羽の無い蝶は明日を飛ぶ

マル

羽の無い蝶は明日を飛ぶ

「義則さん、貴方ここに来て何年ですかね」


『頑張る』


私は、この言葉を心の底から嫌っている。

現に今も、私よりも若い上司に『頑張った』部分を否定されている。


「聞いてますか」


聞いてない。聞くのも無駄。聞いても無意味。何故ならば皆、口を揃えてこの言葉を吐く。


『頑張って』


──気づけば、私を一度も見なかった部長へ、退職届を出していた。


昼間だと言うのに外は寒かった。まるで私の心を表すかのように、北風が吹いている。

私は死のうと思った。妻にも出ていかれた私はもう、思い残すことは無かった。


「自殺はやめなよ」


近くの病院の屋上で柵に手をかけた時、品のある、柔らかな声が聞こえた。

一人の少女だ。高校生だろうか、とても、病院に居るような弱々しい女の子にはみえない。

──だがただ一つ、その子は車椅子に乗っていた。


「でも私は明日飛ぶよ」


車椅子の少女は私に向かって言った。自殺か何かを疑いたくなるが、そんな雰囲気では無い。


「足が悪いのにかい?」


「うん、頑張るの」


『頑張る』


こんな幼い子に対しても嫌悪感を抱く、私の器の小ささに腹が立つ。本当にどうしようもないんだなと思う。


「私が言うのも何だが、自殺は良くないと思うよ」


「違うよ。山で飛ぶんだよ。ほら、なんかパラシュートみたいな乗っけるやつ」


そう語る彼女の目は輝いていた。


「君はどうして飛ぶんだ」


私なら何も答えられない問に、少女は笑ってこう言った。


「飛びたいから」


「空の先を見たい。鳥と一緒に飛びたい。それに何より」


息をよく吸い込んで少女は言った。


「私死ぬんだ」


「え」


「もう決まってるの。大人にはなれないだろうって、そのくらい重いらしいの」


言葉が出てこない。


「だから、だから貴方は死なないでよ!」


少し掠れた声でその子は言う。掠れていても圧を感じる。

だが無責任だ。私はこれを聞いても響かない。私とこの子は関係ない。ここでは死なずともいつかきっと、自らの手で死を選ぶだろう。


「知ってるよ」


数分の沈黙の後、泣きながら少女が、嗚咽混じりに話し出した。


「隣のビル、いつも夜遅くまで電気がついてるの。私その人が頑張る姿を見て、夢を叶えようと思ったの。諦めちゃダメだなって。死んでもいいなって思えるようにって、それ、貴方じゃ、ない?」


私の心臓の鼓動がよく聞こえる。時間が止まったみたいに、自分の音以外が聞こえなくなる。そして、視界がぼやけてくる。


──ああ、こんな少女に悟らされるとは。


「君、『頑張って』な」


そう言って私は屋上の、階段へと繋がる扉へ手をかけた。



あれから、数年。少女がどうなったかは知らない。飛べたのかも、飛べなかったのかも。


『頑張る』


今でもこの言葉が嫌いだ。今日もこの言葉に翻弄される日々を送っている。

だけど少しは、悪くない言葉だと言える。何故ならもう、『頑張った』部分を否定されても大丈夫だから。見てくれる人がいてくれるはずだから。


真冬の空の下、季節外れの蝶は明日の方向へと飛んで行った。












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羽の無い蝶は明日を飛ぶ マル @ushiyama

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