第42話 君は誰だ
「志摩さん、ラーメン食べにいかない?」
終業後、身支度を整えていた伊織に声をかけると、意外そうな眼差しが返ってきた。
「お疲れですか、御堂さん」
「俺が君を誘うと何で疲れてることになるのかは聞かないでおくけど、何、ラーメン嫌い?」
ラーメンを選んだのは妙な他意はないという意思表示のつもりだったが、立場が立場なのでハラスメントになる恐れもある。
どうしたものかなと思案していると、伊織が首を振った。
「いえ、食べられるものに嫌いなものはありません。ただ、御堂さんがそんなこと言うなんて珍しいなと思ったので」
「腹ぐらい減るよ、俺だって」
言いながら課長デスクを漁って公用車の鍵を取り出す。公私混同だが通勤に自家用車が許可されていないので仕方ない。
「じゃあ、準備できたら表で待ってて」
「え」
わざわざ車で行くような場所なんですか、という伊織の問いかけには聞こえないふりをした。
特盛ラーメン二つ、と出された器を見て、伊織のガラス玉のような瞳に驚きと期待の色がよぎった。
キラキラと輝くとんこつ醤油のスープ。麺が見えなくなるほどのもやし、ネギ、分厚く切られたチャーシュー。花びらのように飾られた海苔。それにとろとろの半熟卵。
見たこともない御馳走を前にした子どものような顔をした伊織に、龍生は少し笑った。
「ここのチャーシュー燻製仕立てだから美味しいんだよ。知ってた?」
え? と顔を上げた伊織の鼻先に割り箸を差し出す。
反射で両眼を瞑った伊織の反応が何だか面白くて、そのままぺしんと額を小突いた。
「伸びちゃう前に食べよう」
ほら、と割り箸を伊織の手元において、自分はさっさとラーメンに取り掛かる。
太く縮れたか見応えのある麺も、よく絡むスープも、香り高いチャーシューの味も、全部舌に馴染んだものだ。
感慨深くラーメンを啜っていると、もそもそと口をつけ始めた伊織が、おいしい、と小さく呟いた。
「学食やコンビニで売ってるラーメンはよく食べましたが、こういうお店で食べるのは初めてです。こんな……肉が分厚い……」
箸で掴んだチャーシューを見つめて伊織が大真面目にコメントする。
思わず微笑んで、龍生は自分のどんぶりからチャーシューを移してやった。
「肉も卵ももっと食べろ。君はちょっと細すぎだ」
「ちょっと、ちょっと待ってください御堂さん」
そんなに食べられません、と慌てる伊織を無視してもやしもネギも移動する。
「食べきれなかったら残していいから。気に入ったものを腹一杯食え」
龍生の言葉に伊織がふと、何とも言えない表情をした。
もしかしたら自分は、ずっとこんなふうに世話を焼いてやりたかったのかもしれない。
音も立てずにもそもそとラーメンを噛み締める伊織を眺めながら、龍生はそんなことを思った。
時間をかけてどんぶりを空にした伊織は、車に戻るなり死んだように動かなくなった。
出された食べ物は残せない性分なんです、とは後から聞いた言である。
車が走ると苦しそうに呻くので、ひとまず近場の空き地に駐車して伊織の回復を待つことにした。
全開にした窓から涼やかな夜風が吹き込んでくる。
ビールの代わりにウーロン茶を口にしながら時間を潰していると、どこからともなくどん、どん、と空気を震わせる音がした。
「志摩さん、花火だ」
肩を揺すろうと横に目をやると、今のいままで伸びていたのが嘘のように伊織がフロントガラス越しの火の花を凝視していた。
ラーメンを目にした時と同じ瞳の輝きを見て、龍生はまさかと思わず尋ねた。
「もしかして花火を見るのも初めて?」
「音だけなら聞いたことがありますが、本物を見るのは初めてです」
「──そうか」
そうか、ともう一つ心の中で呟いて、龍生はやや遠くで打ちあがる花火に目をやった。
色とりどりの光の花が夜空に咲く。一瞬の開花と衰退。
涙を流すように垂れていく火の花びらを眺めながら、龍生は口を開いた。
「この町はね、志摩さん。俺が八年前に通った場所なんだ。あのラーメン屋は仕事帰りによく行った場所で……だけど花火が見えるとは知らなかったな」
知世の顔を思い出そうして、髪の手触りを思い出す。
誰も手を差し伸べなかった少女の行く末を思うと、後悔に気持ちが沈みそうだった。
「本当なら、あの頃の知世ちゃんにラーメンを食べさせてやりたかった。好きなものを好きなだけ食べて、花火を見て。他にも年相応の娯楽を経験して欲しかった」
志摩さん、と呼びかけるとガラス玉のような瞳がこちらに向けられる。
いつも通り表情を消した美しい顔に向かって、龍生は問いかけた。
「志摩さん、君は誰だ」
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