第46話 ブハーラー戦 終話:声9:サマルカンドへの行軍&エピローグ

  人物紹介

長老(シャイフ):ブハーラーの商人たちのグループの指導者。ただし、既に死亡。


何の身体特徴もなき者:長老に仕える者。長老を殺害し逃亡した。


副長老、太っちょ、やせぎす:ブハーラーの商人のグループの構成員。前2者は既に死亡。


唇寒き者:ブハーラーの商人のグループの構成員であったが、オトラルのイナルチュク・カンの下に至る途中で、離脱した。


マジド・ウッディーン・マスウード:イマーム。ブハーラーのサドル。

  人物紹介終了




 〈やせぎす〉は道ばたに、遠くない先の自らの姿を見ながら、進んでおった。そこに倒れ伏すも、やはりブハーラーから徴集された者たちであった。目指すはサマルカンドと聞かされておった。実際、そこは隊商として通い慣れた街道であった。


 単にその間を往復することもあれば、サマルカンドを経由してシルダリヤ川沿いのホジェンドやオトラル、更にはその先のタラスやカラ・キタイの都たるフス・オルダまで足を伸ばすこともあった。


 街道沿いの丘の上、見通しの良さそうなところには、しばしば小屋がある。これも見慣れたものであった。己の大好きな乾果を作るための、ブドウなどを干す小屋である。


 ブハーラーに残してきた母と妻、何より一人娘のことが気になってしょうがない。天使の如く想えたのでフェレシュテフと名付けた。今となっては、その名のゆえに大天使ジブリール(ガブリエルのこと)のご加護を得られるを願うのみである。


 モンゴルの騎馬兵に追い立てられ、つのる寒さと飢え、疲労のためにそれは死の行進となっておった。冬のこの時期でなければ、道ばたに倒れ伏したとしても、まだ命永らえ得たかもしれぬが、その幸運は望めぬ。




 想い出すは、あの雨であった。オトラルに向かう時、我らをはばむがごとくに降り続いた雨。なぜ、その雨が今、降らぬのか?


 あの時のあれが天意なら、あの時、神が我らをはばもうとしたなら、なぜ、今、このような行軍を神はお許しになるのだ。


 なぜ、モンゴル軍をはばもうとはされぬのか?

 なぜ、異教徒どもを罰さぬのか?

 まだ我が生きておるゆえか?

 なら、罪を犯した我が死ねば?

 

 恐らく数日もせずして、それは訪れる。


 彼はついに笑みを浮かべた。


 そうか。


 我が死ねば、神はあの地獄に落ちるべき者どもを罰される。フラフラとした足取りで、その朦朧とした意識の中で、〈やせぎす〉は遂に天恵の兆しを見だしたのであった。


 そのおかげで――彼は死に行くその時まで笑みを浮かべておることができるという――偽りの神の恩寵の中でみまかったのであった。


 審判の日に裁かれるために。同じムスリムを殺すことをそそのかした、その劫罰を受けるために。




 その死の行進の中には、〈唇寒き男〉と〈何の特徴もなき男〉の姿もあった。彼ら2人は、サマルカンドまで至ることができたら、生き延びられようとの希望を持ち、互いにそう励ましあっておった。更に言えば、後者に至っては、これで自由になれるとの喜びさえあった。


 彼らは若いという点で幸運だった。モンゴル系・トルコ系の人々は、『幸運』は、あくまで天が与えるものであり、『天恵』であり『天命』であると捉える。誰しもそれに預かるを望み、誰しもそれを知るを望む。この二人はまさに、その分かれ目にあった。


 それを二人は自覚しておるゆえか。〈唇寒き男〉は〈何の特徴もなき男〉にも数珠を持たせ、行軍の間、神が共にあらんことを祈ろうと、しきりにうながしており、後者もまたそれに従っておった。



 最後に、マジド・ウッディーン・マスウードについて語ろう。先にブハーラーの商人たちとスルターンの謁見を取り持った人物である。


 皮肉なことであるが、チンギスの視界に、浮かび上がることのなかった商人たちと異なり、この者はチンギスの目にとまった。 スルターンによりなされたサドルへの任命という厚遇が裏目に出たのである。


 ブハーラーにおいては、サドルは高名なムスリムの称号というだけではなかった。ホラズムに降伏するまで長らくここは―カラ・ハン朝やカラ・キタイの干渉はあれ―歴代のサドルの統治下にあった。その称号は本来の宗教的権威以上に、それが有する政治権力を誇示するものであった。

 

 そのゆえに、後者に敏感なチンギスの注意を引いたのである。そして、スルターンとの親密さがチンギスの知るところとなり、この者は処刑されることになる。




    声:エピローグ

 声は息吹を震わせたものである。

 

 人はいつ声に感情を乗せることを知るのか?

 

 否、赤ん坊の、あるいは生まれたばかりの犬・猫の泣き声でさえ、感情を伴わぬということはない。

 

 いや、むしろそれにあふれると言って良い。

 

 人のみがそれに更に言葉をかぶせる。

 

 その一歩を踏み出すべきではなかったのか。

 

 いずれにしろ、人は、

 息吹無き死者に声を求め、

 声を発さぬ神に言葉を求め続ける。

 

 己こそが、その全て――言葉も声も息吹も有する幸運を忘れて。

 そして、いつかはそれを全て失う、この世の残酷なるさだめを忘れて。

 そうして殺し合う。

 それこそが、この仇の世のさだめとみだりに信じて。




(ブハーラー戦編 完)

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