第12話

 何度も髪を洗い流しながら、その記憶も一緒に流れていってくれることをエリスは祈っていた。

 剣の鍛錬はしたものの、実際に人を剣で傷つけたのは昨夜が初めてだ。それも、ただ傷つけただけではない。かすり傷程度の傷口から血の柱が噴き出し、突き刺した相手は上半身を砕け散らした。手に残る人を斬った感触よりも、視界を染める鮮血が頭から離れない。あの後の記憶はぼんやりとしているが、剣を抜いてはいないはずだ。

 あの時はまだ盗賊がいて、戦いの最中だった。その後はずっとリグルがそばにいてくれた。今、風呂場でひとりになって初めて──破邪の剣の威力に背筋が凍る。あれは迂闊に人に触れさせてはいけないものだ。誤って触れた誰かがその刃で怪我でもしたら、どんなことになるか。何度も濯いだ髪を両手でぎゅっと絞って、エリスは風呂場の片隅に立てかけてある破邪の剣を見た。

 片時も肌身離さず持ち歩かなければ。武器としてよりも、知らずに触れた誰かが重大な事故を引き起こしてしまわないように。そしてあの威力は秘するべきだ。奪われないよう、悪用されないように。


 どんな魔物にも対抗しうる破魔の刃となって

 いつかお前達を守るだろう──


 父リーヴ・アープは一体この破邪の剣で、何と戦うことを想定していたのだろう。

 すっかりきれいになった金髪の匂いを嗅いだ。

 まだ血の匂いが残っているような気がした。


   ***


 エリスが風呂に入っている間、リグルとラスフィールは洗濯場で並んで血に汚れた衣類を洗っていた。ラスフィールの衣類はエリスが斬った盗賊の返り血が多量に飛び散っていたが、斬ることより捕らえることを重視したリグルは、多少汚れはしたものの、血はほとんど付着していない。洗っているのは染めたのかと思う程に血塗れになったエリスの衣類である。

 しばらく無言で洗っていた二人だったが、先に口を開いたのはラスフィールだった。

「何故私を助けた」

「……何のこと? 俺はラスに助けられたことはたくさんあるけど、助けたことは多分ないと思うよ」

「とぼけるな。あの少女を誘導したのはリグルだろう」

 かつて反乱軍が王宮に攻め入った時──リグルに討たれた女王ロゼーヌの亡骸を抱えてラスフィールはその場を後にした。反乱軍が勝利に酔いしれる頃、ひとり前王ルークの墓の裏を掘り返し、主君を埋めた。そして、ロゼーヌが常に携帯していた短剣を己の喉に突き立てた。主君に殉じたはずだった。

 ラスフィールが目を覚ましたのは見知らぬ民家だった。瀕死の重傷を負ったはずの彼を介抱した少女は、黒髪の人に頼まれて王の墓前に花を捧げに来たと言っていた。そこで偶然血を流して倒れているラスフィールを見つけたのだと。

 黒髪の人など、あの時点でジルベールにはリグルしかいなかった。そして少女は回復魔法が使えた。ただ、その少女は反乱軍に属していた。敵であるラスフィールを助けるかどうか、そもそもラスフィールの行動を完全に読めていたとして、それに間に合うかどうかは分の悪い賭けだっただろう。

 それでも、リグルは賭けた。そして賭けに勝った。だから今、こうして二人で並んで洗濯をしていられるのだ。

「どうだろう。あんまり覚えてないなあ……」

 あくまでしらを切るつもりらしいリグルに、ラスフィールはそれ以上の追求を止めた。リグルの意図がどうであれ、自分が生き残ってしまったことに変わりはない。

 しばらく無言で洗い物をしていたが、今度はリグルが沈黙を破った。

「剣は捨てなかったんだね。ちょっと安心した」

 主君を失ったラスフィールが後を追うだろうことは容易に想像できた。だが生き延びたとして──その先どうするのかまでは読めなかった。

 最期まで見届けろ、というのが女王ロゼーヌの最後の命令であるのなら、ラスフィールは反乱軍に復讐することはできない。逆の見方をすれば、彼は心の支えにするものが何もない状態だった。

 騎士に憧れ、騎士になった。しかし主君を喪い、後を追うことも仇を討つことも許されず、剣を捧げる相手も振るう理由も失くした彼がどうするかは、リグルには想像ができなかった。

「これは……」

 ラスフィールの脳裏に名も知らぬあの少女の姿が甦る。騎士ではないのだからと鎧も剣も置いて行こうとした彼に、剣だけは持って行けと強く訴えた。ラスフィールは覚えていないが、少女の父を目の前で斬殺したという。その相手を助けて剣を持って行けとは、何を思っていたのだろう。確かめようもないことに思いを馳せても答えは見つからない。

「ただ……酒も女も薬も、私を救いはしなかった。これしかなかった。それだけだ」

 何の感情も乗せない淡々とした言葉に、リグルはそう、とだけ応えた。

「リグル、あの剣は一体何だ」

 ラスフィールの声が低くなった。

「あんなものをどこで手に入れた?」

 洗い物をするリグルの手が止まる。しばらく考えて、慎重に言葉を選びながら、

「どんな魔物にも対抗しうる破魔の刃を鍛えろっていう、エリスの父君の遺言だよ」

「リーヴ様の……?」

 エリスの父リーヴ・アープは魔道士として先の戦いで活躍し、終戦後は王の腹心として、また占い師としても仕えていた。三英雄のひとり、金色の魔道士と謳われた彼はどんな未来を予見したというのか。

「だからといってあんな……、特殊な威力を持った剣をどうやって」

「ドワーフに鍛えて貰ったんだよ」

 内緒話をするように、そっと小声で。

「ドワーフ? 創世神話に出てくる、あの?」

「信じてないよね」

「あれはおとぎ話だ。ドワーフもエルフも竜もただの空想上の生物に過ぎない」

 まあそうなるだろうと思いながら、リグルがぎゅっと洗い物を絞る。

「ねえリグルさん、私の服知らない? 籠に入れたはずなんだけど」

 着替えたエリスが洗濯場に顔を出した。血がこびりついていた髪は金色の輝きを取り戻してさらりと揺れている。

「あ、今洗い終わったところ。これから干し……」

「え!? 私の服、えっ、そんなの、自分でやるのに!」

 エリスが慌てて取り戻そうと手を伸ばせば、

「せっかくお風呂入ったのに、洗濯してたら冷えちゃうよ。いいから早く、エリスはちゃんとベッドで休んで」

 リグルがひらりと躱す。

「もう、だって」

「いいから、ほら」

「……リグルも早く風呂に入ったらどうだ」

 ラスフィールの声に二人の動きがぴたりと止まる。

「俺は後でいいよ。ラスの方が……」

 血を浴びているから、と言いかけて口をつぐんだ。

「いや、私はまだ洗い物が残っているからな。お前が先に入れ」

「……分かった、じゃあお先に」

 洗濯物がどうのと話しながら洗濯場を後にした二人と入れ違いに、宿屋の店主が顔を出した。

「アルス、ここにいたか。話がある、ちょっといいか」

 手を止めて顔を上げると、店主が両手の平に乗る程度の革袋を差し出してきた。

「これは」

 手を拭ってから受け取った革袋を開けてみれば、中には銅貨がじゃらりと入っていた。

「うちの護衛として雇ってたからな。大元の盗賊を退治してもらったのにこれっぽっちしか用意できなくて悪いが、今はこれが精一杯でな。盗賊退治、お疲れさん」

「私が勝手に雇ってくれと押しかけただけだ。寝食を提供してもらってこちらが助かったくらいだというのに、受け取る訳には」

「まあそう言うな。お前、昨夜人質に取られた子供を助けたんだってな? その親御さんと、あの区画の代表から気持ちだけでもって預かった分も入ってる。今まで領主争いのせいでさんざんぐだぐだしてたところを、お前らがあっさり片付けてくれたんだからな。礼くらいさせてくれ」

「それならば私ではなく、あの二人に……」

「ほれ、人質になった子供の親御さんの気持ちも入ってるって言っただろ? 受け取った後お前さんが好きなようにすればいい」

 そんなつもりではなかったのだが、迂闊に目立ちすぎてしまったか。そう言われてしまっては、ラスフィールも受け取らざるを得ない。

「それでアルス、これからどうするつもりだ」

 宿屋の主人が神妙な面持ちになった。

「盗賊騒ぎを聞いて戻ってきたお前が護衛として雇ってくれって言ったから、うちで雇った。だがもう盗賊はいない。これからどこか行く当てはあるのか」

 目的は果たした。だが帰る場所も進むべき場所もない。ラスフィールが沈黙していると、主人が腕組みして続けた。

「あの二人、カディールにお前の話を聞いてここに来たそうだから、隊商の場所を聞いて追いかければ合流できるかもしれん。まあ、うちも俺ひとりだし、そのまま宿屋の手伝いとして雇ってくれっていうならそれでもいいんだがな」

 そう言って店主は笑ってその場を後にした。

(私は最早ただの亡霊にすぎない。居場所などもうどこにも……)

 ひとり残されたラスフィールは、しばらく無言で立ち尽くした後、黙々と洗濯を続けた。

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