第29話 2
アツヤ君から電話があったのは、その試験の前日、金曜日の夜のことだった。
公衆電話から電話来ることなんて滅多にないから、画面に表示された「公衆電話」って文字に、まずビビった。
「……はい?」
緊張しながら電話に出ると、まず聞こえたのは、プーっていう公衆電話の独特の音。そして。
『大橋さん』
囁くようにオレの名を呼ぶ、アツヤ君の抑えた声だった。
ちっとも連絡してくれないなー、なんて不満に思わなくもなかったけど、ホントに電話貰えるなんて思ってなかったから、動揺した。
「ど、どうしたの? 何かあった?」
嬉しさ半分、動揺を隠せずに尋ねると、不機嫌そうな声で『はあー?』って言われた。
『何もなかったら電話しちゃいけねーんスか?』
「いや、そうじゃなくて。……あの、嬉しいよ」
素直に伝えると、電話の向こうで小さく笑う気配がする。
そして数秒間の沈黙。
変なの。うちにいる時は、そんなにお互い喋る方じゃなかったのに。電話を間に挟むと、沈黙がやけに落ち着かない。
「あのっ、公衆電話、電話代かかるだろ? かけ直そうか?」
間を取り繕うように提案すると、『このままで』って言われた。やっぱりアツヤ君も、受付を通すのイヤなんだろうか。っていうか、勉強の最中に呼び出されて、わざわざ受付まで行かなきゃいけないの、そりゃ面倒だよね。
ホテルみたいに、部屋に内線電話でもあれば別なんだろうけど。
『最初は気になんなかったんスけど、やっぱ落ち着かねーんス』
そう言うのは、よく分かった。
この辺の不自由さは、ケータイ禁止だから余計にかな?
じゃあ、コレクトコールは、って思ったけど、それもあっさり却下される。
『んな面倒なことしてまで、電話したくねーっス』
って。確かにそうかも。
言葉に詰まってると、こっちに聞こえるくらいの大きなため息をついて、アツヤ君が言った。
『別に期待してた訳じゃねーっスけど、大橋さん。もうちょっと、色気のあるコト喋れねーんスか?』
「い、ろけ!?」
色気って。色っぽい、こと? そんなの、何を言えばいいのか分かんないんだけど。えっちなこと、言えばいいの?
「……えっと、パンツ何色? とか?」
恥ずかしいの我慢して、とっさに思いついたこと口走ったら、ぶはっと吹き出されて、爆笑された。
『何スか、それっ』
ははははは、って大声で笑われて、カーッと顔が熱くなる。
オレだって、違うなって分かってたよ。いきなり色気がどうとか言うからじゃん。もう、そっちが無茶ぶりして来たくせに。
『あー、ちくしょ、なんで今電話なんだ』
アツヤ君はそう言って、しばらく大声で笑ってた。
じゃあ何言えば良かったんだ?
頭の中で文句を言うと、それが聞こえたみたいなタイミングで囁かれる。
『会いてぇな』
ぼそっと落とされた囁きに不意打ちを食らって、胸がきゅーっと苦しくなった。
またすぐに笑いの発作がぶり返したみたいで、アツヤ君はしばらく電話の向こうで笑ってたけど――嘲笑じゃないのは、顔を見れなくても分かった。
考えてみれば、オレ、アツヤ君がこんな風に笑うの、初めて聞いたかも。
いつもいつも生意気で、大人びた皮肉っぽい笑みを浮かべて。「ふっ」とか、「ははっ」とか、見透かしたように笑うだけだったよね。
そういう顔しか知らなかったから、そういう子だと思ってたけど……こうして快活に笑ってる声を聞くと、やっぱり10代の高校生なんだな。
ひとしきり笑った後、アツヤ君はふぅーっ、と長い息を吐いて、いつもの口調でさらっと言った。
『明日オレ、試験なんスよ』
「うん、知ってる。頑張ってね」
オレはうなずきながら、壁に掛けたカレンダーを見た。マジックで丸く囲まれた日付は、明日と明後日。
『まあ、そうっスね。パンツのお陰でリラックスできたし』
パンツ、って。くくっと笑いながらそう言うとこは、やっぱり生意気だと思うけど。
『頑張って来ますから』
キッパリ宣言されると、じわーっと胸が熱くなって、好きだなぁってしみじみと感じた。
電話を切ろうとしてる気配が何となく伝わって、でもまだもうちょっと繋がっていたくて、「あの、さ」と声を掛ける。
でも、何も話すことなくて――とっさに頭に浮かんだのが、あの湯呑のことだった。
「お揃いの湯呑、さ、名前入りで作ったから。だからアツヤ君、戻って来てくれないと、困るよ」
困るよ、って。自分で言ってから、何か駄々こねてるみたいだなって思ったけど、アツヤ君はもう、吹き出したりはしなかった。
『何スかそれ、湯呑みって』
ふふっと笑ってるけど、嘲笑してる風でもない。
今、どんな顔してるんだろう? もし今ここにいたら、どんな目でオレを見るんだろう?
ヒモじゃなくて、ペットじゃなくて、大人と子供じゃなくて。ただの瀬田敦也として。どんな視線をオレにくれるんだろう?
しばらくの沈黙の後、『じゃあ』って言って、電話は切れた。
切った後も胸がじんわり温かくて、顔が緩んでるのを自覚した。
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