月影の暗殺者と六華の聖女

向陽

第1章〈浪江会〉編

第1話 月影

「――ま、待ってくれっ!」


 男の悲痛な叫び声が書斎に響いた。

 黒塗りのナイフを逆手に持ち、ゆっくりと近づいていた青年は、その足をピタリと止める。情けを掛けたわけではない。青年はただ、『死』という絶望が間近に迫った状況で、男が次に何を言うのかが気になったのだ。


「ど、どうしてこんなことをするっ⁉」

「……? 俺は暗殺者だ。狙われる理由、お前に心当たりないわけがないだろ?」


 青年は視線を動かし書斎を見渡す。

 有機化学や物理学などの理化学系から、薬理学や病態生理学などの医療系。一通り目を通すのも苦労しそうなほど分厚い専門書が数多く並んでいた。


「――ッ」


 男が表情を歪め、息を呑む。

 青年は暗殺するにあたり、目標人物ターゲットの情報はある程度記憶している。


 かれの名前は大堀おおほり壮馬そうま本国ヒノモトで有名な製薬企業『株式会社OHORI』の代表取締役。今では新薬だけでなく、化粧品やサプリメントまで扱う、いわば大企業のトップだ。その巧みな手腕と持ち前のカリスマ性で、たった彼一代で総資産数千億円を成し遂げた天才。――というのが表の顔。


 裏の顔は、公安指定暴力団・指定番号197853――通称〈浪江なみえ会〉の一番のスポンサー。活動資金を提供する代わりに無関係の人間をさらってきてもらい、不同意に非合法なドラッグの治験が行われ、果ては人体実験まで手を出していた。


 彼の手によって亡き者になった人は、すでに数十人を超えている。大企業の影に隠れた、残虐で卑劣な犯罪者だ。


「その顔。心当たりでも思い出したか?」

「ど、どうして……。どうやってその情報を――ッ」

「さぁな。ただ俺は依頼されたままに、お前を殺す。それだけだ」


 青年は黒塗りのナイフをくるくると器用にまわし、大堀壮馬へ刃を向ける。彼は慌てて言い放った。


「か、金かっ⁉」

「……ァ?」

「金ならあるっ。たんまりあるっ。一億か? 二億か? 言い値で払うっ。だから俺を見逃してくれッ‼」


 大堀壮馬は額から大量の汗を流しつつ、勢いよく土下座をした。そんな姿を見て、青年は心底つまらなそうに「はぁ」とため息をついた。


「結局、犯罪者おまえらはいつも同じだ。総じて『金、金、金……』。もうそれは聞き飽きた」

「じゃ、じゃあどうしたら――」

「大堀壮馬、お前に一つ教えてやる」

「へ?」


 間抜けな返事を無視し、青年はゆっくりと歩き出す。


「さっきも言ったが、俺は暗殺者だ。じゃない。この違いが分かるか?」


 大堀壮馬は黙ったまま答えない。


「殺し屋は金さえ積めば誰でも殺す。そこには正義なんてカケラも無く、富という私欲しかない。非合法な、いわばただの殺人。連中の大半が、元来、生粋きっすいの快楽殺人者だ。

 だが、暗殺者おれたちは違う。明確な意思を持って行動している。依頼者の要望に応えることで、ヒノモトの国民を守ること、ひいてはヒノモトを守ることに繋がっていると信じている。つまり暗殺者おれたちは、金が目当てで殺しをしているわけじゃないってことだ。

 ……大堀壮馬、コレがなんだか分かるか?」


 青年はそう言うと、左手の中指に通した翡翠ひすい色のリングを見せる。大堀壮馬はそれを見つめ少し考えたあと、首を小刻みに横へ振った。


「……わ、分からない」

「これは俺が国の機関に属している証だ」

「国の……まさか――」


 ハッと息を呑み、大堀壮馬は目を大きく見開き首を上げる。そしてぼそりと呟いた。


「…………〈月影げつえい〉」

裏社会この界隈に足を踏み入れてる奴なら、一度は聞いたことがあるだろ? つまりお前の暗殺の依頼主は、このヒノモトってことだ。分かるか? この国に、お前の居場所はねぇんだよ」


 青年は一呼吸おいて続けた。


「……大堀壮馬、お前、もういらねぇってさ」

「ふざ……ッ。ふざけるなッ!」


 大堀壮馬は顔を真っ赤に染めて怒号した。


「そんなことあってたまるかっ‼ これまで俺がつくった薬でヒノモトの人間をどれだけ救ったと思っているッ⁉ 俺がいなければ死んでいた人間もいたはずだッ!! にも関わらずヒノモトは俺を捨てるというのかッ」


 吐き捨てるように言い放った大堀壮馬は、素早くデスクの下の隙間に手を入れた。取り出したのは、黒光りした一丁の拳銃。彼は躊躇ためらいもなく、青年へ向けてその銃口を突き付けると、二回の撃鉄げきてつが叩かれた。乾いた破裂音が書斎に響く。


 完全な不意打ち。外すことのない距離。確実に仕留めた。そう、大堀壮馬は確信していたが――


 キンッ! キンッ! と。命中する寸前、青年の腕がかすむようにひらめいたと思ったら、二発の弾丸がはじかれていた。外すことはなかったが、のだ。


 人間離れした芸当を平然とやってのけた青年に、大堀壮馬は唖然あぜんとした様子で「……魔術師バケモノが」と呟いた。


「確かに、お前のつくった薬がなければ、とっくに死んでいた人間はいるかもしれない。感謝をしている人間もいることだろう。だが――」


 青年は逆手に持った黒塗りのナイフを振りかざす。



 ヒュンッ――と、風切り音が静かに鳴った。

 青年の振り下ろしたナイフの刃は、ブレることなく一直線に大堀壮馬の喉元を断ち切る。ぴっ、と鮮血が飛び散り、青年の頬を濡らす。


「カ――。――――ッ」


 喉元を切られた大堀壮馬は、両手で首を抑えながらもだえ、やがて青年を恨むように睨みつけながら絶命した。


「あの世でびろ、大堀壮馬」


 青年は大堀壮馬の亡骸なきがら一瞥いちべつすると、静かにその場を去った。


     ***


 誰もやりたくはない仕事だけれど、誰かがやらねばならないのなら引き受ける。


 始めたくて始めた仕事ではないけれど、引き受けたからには最後までやり通す。


 決して賞賛される仕事ではないし、俺たちの顔が表へ出ることはないけれど。表へ出ないからこそ、やるからには誰かの役に立ってみたい。


 明日が来る保障なんてどこにもないけれど。


 俺たちにはこれしかできないし、俺たちにしかできないことなのだから。


 今日もまた、俺たちは誰かを殺す。


 顔も知らぬ、この世界の誰かの役に立つために――……。

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