鹿と羊
綾川鏡花
第0話 李野探偵社の朝
「おはようございます」
いつもの職場のドアを開ける。いつものように窓を開ける。いつものように珈琲を淹れる。
いつものように…布団を剥ぐ。
「何してるの、李野くん」
「誰?あ、めぐみか」
目を擦りながら客人用のソファから身を起こしたのはこの会社の社長(社員は2人しかいないが)である。
「まだ10時だし眠いし寒いから寝る」
彼は私から布団を横取り、もう一度客人用ソファに寝転がる。
諦めて私は自分のデスクにつき、仕事の整理をした。
ここの名前は『李野探偵社』。先ほどの李野くん…李野拓真を主軸とする探偵社である。関西某都市部に社を置き、数々の難事件を解決してきた。とは言うものの私が解決した事件は1つもなく、全てあの引きこもりの李野拓真が解決しているのだが。正直悔しい。
彼、李野拓真は驚異の観察力と洞察力を持ち、ある程度の情報を目にすれば犯人や殺害方法がいくつか浮かぶらしい。彼は22歳で、大学を卒業後彼の両親が営んでいたこの李野探偵社を継いだ。そしてこの私、白露めぐみである。私には彼のような非凡な才能はなく、いつも李野くんに振り回されている。
彼は今もまだ布団の中にいる。あの社会不適合者が悔しながらこの社の心臓であり、脳である。彼を臓器とすれば、私は筋肉や骨だろう。私の仕事は基本は肉体労働だからである。
例えば、目の前にあるこの捜査ファイルをこのビルの5階にある探偵社まで運ぶこととか。もちろんこの古びたビルにはエレベーターはない。エレベーターがないということは、台車を使えない。つまり…
私は7冊の分厚いファイルを両手いっぱいに持ち、階段を登る。途中他のフロアを借りている会社の社員さんと何度もすれ違い、「手伝いましょうか?」と言われたが、特殊事件ばかりなので中身を見られるわけにはいかない。ご厚意に甘えたい気持ちでいっぱいだったが、なくなく断った。
やっとの思いで探偵社に辿り着くと、彼は足を組んで優雅に紅茶を飲んでいた。
「お疲れー」
そう言って彼は手を振る。そんなことしてる暇があるなら手伝え社会不適合者
「それ何の書類?」
「李野くんがここ3ヶ月に解決した事件の総資料」
「僕、そんなに働いてたの?」
「そうだよ。おかげで大盛況」
「興味ない」
彼はお金に執着がない。ただ今の日常が続けばいいと思ってる。今の生活を続けるにはお金が必要であるということを彼は理解していない。観察力と洞察力は並外れているのに、日常生活はできないのはなぜなんだ。それだけの頭脳があれば何でもできると思うのだが。
「李野くんはほしいものとかないの?」
「ない。でも、めぐみはいいよね」
「なんで?」
彼はこちらを見てニヤッと笑った。
「彼氏が買ってくれるもんねー」
彼がそう言ったと同時に私は憤りを感じた。
「あ、忘れてた。先週フラれたんだっけ」
此奴、分かってるくせに言ってる。いつしか憤りはどこかへ消え、呆れに変わっていた。
こんなに性格が悪い李野くんはなぜ警視庁からの信頼を得ているのか。また一部の人からは嫌われているのか。なんとなく、理由を察することができる気がする。
彼は普通の人では理解できる『常識』を理解できないのだ。
だから、一部の人からは賞賛されるが、一部の人からは恨みや妬みを買われる。私はそれらの丁度真ん中に立っている。なぜなら彼を尊敬することもあれば、殴り飛ばしたくなる時もあるからだ。
李野拓真は不思議な人である。
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