマップにて「ハマダーン」と入力すれば良い。



後書きです。

 スルターンとカリフのいわくについては、第1部第7話A~C「スルターンとカリフ 前・中・後編」に記しております。

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