殃禍の騎士と氷輪のマグス

个叉(かさ)

誰も妨げてはならない

暗澹たる雲が月を遮り、深い晦冥に鈍い跫音がこびりつく。

疾走する孤影。

それはローブを身に纏った痩身の男で、しきりに背後を振り返り、悲愴な表情を浮かべる。

泥が跳ね、足下に絡み付く葦は頬にも纏わりつき、彼は疲弊を覚え始めていた。

鈍い。

足が鉛のように重く、汗で衣服がはりつき、息は切れ切れで、全身が悲鳴をあげている。

それでも前に足を踏み出さねばならない。

焦燥が、混迷が、掻き立てる何かが、彼の身体を突き動かしているのだ。

何処をどう進んできたか、既にわからない。

 

谺(こだま)する梟の声は、まるで彼を追い立てる冷徹な傍観者。

其の羽音は追跡者に呼応するよう。

それは邪悪な妖精が冬将軍と共に命を刈り取る狩人の足取り。

終末の阿鼻叫喚の聲を嘲笑うように訊こえた。

 

縺れる足でもがく。

まだ動く。

止まるわけにはいかない。

でも何処へいけば?

足場は湿気を帯びて、酷くぬかるんでいる。

深い葦を抜け、霧立ち籠める木々の間をすり抜ける。

歩を進める程に靴にこびりつく泥が、更に彼を失速させていた。

 

痩身の男――風体からして僧であろう――は何度も転倒し、泥に足をとられながら巨木にまでたどり着いた。

終には震える足が生まれたての小鹿のように震え、わなないていた。

湿気を帯びた大気は重く、身に更なる重力の付加がかかるようだ。

ふと、祈りの言葉が口をついて出た。

 

「ああ、神よ。彼らをお赦しください。彼らは知らないのです。彼らは自分の見訊きするものしか信じないのです。貴方の来光も、彼らは気が付かないのです」

 

其の声は擦れ、隙間風にも似た音を孕んでいる。

それは習慣だ。

常ならば、平静な状態で信者に語られる説法だ。

常ならば、神を生んだ母に捧げられる讃歌であり、迷える者を導く教えであり、生活の基盤である。

 

「貴方のくだす罰を、彼らに与えてはなりません。何故ならそれすら彼らは、貴方の仕業だとは考えないからです」

 

奥歯を鳴らし、喉を震わせる。

走馬灯が巡るようだ。

たくさんの信者たち、夫婦や少年少女が浮かんでは消え、また政敵すらも瞼の裏に浮かんでは消えた。

中でも僧を慕っていてくれた少女は、彼の後ろをずっとついてきていた。

そしてせがむのだ。

愛の唄を。

愛の話を。

神の与え賜うた素晴らしき愛の世界を。

多くの少年少女を教育したが、名前をなんといったか。

 

自身を追い込んだのは一体なんであったのか。

彼自身思い当たる節がないではなかった。

だがアレは過去の遺物だ。

存在するはずがない。

それ自体が不自然で不条理なものだ。

理解しがたく、許容することのできないものだ。

それは、懼れそのものだ。

 

人知を越えた存在を懼れないのなら、それは《神》と呼んで差し支えないだろう。

神の御業こそ神の理解の範疇なのだから。

人に理解できる神の御業など、神に相応しくない。

不可能を可能にすることは神の神たる所以。

奇跡を重ねてこその神なのだ。

我が神の神たる所以は、非凡であることではない。

非凡であるものは凡に寄り添えぬ。

非凡は非凡の中でしか生きられぬ。

非凡は凡を理解できぬからだ。

凡という中にあってはじめて、凡に寄り添える。

しかし、凡であっては凡を救えぬ。

凡から非凡になるために、彼らは凡を超越する。

非凡になる兆しを見せるのだ。

それが奇跡。

 

きっかけやらで目覚めた彼ないし彼女は、唐突に覚醒する。

それは並々ならぬ能力で、筆舌に尽くしがたい。

人々は戸惑い、受け入れられない。

だから奇跡を重ねる。

人々は奇跡を欲して神を敬うようになる。

そう、今の自分のように。

 

警鐘。

怖気と共に自身を支配しているそれも、彼には不要のものだ。

何故なら神を信じる彼には、神と共にあることを怖れたり、神へ近づくことに危機感を抱くなどということはあってはならない。

死とは神と自分を繋げる指標のようなものだ。

そのために神は使いを御許から差し出されたのだし、神への篤信こそが彼の存在意義なのだから。

 

二つの影が揺らめいた。

慟哭など何一つ意味をなさないことを、彼は知っていた。

 

呼吸もままならず、痩身の男は苦悶の表情を浮かべる。

ここ迄かと諦観を決め込むことは、明らかに極めることは、説法を生業とする彼にも出来ないことだった。

もがけるものならもがきたかった。

疲弊した肉体は、動力炉を失った機械のようで、指先一つ動かすこと能わず。

 

二つの影はゆるりと近付く。

月は陰り、其の姿は見えずとも、否、見えぬからこそ畏怖を増長させる。

カタカタと歯が鳴った。

祈りは、そうか、自分を落ち着かせるために零れたのだと知る。

だから、自然と目の前の存在にも投げ掛けられた。

 

追跡者は、まるで彼が力尽きるのを待っているようだった。

侮蔑にも憐れみにも似た、幼い瞳が向けられた。

其れは本来、自分に向けられるものではない。

黒い光を放つ銃(つつ)が自分に向けられるのを、自棄に他人事のように感じながら。

 

「ああ、彼らにご加護を。《哀れな子羊》を救い給え……」

 

そこで、彼の意識は閉ざされた。

 

 

 

◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 

「遅かったか」

 

投げ出された手足。

襤褸のようなローブ。

干からびた肢体。

それは元の姿とは違う、見る影もない物体と化していた。

 

「賢人マルヴ。あなたの魂が大気に愛されるように」

 

そこに立った影は頭を左右に振り、足元のそれに祈りを捧げる。

瞬きの間、靄に光が差し、やがてそれは輪郭をなくしていった。

 

死体に点のような黒を視認する。

穴だ。

皮膚を、身体を突き破った穴。

渇いているため、その傷は生きている間に付けられたものなのか、死後に付けられたものなのかは定かではない。

微かに残る爽やかな、冷たいミント。

その香りに混じった、鼻孔を刺激するスパイシーな匂い。

針葉樹のそれではない。

硝煙の匂いだ。

 

「間違いない」

 

最後にそれを嗅いだのはいつだったか。

二年前だと、その影は反芻する。

 

霧の中、白い何かが空を舞う。

鳥のようなものだ。

それはふらふらと重力が無いような動きで上方を漂って、やがて頭上を右往左往する。

何回か周遊して、影の纏う外套、頭部にこつんと当たった。

 

頭を覆っていた薄灰色の外套が、肩に落ちる。

湿気を吸って重みが増した布が落下する音。

外套の下が露わになり、月光のような銀の髪が靄の中で薄ぼんやりと光を帯びる。

その人は、頬に貼りつくそれを鬱陶しそうに掻き上げた。

 

と、それがその肩に乗った。

紙で出来たようなペラペラの鳥。

先ほど頭部に当たったいたずらな鳥だ。

それが、話しかけるように首を振った。

言葉のようで言葉でない、不思議な囀り。

 

「ああ、相変わらずだな。それで、その後はどうなった」

 

鳥は囀ずりにくそうに俯く。

銀髪は呆れたように嗤った。

 

「信じられない?前にも言っただろう。他人に期待するな」

 

囀る鳥はへそを曲げたか、肩の上でコツコツと紙の嘴で銀の髪を啄む。

 

「悪かった。やめろ。地味に痛い。君は年々性格が悪くなる?余計なお世話だ。いたたた…!わかった!もう言わない」

 

鳥は謝罪を受け入れ、短く囀ずるとその片方の羽を広げた。

 

「ああ。君の手紙はいつも正しい。こんなところまで逃げているとは」

 

鳥は偉そうに胸を張り、囀りが喜ぶような気色がある。

熱弁する仕草に、銀髪は苦笑する。

 

「そういえば。姉さんから聞いたのだが、君の妹が溺愛している飼い犬は元気にしているのか?一カ月前に君のことで緊急の連絡を受けたとか」

 

鳥のような紙が、ぴたりと固まった。

囀りは消え、霧の中に静寂が戻る。

先程の仕返しとばかりに、銀髪は追撃の手を止めない。

 

「確か君は行方不明だと。いつもの放浪癖かな。あまり周囲を心配させるのは感心しないな」

 

瞬時に、鳥は慌ただしく銀髪の肩から飛び立った。

しばし鳥は頭上を逡巡するようにぐるぐると旋回し、明後日の方向へと飛んでいく。

その様をおかしそうに眺めて、それは乾いた笑いを零した。

 

「全く。騒がしいな」

 

銀髪が、霧のなかで鈍く輝いた。

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