アンチョール橋にて

尾久衣

甘いお嬢さん

マリアムという女が死んだ。

その事実は街中の噂になっていた。


海に面した北岸の港町である。小さいながらも外に開かれた海には、近辺の小島からだけではなく、大陸や遥か西からやってきた船も出入りしていた。交易と商人で栄えた町は、言葉も肌の色も違う人々がちぐはぐに住み着き、混沌めいた落ち着きを孕んでいる。


マリアムもそんな場所で生まれた1人だった。太陽の恵みを受けた小麦色の肌は艶やかに煌めき、くっきりと整った目鼻立ちを際立たせる。緩やかにウェーブした豊かな髪が剥き出しの肩に垂れるのは、何か秘め事を隠しているように見えたものだ。


テオドールは一度だけマリアムと会ったことがあった。友人であるヨハネスの砂糖工場でだ。


ヨハネスは父の代からこの地で砂糖工場を経営していた。マリアムはそこの工場長の娘である。


テオドールは2年前にここに来たばかりで、現地の言葉はまだ分からない。そんな彼にマリアムは現地訛りの蘭語で簡単な挨拶をしてくれた。愛嬌と教養は命綱であると理解しているのだ。


ただそれだけのことだったが、テオドールには妙に印象深かった。だから、ヨハネスが妾を囲うつもりだと聞いた時、すぐにマリアムの顔を思い出すことが出来た。


工場から一区画離れた場所に、新しく家を建てるのだという。土地を整備し、資材を運び入れていた。表通りの喧騒からは離れた静かな場所だ。


「大工の数が多いな。やけに急いでいるじゃないか。」

様子を見に行ったテオドールが問うと、決まり悪そうにヨハネスは答えた。

「実は、彼女がまだ承知していなくてね。生涯を保障すると言ったのだが。だから先に立派な家を建ててやれば、気持ちも動くだろうと思うんだ。」


それからひと月も経たないうちであった。マリアムが橋の下で発見されたのである。


あちこち損傷していたのは、投げ落とされたからだけではなかった。どうやら暴行されたらしい痕跡が認められたという。


愛娘の変わり果てた姿に、工場長夫妻は見る影もないほどに落ち込んでしまった。ましてや、婚前の娘への手酷い仕打ち。胸中を察するに余りある。


建築途中であった妾宅はすっかり工事が止まってしまった。売り払ってしまうか、他の事業に使うのだろう。マリアムの不幸があって以降、まだヨハネスと顔を会わせていない。


テオドールは欄干に手を掛けた。 この下でマリアムは見つかったのだ。下を流れる川は、まもなく海に注ぐ緩やかなものだ。


近くのモスクから、日に4度目の祈りを捧げる声が聞こえる。既に太陽は沈み、辺りは刻一刻と暗渠に浸されていった。


橋は大した高さではなかった、が、テオドールには下を覗き込む勇気はない。何かを見てしまいそうな気がするのだ。


『あの橋には死んだ女の幽霊が出る。』


近頃、そんな噂が囁かれるようになっていた。世にも悲しげな姿で通る人を襲うというのだ。無理からぬことであった。誰が見てもマリアムはさぞ無念であったろうと思われたからだ。


その噂話を聞いてから、テオドールの胸騒ぎは日を追うごとに増していった。マリアムが、まだそこにいる。そう思えば、逸る気持ちを抑えきれずにこんな所まで来てしまった。


気温が下がると、一層に湿り気を含んだ匂いに満たされた。幼い頃、夏に湖畔へ遊びに行った時のことが思い出された。あの時分には思いもしなかったほどに、遠く故郷を離れたものだ。


橋の上は風が強い。汗ばんだ肌が少し冷やされる。子供たちが駆け抜けていく。皆家路へと急ぐのだ。先程までは人通りのあった橋が、いっとき静寂を取り戻す。テオドールはここに至って逡巡していた。


このままここにいて、どうするつもりなのか。噂が本当だとして、マリアムが現れたとして、今更何が出来よう。もう、私にはーーーー


その時、背後に微かな物音を聞いた。砂利を踏みしめるような音だ。


橋梁のどちら側からも人が来ていなかったことはわかっていた。


にわかに肌が粟立ち、腹の奥底から寒気が這い上がってくる。両の足は痺れてしまったように動かない。


マリアムか。君なのか。


覚悟を決めて来たはずなのに、いざとなると動けない。全く一事が万事これであった。


統領地で一旗揚げようと、故郷を捨てる覚悟で遥か赤道の先の島に来た。しかし事業ではここぞという時に及び腰になり、思うように成果を出せないでいる。


だからだろうか。


あの日、この時間、この場所で、暴漢に襲われている彼女を見たとき。ふいに剣呑な衝動が湧き上がったのだった。


酷い姿で置き去りにされた彼女に、手を差し伸べる。介抱するふりをして、そのまま橋の下へ突き落とした。女の小柄な体躯などオモチャのようなものだ。金属的な叫び声は、ごく短いものであった。


背後の気配に気圧されるように、テオドールは川を覗き込む格好になった。黒ずんだ川面に、自身の顔が歪んで映る。その後ろから覆い被さる一つの影。この薄暗い中、不思議とその相貌はよく見えた。


痩せこけた頬に落ち窪んだ両の目。陰鬱な顔を散らかり放題の縮毛が包み込む。



違う。



違う。マリアムではない。



テオドールにはよく分かる。最期の姿を見届けたのは自分なのだから。これが噂の『橋に出る女』なのか。ならば、ならば最初からマリアムなどどこにも−−−


頬に生温かい吐息がかかり、テオドールの意識はそこで途切れた。

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アンチョール橋にて 尾久衣 @okuy416

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