第十二話「夢中」

 父が亡くなって半年が過ぎた頃、私のもとに見知った人が訪ねてきた。実家から離れて暮らしているからか、その人とはここ数年では数回顔を合わせた程度である。

 相変わらず、アイラインがしっかりと引かれており、赤い口紅だった。栗色のショートボブは、耳についた大振りなピアスを綺麗に見せていた。

 父が好んだこの人が私は苦手である。

 母とは離婚しており、今となっては付き合いはない。

 それもあって私は実家に帰省する回数は徐々に減り、父の最期も看取れなかった。

 しかし不思議と恨むことはできない。それはおそらく、父が信頼していたからに他ならない。

「なんの御用ですか?」

「大切なお話があります。外では話しにくい内容なので、入れていただける幸いです」

 蛇に睨まれた蛙のように動けないでいると勝手にアパートのドアを開き、中へと入ってきた。強引な人だと嫌悪感が勝ったが、表面に出すことはしなかった。

 ここまで来たのだから何かあるのかもしれない。とりあえず、ワンルームで一番いい場所に座ってもらうとお茶の用意をしようとキッチンへと足を向けた。

「長居は致しませんので、お茶は結構です」

 はっきりとした物言いに私は萎縮し、彼女の正面に座った。

「率直に申し上げます。社長が亡くなり、会社が大変なことになっています。手を貸していただけないでしょうか?」

「私には父の会社のことは分かりませんし、経営のことは全くの初心者です。申し訳ありませんが、私にできることはありません」

「あなたはいるだけで構いません。必要なことはこちらから、力添えを致します」

 そういって床に両手を付き、深々とお辞儀をした。その真剣なさまは、いつになく逼迫しており、私はその後も耳を貸してしまった。



「社長。会議の時間です。資料には目を通しましたか?」

「一応、読みましたが、内容までは読み取れませんでした」

「そうですか。フォロー致しますので、相応に振る舞っていただければ結構です」

 ジャケットを羽織るとあとに続く。パンプスのヒールがかつかつと音を立て、手元に持たれたタブレットはキャリアウーマンさながらである。

 今日もまた秘書に連れられ、意味の分からない会議に出席をする。

 中企業に成長した父の会社は、知らず知らずのうちに一地方の企業ではなくなっていた。製紙会社としては規模は小さいものの、業界内外から注目を集めている。その独自の技術は、他社には真似できず、新たな時代の幕開けとも称されていた。

 そんな中、中枢である社長である父がなくなり、求心力が衰退していった。

 長年、父のサポートに徹していてくれた叔父に会社を任せたが、うまくはいかなかったらしい。それならばと娘の私に白羽の矢が立った。

 別に何もしなくていい。ただその存在があるだけで、父の意志を受け継いでいるように感じさせられることができる。そうして社内だけでなく、取引先も信頼し求心力が高まっていくのだと言われた。

 その社会の不思議に触れ、世襲制とはこういったものなのかと感心した。

 特に私は会社経営に興味がなく、また資産にも欲はない。一般企業で働き、ごく普通な会社員として生きていくものだと思っていた。だから都心部の大学へ進学し、地元に戻ることなく就職をした。

 それなのに今となっては、中企業の社長となっている。まだ数ヶ月しか経っていないが、父の偉大さが身に沁みて伝わってくる。多くの従業員に慕われていたことや専門知識の多さ、統率力、判断力、何をとっても勝てる気がしない。分刻みのスケジュールをこなしながら、父はこんなことをやっていたのかと思うとバイタリティの強ささえ感じた。

 一方で今の私は、秘書に言われるがまま、スケジュールをこなし、無難に問題をかわしながら、日々を過ごしていた。

 これでいいのだろうか。

 父のような手腕を発揮できない自分に虚無感さえ覚えた。

「初めから諦めてはいはいけない」

 それが父の口癖で、幼少期から様々なことに挑戦させてもらえた。見た目がかっこいいと初めたサックスは、一ヶ月も経たず止めたこともある。

 それでも父は挑戦することの大切さを学ばせるため何でもやらせてくれた。

 だからこそ、この話を聞いたとき、父の言葉が脳裏を過ぎった。躊躇したものの、やらないなんて存在しなかった。

「社長、このあとはオーダースーツの購入に参ります」

 そういって、高級ブランドに立ち寄った。

 採寸をして、秘書に促されるままデザインや生地を決め、ただただ頷いた。

 奥にはVIPルームがあるのか、ドリンクを飲みながら社長らしき人が座っていた。秘書らしき人がスーツをあつらえてもらっているようで、スタッフが丁寧に選別をしている。

 私とは全くの逆である。本来ならば、私が秘書を引っ張っていかなければいけない立場である。

 頭では分かっているのに行動できないのは、経験の差だけでは決してない。

「社長、いきましょう」

 苦手な秘書に連れられて、今日もまた社長業を行っていく。



 お飾り社長のまま、カレンダーが一周した。季節は移ろい、西暦は数が一つ増えた。

 相変わらず秘書は私の傍らにいて、業務を支えてくれている。

 何一つ分からない私をどうしてここまで支えてくれるのか。淡々と感情を表に出さないクールビューティーは、考えていることは読めないままである。

 それでもこの年月で変化したことがある。

 それは秘書への苦手意識である。

 会社のために尽力をし、支えてくれた。父亡き今、そこまでする必要はない。見捨てたってよかった。

 それなのに彼女は、何食わぬ顔をしながら、右も左も分からない社長である私を導いてくれている。

 おかげで今では、なんとなく自分がやっていることが理解できているし、会社が安定を取り戻している。

 彼女が相当なプレッシャーと努力をしていることを私は知っている。決して仕事ができるだけではない。優秀な彼女のリソースはすべて会社に捧げられている。それを肌で感じているから、敵うはずがない。

 やはり経営のことは難しい。一朝一夕で理解するなど到底不可能である。

 茨の道だと見なくても分かるのに自ら向かい風に挑んでいる。今ではもう平凡な一般社会で生きていくことに興味がなくなっていた。

 これは大きな変化だった。覚悟を決めたのだ。社長として会社を牽引していくことを。

 しかしそれを秘書に明言できないのは、不相応な距離感なのかまだ時期尚早なのか定かではない。

「今日の会議資料、どうなっていますか?」

「失礼致しました。早急に共有させていただきます」

「珍しいですね。何かありましたか?」

「いえ、特に何も」

「……そうですか」

 明らかに態度がおかしかった。どこかおどおどとしており、落ち着きがない。平静を装っているが、補いきれない何かがそこにあることは確かである。

 彼女は私情は持ち込まない。プライベートで大事が起きたときでさえ、平静を装い仕事をしていた。

 おそらく、私の所在について他から言われているのだろう。耳に入らないはずがない。

 もっと感情を表に出していいのに。外で無理ならば二人きだけのこの空間だっていい。

 本音で話しているはずなのにどこかぎくしゃくしていると感じるのは、私だけではないはずである。

「あの、どうしてあのとき、オーダースーツが必要なんて思ったんですか?」

「社長たるもの、一流のものを身に着けていて欲しい。私達のボスなのですから、当然でしょう」

「では、多くの選択肢からどうしてあのデザインを選んだのですか?」

「一番、お似合いになられると思ったからです。……あと私の好みです」

「あなたの好みにしては、地味だったように感じるけど」

「ここ十年、あなたを見て参りました。私が一番、あなたの魅力を引き出せると僭越ながら思っております」

 確かに彼女は私の高校時代から、父の秘書をしており、家でも姿を見かけることがあった。時折、簡単な世間話をすることはあったが、実家を出てからは挨拶する程度だった。

 しかも就職してからは、実家に近寄ることは稀で秘書への苦手意識が強まった。

 過ごした歳月は長いが、濃度は薄い。

 それでも私のことを知っていると自負するのだろうか。

「私が入社してすぐ、一度だけ酒の席で前社長が本音をこぼしました。『娘にこの会社を継がせたい。ただ娘は嫌がるだろうな』と。その後すぐにあなたに出会いました。なんて可愛いお嬢さんだろうと感嘆したこと、鮮明に覚えています。だからこそ、私はあなたを社長にしたかった。あなたのことを考えない日はありませんでした。気付けばどうしたらサポートできるのだろう。そればかり、考えるようになっていました。社長はそんな私を見抜いていたのかもしれません」

 苦笑いをしながら、うつむいている。照れ隠しなのだろうか。

 初めて、彼女の本音を聞いた。「継ぐ必要はない」と言っていた父の本音も。

 避けていたのは私で、勝手に苦手意識を持っていたのも私だった。彼女は母の代わりに常に深い情愛を注いでくれていた。

 なぜそんな人を無下にしてきたのだろう。悔しさのあまり涙がこぼれそうになる。

「自責することはありません。勝手に私がやっていることです」

 そういって、頭に触れた。

 あぁ、こうして庇護されていたのだ。彼女に出会ったあのときから。

 長い歳月を巻き戻して、一からやり直したい。

 そう思っても叶うはずはない。変えられることは、未来だけである。

「さぁ、早く資料を読んでください。このプロジェクトは、あなたがやりたかったことでしょう」

 なぜそれに気付いているのだろう。口にしたことはなかったはずである。

「見ていれば分かりますよ」

 彼女は吐息を吐くと仏像のような穏やかな笑顔を見せた。

 彼女には到底敵いそうにない。これから先も彼女の力が必要である。

 いつか私が独り立ちができるようになったとき、彼女は去ってしまうのだろうか。

 そう思いつつも現実は険しい。

 まだ夢の中である。


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