第29話
先程通り過ぎた厩舎に戻ると、その隣の小屋に案内された。
「作業所はこちらです。両親は午後から作業に入るので今はまだ家ですね。散らかっていて申し訳ありません」
作業台には広げられたままの革が、床には作業に使うのであろう器具が入った箱が乱雑に置かれている。足の踏み場もないとまではいかないが、初見で入り込むのは躊躇われる程度には見えている床の面積が狭い。
「昔から馬具の作製を?」
「ええ、昔は馬の飼育も手伝っていたんですけど、戦後はモルタヴィアから来た方が手伝って下さって、うちは馬具作製専門になりました」
サラとラスフィールが話しているのを聞きながら、リグルは興味深そうに作業台を覗き込んでいる。
「リグル、触るなよ」
「触らないよ、子供じゃないんだから」
リグルの反論に、サラの足にしがみついている小イグナがびくりと身体を震わせた。さてはいたずらをして怒られたことがあるな、と思ったがラスフィールはそれには触れず、
「スカルダ殿、伺いたいことが……」
「サラで結構ですよ」
「では、サラ殿。この辺りでは子供の読み書きはどうやって教えていますか」
「敬語も結構ですよ。この辺りは馬の飼育に関わる家が多くて、みんな付き合いがあるので子供を集めてそれぞれの親が持ち回りで教えていますね。あの人の父親が兵役を引退してからはお願いすることが多かったですけど」
サラが話しながら小屋の外へ案内する。
「子供の教育について興味がおありですか? ……あら、もしかして近い将来」
「えっ、ラス、いつの間にそんな予定が」
「勝手に予定を立てるな。いや、そうではなくて──」
聞いていないようでしっかり変なところに食いつきの良いリグルに釘を刺して、ラスフィールが小屋から出た時だった。
「あんた! ラスフィール・アルシオーネだろ?」
ラスフィールを小屋の中に押し戻す勢いで飛び出してきたのは、頭に巻いた布から赤い髪を覗かせている少年だった。年の頃は十歳くらいだろうか。声はやや高めで中性的だった。
突然不躾な挨拶をした少年にぎょっとして、サラが慌てて割って入る。
「申し訳ございません、この子は近所の子で──」
「俺はクロード。モルタヴィア出身なんだ。よくじじいがあんたの話をしてたよ」
楽しそうにラスフィールにまとわりつく少年は、後から出てきたリグルはちらりと見ただけですぐに視線をラスフィールに戻した。
「……クロード?」
訝しんだラスフィールに、クロードは臆することなく長身の彼を見上げた。
「なあなあ、あんたの話を聞かせてくれよ。じじいはモルタヴィアを捨ててジルベールに仕えた裏切り者なんて言ってたけど、俺はそうは思ってないぜ? モルタヴィア出身のあんたが翡翠騎士になるって、それってすごいことだろ? それに騎士になる前からロゼーヌ様に仕えてたって……」
無表情の鉄面皮が眉を上げたのを見て、クロードが言葉を飲み込んだ。ラスフィールの背中から緊張を感じ取ったリグルが間に入るより早く、サラがクロードの頭を押さえ込む。
「いい加減にしなさい」
「ちょ、サラ姉、痛い痛い痛い」
「今はお二人をご案内しているところなの。邪魔をするならあっちに行ってなさい」
「何だよ、ちびはいるじゃん」
「イグナは静かにしてるでしょう。──申し訳ありませんでした。この子のご両親が馬の世話をしていて、よく一緒に仕事をするんです」
「ああ、さっき話していた手伝ってくれる人ですか」
ラスフィールの後ろから顔を出したリグルが訊ねる。
「そうです、モルタヴィアでも馬が好きでご自身で世話をなさっていたそうで。では厩舎にご案内しますね」
「俺も一緒に行く!」
「いたずらしないって約束できる?」
「するする! な、ちび」
「……ちびじゃないもん」
予想外に賑やかになってしまい、ラスフィールが小さくため息をついたのを、リグルは見逃さなかった。
***
厩舎はいくつかあり、そのひとつに案内された。こちらは作業小屋と違ってきちんと手入れが行き届いている。
「こちらがうちで作った鞍です。乗ってみますか?」
「いいんですか? 是非」
サラの言葉にいち早く返答したリグルを窘めるようにラスフィールが睨む。
「シルヴィア様は馬が好きでいらっしゃるのですね。どの馬にしますか」
「俺はどの馬でも。ラスは?」
「……特には」
「はいはい! 俺はあの大きいのがいい!」
「ええ、あなたには聞いてないわ。では鞍をつけますので厩舎の外でお待ち下さい」
クロードがそれでも何か言おうとしていたが、ラスフィールに肩を掴まれて厩舎の外に連れ出されてしまった。リグルは小イグナの手を引いて外に出た。
「騎士団長、あの三英雄に直接剣を習ったんだろ? どんなだった?」
クロードが外に出るなり目を輝かせてラスフィールにまとわりついてきた。三英雄のひとりウュリア・シルヴィアはすぐ隣にいるリグルの父親だ。そのリグルを差し置いてラスフィールに尋ねるあたり、少年の関心がどこにあるのかがよく分かる。
「……私はもう騎士団長ではない」
はしゃぐクロードに冷や水をかけるようにラスフィールが断った。
「祖父君からどんな話を聞いたかは知らんが、今は罪人だ。子供に聞かせてやれるような話はない」
「けど、それって主君に仕えただけだろ。なんでそんな言い方……」
「実際に家族を私に斬り殺された者は、生涯私を許しはしないだろう。それだけだ」
「けど、けどさあ!」
クロードが食い下がる。
「うちもそうだけど、この辺りはモルタヴィア出身の家が多いんだ。イグナん家もあるし、みんな翡翠騎士はひいきしてる。よそは知らないけど俺達はあんたの味方だよ!」
クロードの淡褐色の瞳がきらきらと輝いて、ラスフィールを見上げていた。
「……私に関わるとろくなことにならん。気持ちだけありがたくいただいておく。二度と味方などと言うな」
今のラスフィールには少年の憧憬の眼差しはあまりにも眩しすぎた。まだ何か言いたそうなクロードから目を逸らす。
「取り込み中のところを悪いんだけど」
割って入ったのはリグルだった。
「何か言いたいことがあるみたいだよ」
屈んだリグルが小イグナの背中をそっと押した。見下ろすラスフィールの足下にとてとてと歩み寄って、じっと見上げてくる。顔立ちはイグナそっくりなのに、大柄で威風堂々とした翡翠騎士副団長とは似ても似つかぬ線の細さである。年相応の腕白さもない。
小イグナが震える唇で何を言うのかと大人達が固唾を呑んで見守っていると、
「おじさん」
か細い声で呟いた。
「あー……」
おじさん。三歳になるかどうかという少年から見たら、三十歳過ぎのラスフィールなど、それは余裕でおじさんだろう。理解している。理解してはいるが、よりにもよってかつての年上の部下と同じ顔で言われるとごっそりと心を削られる。
一瞬意識が遠くに飛んでいきそうになるのをどうにか堪えて、ラスフィールも屈んで小イグナと視線を合わせる。
「どうした」
「おじさん、馬、乗れる?」
畳みかけるような小イグナの声にラスフィールがぐっと堪えながら、
「もちろん。君も馬に乗りたいのか」
「うん。でも母さんがだめって……」
癖のある金髪をくしゃくしゃと撫でる。サラの言うことはもっともであるが、馬に憧れる少年の気持ちもよく分かる。ラスフィール自身もそうであったし、幼いリグルも馬に乗るラスフィールを見て自分も乗りたいとよく言っていた。
「分かる。すごく分かる」
リグルが大きく頷く。
「俺が初めて馬に乗ったのは五歳くらいの時だったかなあ。ディーンも乗りたいって言ってたけどリーヴ伯父さんに止められてたっけ……」
「陛下は馬に乗れないのか」
「十年前は乗れなかったけど、今はどうなんだろう。ただリーヴ伯父さんが許すとも思えないんだよね」
大人達の思い出話を黙って聞きながら、小イグナは大きな目でじっとラスフィールを見上げている。ラスフィールが視線を戻すと、思い切ったように、
「ぼ、僕も、馬……乗りたい」
すがるように訴えた。うるうると大きな瞳を揺らし、顔を赤くして懇願する少年の姿に、大人二人は顔を見合わせ──意を決したように頷き合った。
「母君の許しが出たらの話だが──私と一緒に馬に乗るか、イグナ卿」
ラスフィールの言葉に小イグナの顔がぱあっと明るくなる。
「本当に? 本当に? 僕も乗せてくれるの?」
「ああ。ただし母君が良いと言ったら、だ」
「俺も一緒に頼んであげるから」
リグルが小さな肩をぽんと叩いた。
「わあ……っ、ありがとう、えっと、ら……らふ……」
先程ラスフィールが少年をイグナ卿、と呼んだのを真似しようとしているのだろう。リグルが「ラスフィール卿だよ」と耳打ちする。
「らふいーるきょう!」
「んん、惜しい。ラスフィール卿」
「らう……、らふいーるきょう……? らすしーるきょう!」
思わず笑ってしまった。
「あら、もうすっかり仲良くなって。うちの子を見ていただいてありがとうございます」
サラが厩舎から馬を引いて出てきた。
「もう一頭はすぐ連れてきますね。どなたから乗りますか?」
「あの、すみません。ひとつお願いがあるんですけど」
先に立ち上がったリグルがサラに歩み寄った。
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