プロローグ
暑い日であった。
どこまでも青く澄んだ空に、大きな入道雲がむくむくと育つ昼下がりであった。
社用車を降りた男は窓ガラスでスーツの乱れを整えると、後方に停まった部下の車に「stay」の合図を送る。
クールビズだなんだと言っても堅い仕事では未だにジャケットを脱ぐことはできない。
じりじりと汗ばむ襟ぐりを手のひらで拭ってから、男はなだらかな斜面を下って高原にぽつんと佇む一軒家を目指した。
街まで車で三十分。隣家は目視できる距離にない。なんともまあ、お誂え向きの場所に家を買ったものである。
家と言っても元は別荘として建てられたものらしく、太陽光をよく取り込めそうな大きな窓が特徴のコテージだ。
重厚な木製ドアの前に辿り着くと、男は馬蹄型のドアノッカーを強く叩いた。
返事があって、人気が近づく。顔を出したのはこの家の主人であった。
「どうぞ。お待ちしておりました」
にこやかに迎えられて屋内に入る。勧められるままスリッパに履き替え廊下を進んだ。
「そういえば」
リビングに続くドアを開ける際、主人がふと男に尋ねた。
「あなた、【終末期】の【嘘花(うそはな)】を見たことはあるんですよね」
「もちろんです」
即答してから、更に「大丈夫です」と付け加える。
先行してコンタクトを取った職員がその場で吐いたことは、男の耳にも入っていた。
「この仕事に就いてかれこれ十年近くになります。今更驚いたりはしませんよ」
「それは良かった」
男の言葉に主人がどこかニヒルな笑みを浮かべてドアを押し開く。途端に、むわ、と粘度の高い香りが男に襲いかかった。
肉が腐る直前のような、甘く危うい匂いだ。
日光がさんさんと降り注ぐリビングに一瞬、目が眩む。
いらしたよ、と言う主人の声を頼りに視線を動かすと、ダイニングテーブルの前に「それ」はいた。
節くれだった関節に、鱗のような木肌。
およそ人間の骨格ではありえない形状で歪んだ幹──いや、体躯。それに人間の頭部がくっついている。
人でいうところの右肩甲骨からは太い枝が突き出しており、腕は朽ちて落ちたのか存在しない。
右脇腹からは肋骨に似た枝が飛び出していて、全身から無数の枝葉が皮膚を割って天を目指している。
崩れかけている根幹に反して、青々と繁る末端の広葉。その間から、柘榴に似た小さな実が鮮血色に熟して中の種子を覗かせていた。
まるで人面樹だ。いや、樹であったならこの不気味気さも幾らかマシだったろう。
部屋の中で異様な存在感を放っている「それ」は、まぎれもなく人間だったものなのだから。
きし、きし、と体を軋ませて「それ」が蠢く。
ゆっくりと時間をかけて、頭部がこちらを振り返った。
「妻です」
主人に紹介された「それ」が、他の部位とは明らかに違った滑らかな動きで微笑みの表情を浮かべた。
「……お、世話ニ、なりマス」
幹を擦れ合わせるような不快な雑音が混じるものの、はっきりと言葉を刻む。
この状態になってもまだ言葉を発するのかと、男は密かに驚いた。
簡単な挨拶と自己紹介を交わすと、夫婦が男を昼食に誘う。もともとそのつもりで時間を指定したらしく、ダイニングテーブルの上には主人の手による料理が並んでいた。
「趣味で始めた家庭菜園で今朝採れたものを使ったんです。手の込んだものではありませんが、ぜひ」
ぼとり、と果実の落ちる音がする。
床に当たって砕けた実から肉片のように真っ赤な種子がばらばらとこぼれ出た。
「今年の夏は野菜がよく育つようです」
慈しむように丁寧な仕草で主人が種子を拾い集める。
主人の言う通り、窓の外ではプランター栽培の夏野菜が伸び伸びと葉を広げていた。
立ち込める甘ったるい匂い。軋む妻。グロテスクな果実。食欲も何もない環境だが、男は誘いを断らなかった。
全ては潤滑にことを進めるためだ。
食卓につくと、ガラス張りの窓を背にした夫婦の表情が逆光の影に消える。影の塊に向かって、男は決まり切った口上を述べた。
「ご存知かと思いますが、まず子細を伺う必要があります」
「どこからお話しましょうか」
「どこからでも。お好きなように」
みし、みし、と妻が軋む。
そうですねぇ、と考え込みながら、主人が手ずからハーブティーをサーブしてくれた。
これは長期戦になりそうだ。
腹のなかで覚悟を決めて、男はハーブティーに口をつけた。
人によっては植物性食物を一切口にしないというが、それはあまりにも神経質というものだ。
多くの人がそうであるように、男は気にせず大皿の上に乗ったサラダサンドに手をつけた。
ややって、切り出し方を決めたらしい主人が口を開く。
木の影と人の影を前に耳を傾けながら、男は口の中のミニトマトを噛み潰した。
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