第30話

 サラは時折淡い色の髪を揺らしながらうーんと唸った。その様子を小イグナが不安そうに見上げている。

「駄目でしょうか……」

 小イグナを一緒に馬に乗せてもいいかと提案したのはリグルだった。お願いしますとリグルと小イグナが頭を下げた。

 三英雄の息子であり、今は国王の護衛も務めているリグルに頭を下げられたのでは無下に断る訳にもいかない。とはいえ今まで馬に乗ってはいけないと教えてきたことを覆すことになるのだ。そうすんなりと頷くこともできず、サラの眉間に皺が寄る。

「サラ殿。私が同乗してその辺を少し歩くくらいならいかがだろうか。普段は馬に乗らないよう言いつけているのだろうし、今日は特別に馬の稽古ということで。私が指導役では心許ないかもしれないが……」

 ラスフィールの申し出に、サラが慌てて首を横に振る。

「心許ないなんてとんでもない、アルシオーネ様に稽古をつけていただけるなんて、とても恐れ多くて……!」

「私はもう騎士ではない。罪人が奉仕活動の一環として子供の乗馬に付き合うだけだ。恐れ多いも何もない」

 苦笑されてしまってはそれ以上何も言えない。サラはようやく首を縦に振った。

「ほんと? 僕、馬に乗っていいの?」

「今日だけよ。せっかく稽古をつけて下さるとおっしゃっているのだから、お言葉に甘えましょう。ほら、『お願いします』は?」

「おねがいします!」

 サラに促されて頭を下げる仕草がとても可愛い。

「じゃあ俺が先にお手本を見せようか」

 癖のある金髪を撫でると、リグルが馬に寄り添った。

「初めまして、俺はリグル。少し君の背中を借りるよ」

 優しく馬に触れて話しかけると、鐙に足をかけてひらりと馬に跨がった。小イグナから見れば元々高かったリグルの視線がさらに高くなる。仰け反りそうになりながら黒髪を見上げて目を輝かせている。

「こんな感じだけど、ひとりで乗るにはまだ君は背が低いからね。今日はラスが手伝ってくれるよ」

 リグルの言葉に、すぐ隣に立つラスフィールを見上げた。少年らしくきらきらした瞳が眩しい。

「すぐもう一頭連れてきますね」

 サラが厩舎の中に戻る。

「僕も大きくなったらひとりで乗れる?」

「ああ、もちろん。でも今は無理しないで大人を頼るんだよ」

 馬上からリグルが笑顔で答える。

「お待たせしました」

 サラがラスフィールの前まで馬を引いた。

「ご迷惑をおかけして申し訳ありません。どうぞよろしくお願いします」

 深々と頭を下げられ、ラスフィールも軽く頭を下げる。小イグナを軽々と抱き上げると、小さな手に己の手を重ねて馬に触れる。

「今日はよろしく頼む。小さな子供がいるから周辺を歩くだけになってしまうが……」

 言いかけて、ふと気付く。

「ここの馬はどこで走らせて……?」

 厩舎の近くに馬が自由に走れるような広い土地はない。

「一応少し離れたところに広場はあるんですけど、思う存分走らせる時には城壁の外ですね。国王様の許可証もありますよ」

「わざわざ門の外へ?」

「ええ、戦中は偵察も兼ねていたそうです」

 大人達の会話を黙って聞いていた少年が、ラスフィールの腕の中でそわそわし始める。

「すまない、待たせてしまったな」

 小イグナを抱え上げて、鞍に跨がらせた。へっぴり腰で、馬に乗るというよりはしがみついているという体だ。

「どうだ、馬上の景色は」

「すごい高い……」

 震える声は感動しているのか怯えているのか、あるいは両方なのか。

「そうか。では私も乗ろう。少し前に詰めてもらえるだろうか」

 ラスフィールの言葉に小イグナが恐る恐る身体を起こして、前に身体を寄せようとした時だった。

「いやっほーう!」

 幼さ故の中性的で勢いのある声が頭上から降ってきた。

 いつの間にか姿を消していたクロードが小屋の屋根から飛び降りて、馬の背中に着地した。突然の強い衝撃に驚いて馬が嘶いて前足を高く上げる。

「うわ、ちょっ、あぶなっ!」

「イグナ! イグナ!!」

 馬にしがみつくクロードを振り落とそうとして馬が暴れ、声も出せずに小イグナが馬のたてがみに掴まっている。真っ青な顔で馬に近づこうとするサラを取り押さえ、ラスフィールが手綱を取ろうとした時だった。

「ったく、暴れるなっての!」

 クロードの足が容赦なく馬の腹を蹴った。

 馬はたまらず大きく嘶き、駆け出した。

「リグル!」

 暴れる馬を避けて退いていたリグルが、馬を寄せてラスフィールに手を伸ばす。差し伸べられた手を取って、リグルの後ろに飛び乗った。

「掴まってて」

 馬を走らせたリグルが先を駆ける暴れ馬を追いかける。子供達はまだ振り落とされてはいないが、当然手綱の取り方も知らず、しがみついているだけである。このままでは落馬まで大した時間を要しないだろう。

「馬を魔法で眠らせる。ラスは子供達を」

「分かった。ぎりぎりまで寄せられるか」

「当然」

 興奮状態に陥っている馬は周囲の物を蹴散らしながら駆け進んでいく。転がる荷袋や木箱を避けながら後を追っていくと、やがて大きな通りに出た。直線の通りの先には門がある。

 リグルが無言のまま馬を寄せると、

「お前達、今から私がそちらに行く。それまで絶対に手を離すな」

 ラスフィールが声をかける。舌を噛まないよう歯を食いしばっていた子供達が、今にも泣きそうな顔を上げた。

「でも、でも……」

 クロードが何かを言いかけたが、しゃくり上げる声は言葉にならない。

「ラス、気を付けて」

「ああ」

 頷いたラスフィールがひらりと身を宙に舞わせて暴走する馬に飛び移った。左手で手綱を取り、先にクロードを、目を閉じてたてがみにしがみついていた小イグナを抱き寄せて、右腕でしっかりと抱きしめる。

「リグル!」

「風よ、眠りの砂を撒き散らせ!」

 暴れ馬と距離を取る間際、眠りの魔法を放った。暴れ馬は急に速度を落とし、ぐらりと身体を傾ける。

「歯を食いしばれ!」

 手綱を手放したラスフィールが、両手で子供達を抱きかかえて馬を飛び降りた。背中から着地して、駆けていた馬の勢いを殺しきれずにそのままどれだけか地を滑る。

 眠りの魔法を受けた暴れ馬は速度を落としながらふらついていたが、間もなく地面に横倒しとなった。

「ラス!」

 馬を下りたリグルが駆け寄って助け起こす。子供達はラスフィールの腕の中で怯え震えていたが、怪我もなく命に別状はなさそうだった。

 落下と地を滑った衝撃に言葉を失っていたが、どうにかラスフィールが身体を起こして子供達を優しく揺さぶる。

「お前達、大丈夫か」

 ラスフィールの声に先にクロードが、続いて小イグナが大きな声で泣き出した。

「あー……よかった、何かあったらどうしようかと……」

 リグルが安堵のため息をついてその場に座り込んだ。

「イグナ! イグナ!!」

 サラが髪を振り乱して走ってくるのが見えた。母親の声を聞いて安心したのか、小イグナの泣き声がひときわ大きくなった。ラスフィールが手を緩めると、よろよろと立ち上がってサラの元へと走り出す。

「うああああん!」

「イグナ! 無事で良かった……!」

 母親にしがみついて、さらに大きな声で泣き出した。

「これでめでたしめでたし、ってなればいいんだけど」

 子供達の泣き声に、近隣の家の人達が様子を見に集まり始めていた。横倒しになって倒れている馬、泣き叫ぶ子を抱きしめる母。元翡翠騎士団長のすぐ横で少年も泣いている。どこからどう見ても何らかの事件である。

「……行こうか。馬もすぐに目を覚ますだろうし」

 立ち上がったリグルにラスフィールが頷いた。こうなっては長居は無用である。

 立ち上がろうとしたラスフィールにクロードがすがりついて何か言おうとしたが、

「あの、ありがとうございます!」

 サラの声にかき消された。

 思わぬ大声にリグルとラスフィールが顔を見合わせた。元はと言えば小イグナを馬に乗せてやりたいと言い出したリグル達のせいだ。責められるならともかく、礼を言われる理由がない。

「うちの子を助けていただいて、本当にありがとうございます! もしよろしければお礼をしたいのですが、この後お時間はありますか!?」

 サラの必要以上に大きな声に驚いて、何かを言いかけていたクロードも口をつぐんだ。

 大袈裟に頭を下げられて戸惑うラスフィールだったが、

「え? 何があったの?」

「ほら、馬小屋のところの親子。子供がいたずらして馬を走らせちゃったみたいよ」

「あの兄ちゃん達が助けたらしいぜ」

 遠巻きに見ている人々のさざめきに、サラの意図を理解した。

 ラスフィールの目配せを受けてリグルがサラの前に歩み寄る。

「怪我がなくて何よりです。馬は俺達が引きます。あなたはその子を抱いていてあげて下さい」

 眠りの魔法から覚めた馬は自力で身体を起こしていた。暴れる気配はない。

 リグルは手綱を取ってそっと撫でながら「ごめんね」と囁いて馬を引いた。

 ラスフィールがもう一頭の馬の手綱を取り、後に続く。

 騒動の発端となったクロードは居心地悪そうに立ち尽くしていたが、ラスフィールにぽんと肩を叩かれて彼のすぐそばをついていった。

 興味を無くした人々は散らばっていき、周囲はすみやかに日常に戻っていった。

 自分の軽率な行動で大変なことになったにも関わらず、誰も責めない。叱らない。謝りたかったのにその機会を逸してしまった。クロードはそれがかえって息苦しい。まるで自分のしたことがなかったかのように──自分の存在を消されたようで、心細くなる。

 うつむいたまま歩いていると、不意に頭をぽんぽんと叩かれた。顔を上げれば大きな手が目の前にある。

 こちらを振り向くことなく差し伸べられた手を、クロードはそっと握った。

 ごつごつした大きな手は、とても温かかった。

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