第43話 八年前からずっと
明滅する花火の光が伊織の頬を虹色に染めている。
一息置いて、龍生は持論を展開した。
「思えば君は最初から生き延びたければ嘘をつかなければいいと主張していたな。嘘を避けるために有効なのは、沈黙、すり替え、思い込み。これはあらゆることに対して真実を語らなければならないという従来型の非現実的な方法論とは異なる視点だ。俺はこの新しい見地を、嘘花となった父親を実験台にして得た情報だと思ったわけだが……よく考えると、それはおかしい」
みじろぎ一つしない伊織はまるで本物の人形のようだ。
大きな瞳が瞬きするのを確認してから、龍生は続けた。
「君も言っていたように、嘘を思い込みでねじ曲げるというのは難しい。嘘花本人を騙して思い込ませるというのは、嘘の回避方法には当たらないから、君が言った思い込みとは優れた演者のような意識の切り替えのことだろう。嘘花が役者であれば、あるいは取れたデータかもしれないが、君のお父上は役者ではなかった。だとしたらこの知見は一体誰から得たのだろう」
伊織の唇が何か言いたげに僅かに開く。しかし結局言葉にしないまま、黙ってじっと龍生の言葉を待った。
「そもそも理論の一般化には複数の事例が必要だ。嘘花の生態や一個体から得た見識はあくまでも仮説の域を出ない。志摩さんの論文はその辺りをよくわきまえていて、むしろ、より重要な嘘の回避方法や嘘をつかせないためのハウツーには一言も触れていなかった。そこに言及するには、君が父親以外のサンプルを持っていたことを明かさなくてはならない。君にとってそれは都合の悪いことだったんだろう」
違和感に気づいたのは喫茶店で伊織が敦と話していた時だ。しかしその時はまだ、その違和感がここまで重要な意味を孕んでいるとは思っていなかった。
「隠しながら話すのはフェアじゃないから告白しておくけど、俺は君が施設から引き取られた子だと知っている。しかも施設に入る前のことはあまり覚えていないという。だとすると伊織という名前も本来の名前ではない可能性が出てくるな。一方で、仮に年齢が正確だとすると、八年前に君は十四歳だ」
「何が言いたいんですか」
吐息のように小さな音で伊織が尋ねる。
人の話を遮るほどの力強さがない、話すことを得意としない、声質の使い分けに慣れていない者の声だった。
「馬鹿なことを聞くようだけど」
花火の色に合わせて異なる色を反射させる伊織の瞳を見つめて、問う。
「君は草凪知世ちゃんじゃないのか」
伊織が知世であるならば、彼女は通算五株もの嘘花の管理者であったことになる。自分を数に入れたなら六株だ。
決して多くはないが、仮説を一般化するには十分な数だろう。
しかも知世の母親は売れない女優だったと聞く。伊織の言う「思い込み」による嘘の回避を実現できるサンプルだ。辻褄は合う。
しかし、本当にそんなことがあり得るだろうか、と龍生は持論を疑った。
薄い体。恐ろしく美しい顔。伊織は目立つ美人だが、逆にいえばそれだけだ。
少なくとも見える範囲で、発芽したり、枝葉が伸びたりしている様子は確認できない。
つまり普通なのだ。
普通の人間に見える。
伊織が知世と同一人物である場合、これはあり得ないことだった。
八年もの長い年月を経て発芽しない、もしくはごく初期の状態を保ち続けているというのは異例中の異例である。
稀に長寿の嘘花も出るには出るが、それだって三年程度が関の山だ。
件の日野教授が管理していた従姉は保った方だと言われているが、日野亡き後すぐに終末期を迎え、発芽後二年九ヶ月で命を落としていた。
要するに半信半疑の推理なのだ、龍生にとっても。否定されてしまえば覆すだけの自信はなかった。
しかも伊織は龍生の知る限り一つ、嘘をついている。
彼女が嘘花だとすれば、あれは──。
ふと、伊織の眼差しが和らいだ。泣きたくなるほどほっとした表情で、少し微笑む。
「あの時梳かしてもらった髪だけは、きれいにしていようと努力しました」
その瞬間、何ともいえない感情が込み上げてきて、龍生は言葉を失った。
不遇だった少女。大人に助けてもらえなかった知世。家族を管理し、燃えた家から姿を消し、別人として生き延びた八年も、決して恵まれてはいなかった。
あの頃見て見ぬ振りをした一つの不幸が、八年もの歳月を経て自分の前に立っている。
罪滅ぼしに向けたささやかな善意を後生大事に心にしまって。
それはあまりにも……あまりにも切ない真実であった。
「私の養父母のことを知っているということは、養母が詐欺にあったことも知っているんですか」
はっとして、我に返る。
知っているよ、答えると伊織は少し悲しそうな顔をした。
「もしかして、その詐欺師は真木か」
あの夜お前の家に入ったのは偶然じゃねえ、と言った真木の言葉を思い出す。
自分に情報を流した者がいる、と言い残した、あれはたった数ヶ月前のことだ。
「志摩さん、君は彼に何をしたんだ」
龍生の問いかけに、伊織が視線をフロントガラスに逃した。
「御堂さんは、優しいですね」
まるで花火に話しかけるように伊織が呟く。
「私が隠し事をしていたのを知っても、私の言い分を聞こうとする」
「君とはずっと、話がしたかったからね」
同じく花火に視線を移して、龍生は言った。
「八年前からずっと」
助手席の伊織が微かに笑うような気配がした。
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