JUST KIDDING

栗山 丈

JUST KIDDING


壱   超人


 我々が知るところの超人とは、思いつくところ次の特徴を備えていると言われている。


1 空を飛ぶことができる。


2 視力、聴力、臭覚が優れている。


3 人を説き伏せる説得力を持っている。


4 悪を嫌い、善を全うする。


5 すでに多くの徳を積んでいる。


6 人としてあるべき道を説く。


7 人のしたくないことを進んで実行する。


 ただ、超人とは、フリードリッヒニーチェの提唱する〝自身で築き上げた思索を持って行いとする者〟を指すのではなく、一般的に優れた能力の持ち主で、非現実的な行動を起こすことができる者と定義する。


超人にならって、一般人が自力で空を飛ぼうと努力してもそれは無理な話で、超人の能力は簡単に授からない。


超人の上には更に超々人がいて、彼に出会えた人間は一生幸せになれると言われている。




弐  苦労人


「うぇーん、だから英語の資格試験なんか受けたってだめだって言ったじゃないか。はじめから分かってたんだからさぁ、もう」


「ああ、自信のないのに受けたってダメだよ。テキストや問題集だけを徹底してやればいいってもんでもないよ」


「でも、一日三時間、毎日毎日コツコツと友達と積み重ねてきたのが、何で当日点数が伸びないんだよう、こん畜生!」


「そうは言っても、努力はしていたもんなあ」


「もともと何をやってもダメ人間だしよう。資質に欠けてんからよう、努力したって報われるわけぁない」


「まあ、落ち着け。ピントがズレてるなら、それは勉強のしかたを考え直さなくちゃいけないよ。間違いのない努力のしかたが必要ってもんだ」


「そんなら、どうすりゃいいんだよう?」


「物の見極めがダメなら、全力疾走したってうまくいかないよ。鶏のから揚げを作るのに、鶏肉を知らずに豚肉を買ってきて、そのまま揚げちゃうようなもんだよ」




参  変人


 人が変人と化すのは意外に容易なことだが、変人を元に更生させるのは並大抵のことではない。


わがまま放題で、世間から嫌がられるようになると自然と変人化し、できることとできないことがはっきりしてくる。


コーヒーに塩を振って飲むことはしても、お刺身を醤油につけて食べるようなことはしない。


なかには二酸化炭素を吸って酸素を吐き出す生活を営み、身体から排泄物を出す必要がない者まで現れ始める。


だから一度、変人になると、自己の努力で普通人に戻るしかなく、他人は何も助けてあげられない。


雑誌を読んでいて分かったのだが、インターネット情報に触発されたコメディアンが投資の最先端である暗号資産によって、法定通貨を不特定のものに対して使用できる通貨に交換し、全財産を投げうってしまったそうで、そういう変人的行為とは一線を画したほうがよいのは言うまでもない。


でも、〝変人〟が〝普通人〟の反意語に相当するかと思えばそうでもなくて、〝軌道を逸する〟という表現が少しはシックリくるけども、良い意味でビックリするほど人に好かれる者も中にはいたりするのだ。


こうした人たちに対する差別などはあってはならず、会ったら軽く会釈をして、ニッコリしてあげることが望ましい。




四  世捨人


 最後まであきらめてはいけないと主張する人ほど、内省して「わかりました。もう致しません」と素直にひれ伏してしまいがちなのを、我々は少し勘違いしている。


本当にあきらめの悪い人は粘り強いのが道理にかなっていて、素直で正直である人ほど社会に順応できなかったりする。


世捨人の社会復帰も〝あきらめ〟というツボにはまってしまって、蛸がツボからなかなか出てこようとしないように、出ていきたいのはやまやまでも、あまりに居心地がよいので、抜け出す方法がわかずじまいでいるのだ。


意識と注意力が社会に向かなくなり、少しいいことが身の上に起きれば、手帳に書き留めておきながらも、結局背を向けてしまう姿勢は、改めようと思考を巡らせても困難なのである。


人から叱責を受ければ、かたくなに徹底抗戦する傾向がみられるので、何を恨んでいるのかを探し出してやって、落ち着いて身の上を更生する解決策を助言してやらねばならない。


ネガティブ思考をポジティブ思考に転換することだと諭しても、ポジティブな思考にネガティブな思考が抵抗し、捨て台詞を吐くようなことを考えなしに行動に移す。


なので、保護司か医師に強制的更生を強いる以外の教えを乞うことになる。




五  廃人


 現在は公衆でむやみに口にする言葉ではなく、ためらいの蔑称であるのは誰でも思うところで、その考え方は当面変わるようなこともない。


労わりが必要であるとともに、地道な精神力をもって接し、支えてさしあげるべきである。


人の力をすがって生きていこうとする様子を憐れむよりも、世の中で心を豊かに生きることを惜しまないほうが、身近に脅威を感じることは無くなると耳打ちしてあげればよい。


過去の衝撃からのトラウマを動物の虎と馬にイメージ転換することが可能となって、再起をはかる気持ちが湧いてくるようになる。


 複雑な社会よりも、ある無人島で一人で暮らしていくことを決心したとするならば、野草を採取し、魚を獲ることを覚えるところから始めれば、彼は生活の基本を再取得することができる。


生活の本質を実感すれば、自活できる能力を身体に沁みこませることができるとある心理カウンセラーは主張している。


いたずらに「どうしたの?」と声をかければ逆効果だと言うこともない。


何がしたいかから優しく尋ねて、本人の得意なことを引き出し、お互いがニッコリできるところから始めれば、立ち直りのきっかけとなる。—と本人が言っていたから、間違いないのであろう。




六  偉人


 アル北国ノサイバンショデ、アルデクノボウガ窃盗ヲオカシタコトカラ、島流シガモウシワタサレタ。


コノ判決ヲモウシワタシタヒトリノ偉大ナオトコ。


カレハヒトヲ裁くコトヲ生業トシテイルカタワラ、一方デタイヘンナ偉業ヲナシトゲタ。


ダカラトイッテノーベルショウヲウケルニ値スルワケデワナイガ、カコノイジントイワレタ者タチニツイテ、イジンニ値スルカドウカヲ、ヒトリヒトリ検証ヲカサネタノデアル。


カコノキロクニオイテ、イマドキ切腹ト島流シノハンケツシカクダサナイクラシックナ裁判官デ、ヒトノソンゲンヲモットモ尊重シタオトコデアリ、ホンニンハイジンノイシキハナイ。


ソウハ言ッテモイジンデハナイモノガ、イジンタルシゴトヲシタノダカラ、オトコヲイジントシテ認定シテイクベキダトイウ大半ノイケンガカレヲイジント認定シタ。


イジンヲイジントシテ整理シタオトコヲ、イジントシナイノハ理不尽デアルシ、イジンデハナイ者ガソノシゴトヲシタトコロデ、イジンヲ整理スルコトモデキナイ。


シカシ、ゼンブカレハソレラヲヒックリカエシテ、カンケイシャヲマタモ島流シニシタ。


ソコハ実はカレハイジンギライダッタトコロデアリ、ニメンセイノ著シイイジンダッタノデアル。




七  凡人


 消極的な性格の人がよく口にするのが、べそを掻き掻き鼻をすすりながら〝どうせ私は・・・・・・〟というお決まり文句。


こちらが冗談交じりでニコニコ顔で交わせば返ってねたまれてしまうかもしれない。


うわべだけわたしを見た彼の怪訝そうな顔に、こちらは依然ニコニコ。


心の内面がこわばりつつも、その場を何とか繕って、


「はい、はい。そんなに自分を責めるもんじゃありませんよ。あなたの才能が大きな獲物をハチの一刺しでしとめることだってできるんですから。でも、刺したハチは一度刺したら死んでしまいますけどね。ハハハ」


 持ち上げたつもりが、最後の一言で返って彼は落胆。


どうも調子に乗るのが、非凡人の短所ではないのかと凡人は反撃するが、それでは今の平々凡々の暮らしが立ち行かなくなるではないかと泣き出す始末。


アルコールを浴びて気を紛らわそうとする当人を一生懸命に擁護すればするほど、彼の心の迷いは更に深まり、それ以上の柔軟な思考は見込めなくなってきたようだ。


ほったらかしにしておこうとも思うが、難しい取り扱いを迫られたので、最新の芸能情報でも提供してエサを蒔いておき、関心を寄せてくれれば占めたものとしたい。




八  素人


 現実の世界のその無情を知らずして、口先だけであれこれといとも簡単に物事を言うときって、言われたほうは〝わかってないな〟の一言であきれる場合が多い。


頭の思考が施行に転じないのは、素人だと面と向かって言われたことがないだろうし、自分でも自覚がないのが一般的である。


プロの仕事に対し、根拠もなく口出しをしてはならないのだと人から教わることも少ないし、気づきがないことに気づいてもらいたいとう周囲の願望にも気づかない。


広く浅く生きているんだと普通に思っているだけに、物事を複雑にしたがらないとする一方で、人の裏に見える本心やら私生活を詮索する傾向が見えるのは、見ているほうで何とも余計なお世話に見えかもしれない。


仕事も家事もごく普通にこなし、真面目な性格の一端を見出すことができるのはホッとできるところかもしれない。


 渓谷に魚釣りに行く時だけは彼に警告をしなければならない。


大きな岩や石の上を渡り歩いたときに、ツルツルとした苔のようなものに足を取られてバランスを崩し、頭などを強打し兼ねないからである。


神経が散漫になりやすいので、緊張感を持った行動を取るようにと我々は教えてあげても、聞く耳は持たない。




九  商売人


 カフェでトマトジュースが飲みたいとふと思った瞬間に、早速、目の前に現れて赤いドリンクの入ったコップをサッと差し出してくれるのが商売人だと勝手に位置づけている。


神経がこまやかで、お客の意図を汲み取るサービスを生業とする。


商売人はどんな商品が売れるのかを日夜熟考を重ね、商品開発もするし、市場シェア拡大戦略のために折衝を巧みに進める才能も持ち合わせているのだ。


向き不向きが極端な業界で、世の中は商売に向いた人、すなわち営業ができる人とそうでない人に大きく分類できるとわたしのお隣にいる人は言っている。


 子供のいるお客にはお菓子を配り、帰る際に雨が降りだすと傘をさりげなく差しだす。


相談を持ちかけられれば、車で一気に飛ばして依頼人宅へと駆けつける。胡麻をとことんすりすぎて、すり胡麻から胡麻油へと融解してしまい、できてしまった油を商売人は商品として売ろうと考えているほどである。


仕事上では人情が厚く、商品を売る営業精神をしっかりと発揮する。


いかに小さなお客の購買意欲を見逃さず、ピシッと商品の説明を詳細に行い、契約に持ち込む。


お客の信用を勝ち得る商売人ほど自分の都合を後回しにしてしまう傾向が強い。




壱拾  異邦人


 自分と相性の合わない人物や法人、ましてはその土地や地域性などにとことん愛想が尽きて、もうどうしてよいのか分からなくなってきたところへ、どこかの国の男性がひょっこりと現れて、今、目が合っている。


初めに何やら話しかけようとしてくる日本語はたどたどしく、しまいには、


 ―I`m worried, I`m worried now.


と目に涙を浮かべている。


むしゃくしゃしているところに突然姿を現わしたものだから、心を少し落ち着かせて彼の言い分を聞いてみれば、最も相性の悪い銀行に何も知らない投資信託の話を言葉巧みに持ちかけられ、散々擦り寄られたあげく、結局手数料だけを持っていかれて大損。


解約もすぐにはできない状態にいるらしい。


 ―How should I do?


相性の悪いものに近づいて、言いなりになっては人が良すぎる。


相性の悪いものからは直ちに離れよ。


異邦に来て危ない行為に走るのはよせ。


解約の可能な日が来たら直ちに自分から縁を絶つのだと教えてやる。


 —Was it so? I live in the own country leisurely.




壱拾壱  浪人


 大学を受験しようとする浪人は食べ歩きが特別好きな訳でもないが、食べ歩きを始めるとどうにも止められなくて、グルメ嗜好に走っている。


レストランやカフェを巡りながら美味しい物を探しては堪能し、そして英文法と歴史の流れの重要事項を何度も繰り返し覚え込む。


過去の時代には〝放浪〟という手段で移動を繰り返していたが、現代では食べて歩く楽しみに重点を置いて、受験を突破するのが流行りらしい。


朝は家で食事をとり、出かけるのは図書館ではなくカフェで、1杯のカフェ・ラテを注文して、まずは英熟語の暗記から受験勉強が始まる。


熟語100語をひと通り理解ができれば、甘い物が大概欲しくなるので、カロリーを摂り過ぎないように家から持ってきたのど飴をポンと口に入れて、次に英文読解に進む。


やがて頭がガンガンしてきたら、お昼の時報とともに、片づけて立ち食いそば屋さんへ直行。浪人はお金の浪費ができないから、440円のきつねそばで手を打つ。


ゆっくり噛んで食べるとおなかが膨れて良いけども、必ず眠くなるから、早食いで掻っ込む。


午後はほかのカフェで国語の長文読解。神経を集中させて要旨を200字以内でまとめ、多少の休憩を入れて大体夕方まで受験のテクニックを習得する。




壱拾弐  社会人


 天橋立ビューランドか傘松公園で股から覗いた天橋立の絶景に初めて驚くように、学生から社会人への新生活を迎えた人たちは多くの感動と気づきを得る。


社会の激動の波に揉まれ、働いて初めて分かることが山ほど出てくるのである。


よく新年度早々に目にするのが、フレッシュなスーツ姿で街中や駅のホームで固まって楽しそうにしている新社会人の固まったお団子姿の光景である。


春の風物詩ではないが、特有の現象で目に止まるとフレッシュな感覚が芽生えてくる。


社会人は新しい経験を積みながら人格の形成とともに、社会的共生感覚が身に付き、大人の感覚というものが分かってくるものである。


人間は固まって行動する習性が取り立ててある訳でもないのに、それが若者によく見られるのは不可思議である。


新社会人より三十年働いた社会人のほうが、知性と理性を備えているかというと、押し並べてそういう傾向はあるものの、そうとも言えない事実もなくはない。


人材発掘の観点からは貴重な逸材が引き抜かれて多忙な部署へ異動してしまうのは自然の摂理である。


傍から見れば致し方ないのであるが、本人からすれば苦労を負うことが長い目で見て、そしていい意味で、豊かな人生経験ができると言われている。




壱拾参  芸能人


 テレビ出演の前に楽屋入りしてから仕出し弁当を食べる芸能人が、必ずしもその弁当が好きでないとしたら、次には如何なる行動を見せるのだろう? 


すぐさま弁当の蓋を閉じ、食べようとしない芸能人はおそらくは人気者であり、すでに豊かな人生を歩んでいて、自己の内面的欲求を社会生活において実現できているはずである。


逆に、我慢して食べようとするなら、その状態は軽いストレスに当たるものであり、少なからず健康的にも精神的にも好ましい状態とは言えず、芸能活動にも影響が出てしまうことだろう。


ここで言いたいのは、食べ物を残しても構わないということではなく、残しても何らかの形で残飯を増やさない方法を彼自身が気づき、持ち帰ればよいのだ。


そこまで果たして、人格の豊かな芸能人と評価できる。


個々の悩みはあるものの、ノンストレスでいられるならば、芸能人として成功を収める確率は上がるのであり、自分を大切に生きることの重要性が分かってくるのである。


忍耐や我慢強いことが美徳のように思われていることが我が国独特の思考性なのかもしれないが、人格と人間性がともに豊かで、実力派であり続ける芸能人が芸能界で勝ち取みとなるのは誰もが認めている。




壱拾四  別人


 見るからに小学生の低学年と思える少年がベンチで一人で座っているのを発見。


ふと知り合いの子だと思ったので、目に留まっている。


そのまま少年の様子をじっと窺っていると、プラスチックの串にさしたカラフルでどでかい円盤のようなペロペロキャンディなるものを片手に無我夢中でしゃぶりついている。


その上、分厚い本を手にし、今まさに表紙を開こうとしている。


その子の様子に惹かれてじっと観察を進めてみる。するとどうだ。


彼はその本をパッと開き、初めから目を皿のようにして熟読をし始めた。


何を読んでいるのだろうと気づかれないように後ろからジーッと覗いてみると、なんとそのページには数学で言うところの〝フェルマーの最終定理〟に関する説明がこと細かく書かれている。


かなり分厚い数学の専門書らしき資料。彼は夢中でキャンディをペロペロしながら、時に空を向いて真剣な眼差しで、学問と向き合っている。


『3以上の自然数nでは、Xn+Yn=Znとなる自然数の組X,Y,Zは存在しない―』


 結局、私の知り合いの子どもと見間違えたその少年は、数学者の卵に違いなく、才能とおさな心は決して比例しなくともよいことがこの出会いで判明した。




壱拾五  有名人


 テレビ出演をすると名が売れ始め、出演が度重なれば、「テレビ、見たよ」と街角で声を掛け、有名人扱いするのは人間の不思議な錯覚かもしれぬ。


テレビに映ればもう有名人。


コツコツと努力しているだけではなかなかその名声は拡がっていかないものだ。


一つの技術を磨きあげることは思うようにいかないのであって、高い壁を乗り越える算段を考え抜いた人が有名人の地位に着けることになっている。


もちろんその道を究めることは必要条件で、並大抵のことではない。

 銀座の高級レストランで一度食事をしたからと言って有名人になれるわけでもなし、これが毎日通うようになると次第に周囲の噂が立ち始め、近所でひそひそ話があちらこちらで持ち上がるようになれば、これはまた有名人に数えることもできようが、役所や出入りの店にいつもクレームを入れてばかりいる常連は、その役所とお店に限定された有名人である。


一部の人が知っているのと、日本国民が誰でもわかる有名人とは格が違い、努力して成した名声を持つ人のほうがはるかに人からも好かれ、人気もある。


多くの人が知っていると、私生活においていろいろと偏見を持たれる可能性があるが、有名人にとってはそれがどうも窮屈なようである。




壱拾六  文化人


 超人と世捨人を掛け合わせたものなら、それは変人と化し、変人は面倒くさいことが嫌なので、苦労人となることはあり得ず、むしろ廃人になることを好む。


廃人は変人を好むことはない。そのかわり廃人は偉人が大好きで、「もしもし」と声をかけた暁には、偉人は顔を一瞬向けた後に、何事もなかったかのように考え事を始める。


そこで凡人と偉人は大差がないことを証明するために、至るところから採集してきた凡人と偉人の戯言を九百例ほど確認したが、すべてが紙一重だったことは確認できなかったので、偉人はバカと利口の差を証明し損ねた。


偉人が素人に憧れつつ、食い繋ぐために、商売人になろうと雑貨のネットショップを心得ている異邦人と知り合いになったが、まったくもって商売人の素質を持ち合わせていなかったので、憐れ日本刀を所持していた浪人に切り捨てられてしまった。


その浪人ときたら、社会人であったにもかかわらず、我こそが芸能人と意気込んで、テレビ出演できないかとあるテレビ局のディレクターにかけ合ったが、まったくの別人が起用されている。


それが何でも器用にこなす寄木細工づくりの有名人であったことは、後に黄綬褒章を受ける際に文化人と認められたので、誰でも知るところである。


                                                             (了)

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