第1話 不本意な教育係

                 一




 春うららかな四月某日。

 庁舎の片隅、隅も隅に追いやられた『特別事例収集課』、通称『特事課』の一角で、御堂龍生(みどう たつき)は履歴書の写真と目の前にいる人物を見比べながら盛大なため息を吐いた。


「ちょっと、態度悪いな御堂君。ていうか酒臭っ! まさか呑んでないよね」


 顔をしかめて鼻先で手を振るのは、今年三十に手が届く龍生より、八歳年上の小宮山亮(こみやま りょう)だ。背が低くよく肥えている彼の印象はボンレスハム。

 およそ三年で異動となる公務員では長い方に入る五年目経験者で、やたらと先輩風を吹かせてくる。


「呑んでませんよ」


 面倒臭さを隠しもせずに、龍生は小宮山に応じた。


「これでも健康には気をつけているので、午前中には呑まないって決めてるんです。昨日の残り香でしょ」


「いやいや、翌朝に匂いが残るほど呑むなよ。そして午後になっても勤務中は呑むな。人事にチクるぞ」


「小宮山さんの目の届く所では呑まねーですよ」


「届かないところでもやめろよ! 知ってるぞ君、出先でちょいちょい引っ掛けてるだろ」


「そんなことしてねーですよー」


「嘘をつけ!」


「はーあ」


「だからため息やめろ! 腹立つな君!」


 沸騰したやかんのようにやかましく怒る小宮山を尻目に、龍生はその横に突っ立っている人物を眺めた。

 こちらのやり取りには全く反応せず、目を開けたまま事切れているのではないかと心配になる程微動だにしない女性は、志摩伊織(しま いおり)。

 履歴書によると今年二十二歳の新卒で、大変優秀な経歴の持ち主なのに気の毒にもこんなごみ溜め部署に配属されてしまった薄幸の新人である。

 小宮山よりほんの少し高い背丈は目算で百六十センチ程度。

 全体的に薄い体に真新しいパンツスーツを身につけてい流彼女は、首の上にたいそう美しい顔を乗せていた。

 切れ長だが大きめの瞳に、形の良い眉。真っ直ぐに通った鼻筋も、少し厚めの唇も、絶妙なバランスで輪郭の中に配置されている、目を引く美人だ。

 惜しむらくは能面のような表情の乏しさと、未だ一言も発しない愛想の悪さといったところか。

 履歴書を放り出すと、龍生はデスクの上に頬杖をついた。


「とにかく俺はやりませんよ、教育係なんて」


 小宮山が新人の伊織を伴っているのは何も美人を見せびらかすためではない。龍生に新人教育を押しつけるためであった。


「だいたい俺に教育なんてできるわけないでしょ。新人を粕漬けにでもするつもりですか」


「酒の呑み方を教えるんじゃないんだよ!」


 両腕を振り上げて小宮山が地団駄を踏む。壊れたおもちゃみたいだ。


「まったく君、それでも既婚者か! ちょっとはまじめにやれ!」


 龍生の左薬指にはまった指輪をうらめしそうに睨みつけながら、小宮山が吐き捨てる。


「だいたい何で君みたいな退廃者が結婚できて、僕みたいな優良物件が余るんだ。おかしいだろ」


「あはははは」


「笑いごとじゃないんだよっ!」


「まあまあ、小宮山君。御堂君も」


 困り顔で割って入ったのは課長の磯波芳仁(いそなみ よしひと)である。

 白髪混じりの髪に八の字に下がった眉、気弱そうな目尻、腰の引けた姿勢がデフォルトの冴えない五十代だ。

 年功序列の押し出しで能力もないのに役職についてしまった典型で、誰にでもへこへこと頭を下げ、誰も管理できず、何か言っているようで言っていない、人材のごみ箱と囁かれる特事課にふさわしい課長であった。


「穏便に頼みますよ。ね。ただでさえ人が続かない部署なんですから、せっかく来てくれた新しい人がすぐに辞めちゃったら困るでしょう」


 磯波が盛大に逸れた話題を元へ戻す。


「それにしても……御堂君が教育係を引き受けてくれないとなると、志摩さんの指導はどうしましょう。小宮山君には葛野君の教育に当たってもらうことになっていますし、そうなると他に人がいません。ほら、うち極小の五人体制だから」


 どうしたものか、と眉を下げる磯波に龍生は思わず苦笑した。

 命令すればいいところを相手の良識に任せて判断させるあたりがどこまでもずるい。


 判断しない、命令しないということは責任を放棄すること同義だ。

 折れて引き受ける面倒臭さと、更に抵抗する面倒臭さを天秤にかけていると、向かいの席からもう一人の新人、葛野司弦(くずの しづる)が受話器を片手に声をかけてきた。


「あの、お話中すみません。御堂さん宛にお電話です。拘置所から真木康平(まき こうへい)さんの件で」


 ふと、ここに来て初めて伊織が反応を見せた。見間違いかと思うほど僅かに肩先を揺らして、目玉だけを葛野の手元に向ける。


 ──奇妙な子だな。


 伊織の様子に注視しつつ、龍生は葛野に尋ねた。


「もしかして、呼び出し?」


「あ、はい。そのようです」


 はきはきと喋る葛野は、就活浪人の苦労を経て今年ようやく採用が決まったという二十五歳の好青年だ。

 今時の若者らしくひょろひょろと縦に長い体格で、どちらかといえば人好きのしそうな顔立ちをしている。

 その葛野が苦笑の形に表情を歪めて付け加えた。


「そのう、とにかくすぐに来るよう伝えてくれと喚いているのですが」


 喚いているとは口が滑ったのだろうが、まあ、ありそうな話だと龍生は電話向こうの相手を思い浮かべながら納得した。


「はー……」


 本日三度目のため息をついて席を立つ。

 これで迷っている暇も、ごねている時間もなくなった。

 残された選択肢に渋々腹を括ると、龍生は葛野に指示を出した。


「切っていいよ。向かうから」


 次いで自分より頭一つ分低い伊織を見下ろす。


「それじゃ志摩さん、とりあえず外出。車回しておくから小宮山さんに聞いてパソコンの共有ページに外出予定書き込んでおいて。時間かかるかもしれないから戻りは未定でね」


 龍生の言葉に小宮山がしてやったりと笑みを浮かべ、磯波がほっと胸を撫で下ろした。

 こうして不本意ながらも、龍生は伊織の教育係になったのだ。

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