愛憎の剣

銀星石

ある騎士の悲劇

 ハリソン・アッシュバートンとの婚姻は政略結婚だが、アビゲイル・フォーグラーはそれ最良と感じていた。

 ハリソンは魔法剣の一つ【放炎剣】の使い手にして騎士として最高の栄誉である聖剣騎士十傑集に選ばれた一人。王国においてこれ以上の男は望めない。

 魔力属性の相性も良かった。人は大なり小なり魔力を持ち、夫婦が持つ属性の相性が良くなければ子は望めない。


 ハリソンの属性は火、アビゲイルは風。妻の風が夫の火をより大きく燃え上がらせ、子は父を超える火の魔力に恵まれるだろう。

 何よりもアビゲイルはハリソンに以前から想いを寄せていた。

 新たな聖剣騎士十傑集を決めるための剣術大会。そこに彗星のごとく現れたハリソンは並み居る強豪を次々と打ち倒し、ついに聖剣騎士の称号を勝ち取った。


 人々の歓声のなか、国王より賜った聖剣騎士の証を掲げるハリソンにアビゲイルは心を奪われていた。

 彼とともに時を過ごせたらどれだけ素晴らしいだろうかと、アビゲイルは毎夜のように夢を見た。

 とはいえ夢は夢。家の都合で選ばれた適当な男に嫁ぐだろうと理性の部分では割り切っていた。

 それだけに、父からハリソンとの結婚を伝えられたときは、片思いを募らせるあまりとうとう幻覚を見始めたのではないかと疑ったほどだ。


「どうか私との婚姻、受けていただけないでしょうか」


 アビゲイルは差し出されるハリソンの手を取った。

 彼の手は剣を握り続けた者特有の固さがあった。その感触をもってて、アビゲイルは夢が現実になったのだと理解した。

 国一番の男の愛が自らにそそがれると思うと、アビゲイルは天にも登る程の幸福感に満たされた。

 しかしアビゲイルが求めた愛はなかった。

 ハリソンは嫁いできたアビゲイルが不安や不便を感じないように努めていたが、しかしそれは良き夫という「業務」を忠実に遂行しているだけに思えた。


「ウォルター! 今日は勝たせてもらうぞ。三連勝などさせるものか!」

「どうかな。今日の俺はすこぶる調子が良いぞ」


 聖剣騎士十傑衆のみ使うことが許される特別な訓練場でハリソンとある男が試合していた。

 その男はウォルター・ウィンストン。彼もまた聖剣騎士十傑集の一人であり、彼が手にする魔法剣の【凍える剣】は数多くの魔物や悪人を倒してきた。

 また、それ以上にハリソンの好敵手として名高いのがウォルターという男だ。

 二人は出会ってその日のうちに意気投合し、まるで歯車が噛み合ったかのように、ハリソンとウォルターは互いに良い影響を与え、日進月歩の勢いでその実力を高めあった。


 真剣にしかし楽しく剣を打ち合うハリソンとウォルター。好敵手として競いながら、誰よりも心が通じ合っているのは明らかであった。

 刎頚の友とはまさに彼らのことを言うのだろう。

 その様子をアビゲイルは見ていた。影から嫉妬のこもった眼差しでウォルターを睨みつけていた。


 愛する夫の心を独占するウォルターをアビゲイルは憎んだ。

 ただの視線に殺傷力があるのなら、それは間違いなくウォルターを射殺していただろう。

 この時、アビゲイルは初めて自分の生まれを呪った。男子として生まれれば、剣の腕を磨き、聖剣騎士に選ばれ、好敵手としてハリソンの心を独占できたはずなのに。


「ハリソン様は私のもの。私だけのものよ。他の誰にも渡さない」


 その日を境にアビゲイルは忽然と姿を消した。

 ハリソンは懸命に妻の行方を探したが、手がかり一つ見つからず、無為な月日を5年も重ねただけであった。



 その日、ウォルターは国の最北端にある寒村に一人で足を運んでいた。

 聖剣騎士十傑衆はその強さのあまり、一般の兵士や騎士が巻き添えにならぬよう単独行動を基本としている。


「ここに尋常ならざる剣士が現れたと聞いた。詳しい話を聞かせてもらう」


 村長によれば、数週間前にオーガが村に現れたのだという。オーガは鬼の一種であり、一人で王国の兵士10人分以上の力を持つ恐ろしい魔物だ。

 このまま村が滅ぼされるかと思ったその時、謎の剣士が現れてオーガの首を一刀で断ち切ったのだという。


「それは事実か?」


 ウォルターは思わず確かめた。オーガを一撃で倒すなど、一握りの実力者しかできない。


「騎士様がお疑いになるるのも無理はありません。私達もあれは夢ではないかと今でも思うほどです。ですが、オーガの死体を見てしまえば、現実と認めずにはいられません」


 ウォルターは村外れにあるオーガの死体を検めた。首の断面以外は一切の傷がなく、一撃で倒したのは明白である。

 加えて、驚くべき事実が分かった。


「これは、戦士階級を示す印!」


 オーガの社会では強さで身分が決まる。戦士階級は彼らにとって貴族であり、その実力は抜きん出ている。

 謎の剣士はそれを一撃で倒した。聖剣騎士に匹敵する実力者なのは明白。


「剣士の顔を見たものは?」

「申し訳ありません。その剣士様は兜で素顔を隠されてたため、男女の区別すら全くわかりません」


 ウォルターは謎の剣士を探した。その人物の正邪を見極め、悪しきものであるならば討ち取れというのが王から拝領した使命である。

 剣士は予想以上に早く見つかった。なぜなら、剣士自らがウォルターの前に現れたのだ。


「この日を待ちかねていたぞ、ウォルター・ウィンストン」


 剣士は男女の区別がつかない不自然な声色だった。声を変える魔法の道具を使っているのだろう。

 ウォルターはいつの間にか愛用の魔法剣を抜いている己に気づいた。

 剣士から発せられる憎悪、聖剣騎士をもってしても心胆を寒からしめるそれが、ウォリターに剣を取らせたのだ。


「私が得るはずだったものを手にするため、お前には死んでもらう」


 剣士が剣を抜く。その刃は暗闇を形にしたかのように黒い。


「その刃の色、悪心剣か!」


 魔法剣は人々を守る力として作られたが、中には悪用を前提として作られたのもある。

 それが悪心剣である。

 戦士階級のオーガを一撃で倒せる実力に加えて悪心剣の使い手。紛れもなく王国にとって脅威であり、今この場で倒さねばならない。


「真価開放ッ!」


 ウォルターは自らの愛剣たる【凍える剣】の力を開放する呪文を唱える。


「【凍えるほどの恐怖フローズン・スケアード】!」


 【凍える剣】の切っ先から、青い風が放たれる。これに触れたものは、身動きが取れなくなるほどの恐怖にとらわれる。

 普段のウォルターは相手を殺さずに倒すため、この力を使っているが今だけは違う。

 剣士を恐怖で無力化した上で、その首を撥ねる。騎士として褒められた行為ではないが、悪心剣の使い手は必ず殺さなければならない。


「……真価開放」


 剣士も悪心剣の力を開放する。


「【憎悪は永遠に不滅なりイモータル・ヘイト】」


 直後、剣士に魔法の風が直撃する。

 しかし剣士は平然としていた。


「無駄だ。我が剣は悪心剣の一つ【形ある憎悪】。その力は他人に憎悪を植え付けて社会を混乱させるためにあるが、こうして自分に使えば感情を操る力を相殺できる」


 憎悪ほど人を戦いに突き動かす心はない。ウォルターの魔法剣は単に丈夫で切れ味の良い剣に成り下がった。


「それがどうした! 俺は魔法剣に頼り切って聖剣騎士に選ばれたわけではない!」


 そも、聖剣騎士十傑衆が使う魔法剣は、聖剣騎士と認められたときに国王が管理する中から下賜されるのである。

 魔法剣があるから強いのではなく、強いから魔法剣を与えられたのだ。

 剣士が一瞬で間合いを詰めて薙ぎ払うように悪心剣を振るう。並の剣士相手ならそれで首を取られていただろうが、ウォルターは即座に自分の剣で受け止めた。


「もちろん知っている。私はお前を殺すため、全てをなげうってでも力を手にしたのだ」


 ウォルターは戸惑う。兜ごしに剣士から向けられる憎悪は、はたして単に悪心剣で増幅されたからだろうか? それ以上の何かがあるように思えてならない。

 剣士はそのまま無理やり剣を押し込もうとするが、刃は動かない。

 力は自分の方に分があると悟ったウォルターは、悪心剣を跳ね上げる。剣士の両腕が上がり、胴ががら空きになる。


 ウォルターは相手の鎧の隙間を狙った刺突を繰り出した。防御にしても回避にしても、敵にとっては紙一重のタイミング。この攻撃が不発に終わっても、二撃目、三撃目を立て続けに繰り出して追い詰めるつもりだった。

 剣士は真上に飛び上がって刺突を回避する。

 勝った! ウォルターは確信した。剣士は悪手を打った。空中では身動きがとれない!

 ウォルターは再び刺突の構えを取る。百舌の早贄めいて串刺しにするつもりだ。


 だがボッ、ボッという音とともに剣士の体が空中で不自然に動き、ウォルターの背後に着地する。

 風の魔法! 剣士は風の魔法で小さな突風を生み出し、自分の体を制御したとウォルターは理解する。


 ウォルターは即座に体を回転させ、遠心力を加えた横薙ぎの攻撃を背後へ繰り出す。

 剣士は限界まで姿勢を下げてウォルターの回転斬りを避けた、そして両足のバネを使って跳躍し、喉を貫こうとしてくる。

 ウォルターは迷わず背中から倒れた。みっともない格好だが、そうしなければ命を取られていた。


「でやあああああああ!!」


 剣士はそのまま再度空中へ飛び上がり、そして風の魔法で自分を真下へ加速させつつ、悪心剣を振り下ろす。

 ウォルターは慌てて体を転がしてその攻撃を回避する。

 どす黒い剣が地面に叩きつけられると大きな亀裂が走る。


 素早く起き上がったウォルターは剣を構えつつ、地面の亀裂と剣士を見比べる。

 風の魔法の加速も相まって、尋常ならざる剛力である。それ以上に、剣士の憎悪はもはや人の身に収まりきれないほど大きく、それがこのような力をもたらしているのではないかと思えた。

 ウォルターはますます自分が憎まれている理由がわからなかった。


「なぜそれほどまでに俺を憎む!」


 だがその言葉は火に油を注いだようだ。剣士の憎悪がより一層膨れ上がる。

 剣士が地を蹴る音と、ウォルターの至近距離に現れたのはほぼ同時だった。

 魔法剣と悪心剣がぶつかり合う。ウォルターが防御できたのは、とっさの行動がたまたま間に合っただけだ。


「ううっ……ふぅーっ!」


 獣じみた唸り声とともに剣士が押し込んでくる。最初はウォルターに分があった力比べは今や完全に剣士のほうが上回っている。

 聖剣騎士なら悪党から恨まれるのは日常茶飯事だが、ウォルターは自分が今まで憎しみだと思っていたものは上辺だけのまがい物であると悟った。

 目の前にあるものが本物の憎悪。


 力での勝負は分が悪いと判断したウォルターは後ろへ跳んだ。

 同時に手のひらからツララを射出する。本職には一歩劣るが、ウォルターは氷の魔法が使える。

 剣士は安々とツララを剣で弾き飛ばすが、牽制なので問題ない。

 次にウォルターは氷の魔法を地面に放ち、あたり一面を氷で覆った。

 足元が滑って踏ん張りが効かなくなるのは剣士にとって致命的であろう。風の魔法で体を制御できたとしても、よもや氷上の戦いに慣れていまい。


 一方でウォルターは氷上での戦いは十分以上に訓練していた。それだけでなく、氷上を滑りながら剣を振るう独自の戦法を編み出していた。

 ウォルターは魔法で足裏に氷の刃を生成し、氷で覆われた地面の上を疾走する。

 剣士も風の魔法を推進力にして氷上を滑走しようとするが、やはり長年訓練し続けたウォルターには及ばない。


 ウォルターは滑りながらすれ違いざまの攻撃を繰り出す。踏ん張っていない分、一撃一撃は軽く、たやすく防御されてしまうが、徐々に敵の体勢を崩しつつあった。

 やがて、剣士は立っていられなくなり、膝をつく。

 ウォルターは勝機を見つけた。彼は氷上を滑りながら、敵の首に剣を振るう。

 直後、何を考えたのか剣士は兜の面を上げて素顔を晒した。


「馬鹿な!」


 剣士の顔はウォルターに驚天動地の衝撃を与えた。それはいかに聖剣騎士であろうと致命的であった。

 剣士は膝をついたままの姿勢でウォルターの放った一撃を避けつつ、反撃に彼の腕を切り落とした。


「そんな! どうして!」

「言ったところで、お前は理解出来ない。だから私は”こうなった”。次はハリソンだ」


 ウォルターは腕の痛みに耐えながらその場から逃げ出した。敵前逃亡。騎士としてあるまじき行い。しかし、逃げてハリソンに剣士のことを伝えねばならなかった。


「早く、早く伝えねば! このままでは取り返しのつかないことになる!」


 しかしウォルターは友のもとには行けなかった。彼は背後からどす黒い剣に心臓を貫かれて絶命する。



 数日後、ハリソンの邸宅前にウォルターの首無し死体が無残にも打ち捨てられていた。

 死体には手紙が添えてあり「友の首を返して欲しくば、選定の碑石に一人で来い」と書かれていた。

 選定の碑石。それは王国の歴史上最も古い魔法剣が突き刺さっていたとされる石だ。選ばれし者のみが引き抜けるとされる魔法剣をある男が引き抜いたことで、彼は王国の最初の王となったという逸話がある。


 罠だ。当然ハリソンは理解していたが、行かない理由はない。友を弔うためには首を取り戻さねばならない。

 選定の碑石がある丘には剣士がいた。以外にも一人であった。ウォルターを殺したのだから何らかの卑怯を行ったとハリソンは考えていたからだ。

 ウォルターの首は碑石の上で無造作に置かれていた。


「呼び出しておいてなんだが、死んだ者にかまっている暇があれば、行方不明の妻を探したらどうだ?」

「今はウォルターが大事だ! 首を持ち帰り、弔わねばならん」


 なぜ剣士がアビゲイルのことを口にするのかわからない。とはいえ、彼女の失踪は隠していたわけでもないので、知っていたところで不思議はない。


「それに、おそらく妻は私の元に帰って来るつもりはないだろう」


 アビゲイルが失踪したその日、彼女が一人で街の外へ向かう姿が目撃されていた。さらわれたわけでもなく、5年も姿を見せないのなら、きっと夫への愛想が尽きたのだろうとハリソンの中で答えが出ていた。


「……」


 突然、剣士から激しい殺気が放たれた。まるで聞き捨てならない言葉を耳にしたかのようだ。


「そうか……ああ、そうか……お前にとって妻は諦めがつく程度の存在かっ!」


 剣士が腰の悪心剣を抜く。


「真価開放! 【憎悪は永遠に不滅なりイモータル・ヘイト】!」


 莫大な量の憎悪を宿した剣士が襲いかかる。

 ハリソンはすぐに自分の魔法剣である放炎剣を抜いて防御する。後一瞬遅れていたら、初太刀で体を真っ二つにされていただろう。

 ウォルターを殺しただけはある。不謹慎を自覚しつつも、ハリソンは高揚を感じずにはいられなかった。


 ハリソンが聖剣騎士になれたのは、ただひたすらに強さを追求していたためだ。王を守り、民を守るためには強くなる必要があったのもそうだが、それ以外の気持ちも少なからずあった。

 強い相手と戦いたい。研鑽した技を試すに値する好敵手がほしい。それはハリソンという男を語る上で、否定しようのない一要素であった。


「惜しいな。それだけの剣技、悪心剣の使い手でなければ私の友になれたはずなのに」


 悪人とはいえその実力を身につけるのは並大抵の努力ではないだろう。強さを追求するものとして、善悪を超えた敬意をハリソンは示した。


「友か。私はお前から心を向けられるに値する存在か? ウォルターやアビゲイルよりも?」


 命がけの真剣勝負に身分や立場など意味はない。ハリソンは正直に答えた。


「ああ、そうとも。薄情を承知であえて言おう。お前は私の生涯で最高の好敵手になりうる。それゆえに、お前が悪の道にいるのを心から惜しく思う」

「最高……最高! ハハハ! そうか! 私はお前の人生において最も心を注がれる相手か!」


 剣士から憎悪が僅かに薄れる。その分、狂気混じりの歓喜が現れた。

 悪心剣のどす黒い刃が稲妻のように鋭く打ち込まれる。


「まさか風の魔法にそのような使い方があるとは」


 剣士は体の各所から風の魔法による超局所的な突風を生み出して、動きを加速させていた。

 ハリソンは防御に徹しなければならなかった。


「そうだハリソン! そのまま私を見ていろ! 他の誰かに目移りなどさせるものか!」


 剣士が何を考えているのかハリソンは全くわからない。唯一わかるのはこの剣士は自分との真剣勝負を心から望んでいることだ。それこそ理性を失うほどに。

 ならばそれに答えるべきだと思った。騎士以前に、剣を握るものとしての礼儀であると思った。

 ハリソンは限界まで意識を集中させ、剣士の一挙手一投足を見た。嵐のような怒涛の攻撃を見抜き、反撃の機会を探った。


 そして、ついにその時が来た。

 今、剣士は肩を狙った袈裟斬りを繰り出そうとしているがこれはフェイントだ。視線や僅かな体の動きがそれを物語っている。

 おそらく、ハリソンが袈裟斬りに対応する防御の姿勢を見せたたら、即座に太刀筋を変えて足を狙った攻撃に切り替えるだろう。


 ハリソンは防御するのではなくあえて前に出てタックルを仕掛ける。

 まさかフェイントが見破られると思っていなかった剣士は、全体重を乗せた打撃をもろに受けてふっとばされる。


「真価開放!」


 今が千載一遇の好機。ハリソンは【放炎剣】の力を開放する呪文を唱える。


「【放炎剣・超過増幅パイロソード・オーバーブースト】!」


 【放炎剣】の能力は使い手の火属性魔力を増幅する。

 ハリソンは人が本来持ちうる以上の火の魔力を剣から放った。

 鉄をも蒸発させる炎が剣士に襲いかかる。飲み込まれれば灰すらも残らないだろう。

 だがハリソンの炎は唐突に消滅する。


「馬鹿な……魔法か? だが風の魔法で炎が防げるはずない」


 風の魔法の防御はせいぜいが突風で矢を弾く程度だ。炎に対してそれをすれば、風を得てますます火力を高めてしまう。


「風の魔法は空気を操る魔法だ。空気がない場所を作れば炎など防げる」


 風の魔法は風をもたらすもの。その強い先入観により、空気を奪う手段として使うのはハリソンにとって想像の埒外であった。


「ハリソン、ここまでやってまだわからないか」

「気づいてほしいことがあるなら、もっと具体的に言え」

「……わからないなら別にいい。つくづく、私は今の私になって幸せだと思う」

「悪心剣の使い手として悪の道を進むことが幸せと? 道は他にもあるだろう」

「いいや! 唯一の道だ!」


 剣士が悪心剣を振り下ろす。風の魔法による加速を得たそれを、真正面から受け止める防御では【放炎剣】が折れかねない。

 ハリソンは悪心剣を横に受け流しつつ、自分はそれとは逆方向へと足を運ぶ。そして無防備となった剣士の胴を切りつけた。

 刃が敵の体に触れる寸前、かすかな抵抗を感じた。空気の圧縮による防御と察知したハリソンは、潔く後ろへ下がった。


 直後、剣士が回転斬りを放ち、どす黒い刃が先程までハリソンの首があった場所を薙ぎ払う。

 もし素直に諦めていなかったら、剣士に多少の手傷を負わせるのと引き換えに、ハリソンは首を取られていただろう。

 敵が使う空気圧縮の防御は万全ではない。多少抵抗するだけで強引に押し通せるだろう。


 だがその”多少の抵抗”こそが厄介だ。特に、このような紙一重の差が勝負を決める戦いでは。

 ハリソンは相手の隙きをつく必要があった。多少抵抗されても相手に反撃の余地など無い、決定的な隙きを。

 剣士が再び攻撃を繰り出す。力、技、共に一流。だがいささか攻撃に感情が乗りすぎていた。事実、風の魔法で加速させている剣士の太刀筋を、ハリソンは徐々に理解し始めている。


 それを踏まえて目の前の剣士を見ると、技が少なかった。風の魔法の加速やフェイントも使って入るが、技の型自体は基礎的なものばかり。おそらく剣士としての修行をはじめて数年と言ったところか。

 あらゆる勝負事は、結局の所は才能と努力の積み重ねだ。

 剣士が首を狙った横切りを繰り出す。


 【放炎剣】の柄でハリソンは敵の剣をかち上げた。すると剣士は即座に袈裟斬りに切り替えた。

 ハリソンは剣士の手首を狙った。当然相手は空気圧縮で刃の到達を遅らせつつ、腕を引いて回避する。

 その状態で次の攻撃を繰り出すとなれば、刺突が最適解。

 ハリソンの予想通り、剣士は心臓めがけて剣を突き出した。


 相手の動きを見てから対処するのと、くると分かっている攻撃を対処するのは天と地ほどの差がある。

 ハリソンは最小限の動きで刺突を回避し、逆に自らの剣を剣士の体に突き刺した。

 力尽きた剣士の体が地に倒れる。

 剣士はまだ息があった。とはいえもうじき死ぬだろう。

 ハリソンは剣士の素顔を見るために兜を取った。


「!?」


 剣士の顔見た瞬間、悪魔に心臓を握りしめられたかのような衝撃がハリソンに走る。


「そんな、どうしてお前が……アビゲイル!」


 剣士はハリソンの妻、アビゲイルであった。


「全てはハリソン様、あなたの心を手に入れるため。あなたの心が好敵手にしか向けられないのなら、あなたに愛されるため、私は剣をとった」

「アビゲイル……ああ、アビゲイル! もっと、もっと君に愛をちゃんと伝えていれば、こんなことにはならなかったはず」


 ハリソンとて決してアビゲイルを軽んじていたわけではない。むしろ自分の人生にこれ以上の女性はいないと本気で愛していた。

 だが、その愛を正しく伝えていただろうか。愛はただ心に宿しているだけで、愛していると相手に伝わると驕っていたのではなかろうか。

 さめざめと泣きはらすハリソンの頬にアビゲイルは弱々しく触れる。


「私を愛してくださるのですね。ああ、良かった」


 アビゲイルは心から満ち足りた笑みを浮かべる。


「私はハリソン様にとって心の傷になれた。もう二度と、他の誰かに心を向けたりしない。あなたの心は永遠に私のもの」


 そしてアビゲイルの命の灯火は消えた。

 その後、ハリソンは家の存続のため、新しい妻を迎えるのを何度も求められたが、しかし彼は生涯に渡ってアビゲイル以外の妻を持たなかった。

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