第九話「熱情」
やっとここまでやってきた。実現するまで多くの困難に立ち向かい、打開してきた。
辛辣な事実も受け止めながら、今日、私はここに立っている。
「皆様のおかげで、私の願いが一つ実現しました。本日ここへオープンできたこと、皆様の力添えに感謝致します」
プレオープンした店は、長年の夢だった。
フラワーショップに和洋菓子店、カフェや雑貨店を併設したセレクトショップは、老舗の菓子メーカーにはなかなか受け入れられるものではなかった。
保守的で現状の路線を変えようとしない商品は、ただ定番の手土産として定着していた。
季節に応じたフレーバーは販売するものの、際立って特徴的なものでもなかった。
それをなんとか一新したくて、ここまで来るのに数年を要した。
社長とは言え独断は許されず、取締役を一人ずつ納得させる手だてしかなかった。プロジェクトが承認されてもなお、なかなか賛同は得られず、混迷を極めた。
その労力が、ここに今、形となって存在している。
なんて幸せなひとときなのだろう。
そう物思いに耽りながら、祝花を眺める。そこには懇意にしている社長から、一言メッセージが添えられている。
思わず頬が緩み、絢爛な花に触れた。
「この度はおめでとうございます。」
招待した取引先の社長に挨拶をされ、立ち止まる。軽い世間話をして挨拶が済むと離れていった。
挨拶回りがひと段落すると会場の隅で、店舗全体を見渡した。
やっとここまで来れた。
やっと夢が叶った。
しかしここからが始まりである。結果を残さなければ、意味がない。絶対に成功させてみせる。
少し離れた場所に女性が立っていた。社交に交わるわけでもなく、ドリンクすら手をつけていない。気になって歩み寄ると声を掛けた。
「もう少し、肩の力を抜いたらいかがですか?」
女性の表情には、僅かに驚きが見られたが、すぐに何事もなかったような表情に戻った。
コインに描かれる精巧な横顔のように整った顔立ちは、一見すると冷淡にも見えた。
「ありがとうございます」
どこかで見覚えのある顔だった。それなのに思い出せないのは、挨拶しか交わしていないからだろうか。
それともただの気のせいだろうか。
招待客には、一通り挨拶をした。そのときに彼女がいた記憶はない。
そうすると彼女は誰かの付き添いになるのだろうか。
もし仮に挨拶を交わしていたら自分の立場上、醜態を晒すことになる。
どうやって探ろうか思っていると彼女から挨拶をされる。
手には名刺を持っており、迷うことなく受け取った。
そこには今日、招待している会社名と第二秘書の肩書が書かれていた。
あぁ、なるほど。だから初見だったのか。
そこの会社の重役は、いつも男性の秘書を連れている。仕事はできるが華のない印象である。
こういったレセプションのときは、付き添いが女性だと見栄えがよく、好印象を相手に与えやすい。
だから彼女は、今日、選ばれた。
おそらく、彼女は仕事ができる。女性の噂が耐えない重役の性格からして、男性の秘書があてがわれているだけである。
仕事ができない秘書を置くほど甘くない会社だということは、取引内容から現れている。
その場を立ち去ろうとするが、どこか陰のある雰囲気が彼女を守らなければいけないと思わせた。
「もう少しで終わりますが、最後まで楽しんでいってくださいね」
「恐縮です」
「よければこれ、どうぞ」
参加者に配られたノベルティを手渡す。セレクトショップの名前が入った限定のお菓子である。造花も添えられ、上品で洗練されたデザインは、男女共に好評である。
贈る相手を選ばないそれは、社内で何度も議論し厳選した物だった。
「いただけません。私は付き添いの秘書なので」
断る彼女の手を持ち、覆うように握らせる。
人差し指を唇の前に出し、言葉を制した。
名刺はしっかりとジャケットのポケットにしまいながら、そっと彼女から離れた。
本格的にセレクトショップが始動した。初動にしては予想を遥かに上回った結果にひとまず安堵の息を吐いた。
このまま好調を維持してくれれば嬉しい限りだが、次の策を練らなければすぐに飽きられてしまう。
上がってきた企画書を眺めるとコンセプトに相応しいが、どこか話題性の欠けるものだった。
悪くはない。
しかし、得策でもない。保守的なそれに苦悩しながら、打開策を考える。
『彩ある一瞬で、煌めく日常を』
このコンセプトを実現するとき、私だったら何をするだろうか。
誰を喜ばせたいだろうか。
そう考えたとき、脳裏に一人の女性が浮かんだ。
いや、まさか。
軽く首を振りながらもスキャンした名刺画像を検索していた。
数日後、彼女との予定を取り付けた。
この日は完全なプライベートだった。それは自分の秘書に説明することも億劫だったし、思わぬ邪魔が入りそうだったからである。良くも悪くもスケジュール管理をされている。
待ち合わせたカフェに行くと仕事着にしてはカジュアルな服装をして、着席していた。
こちらを見つけ、立ち上がろうとする彼女を制止し、正面の席へと座った。
「お時間を作っていただき、ありがとうございます」
「とんでもございません。こちらこそ、お世話になっております」
「今日はお休みですか?」
「えぇ、そうですね。仕事柄、職務中はスケジュールを報告しなければならないので」
「私と同じね」
思わず微笑がもれる。
スケジュールを管理する側とされる側、立場は違うがたどり着く結果は同じである。
商談でもなく、ましては相手方の重役がいないのに秘書と会うことは、滅多にない。
それどころか、第一秘書ならともかく、彼女は第二秘書である。詳細は分からないが、他の重役と兼務している可能性も否定できない。
そうなったら私が独断で会っていることを知った秘書はどんな顔をするだろうか。
カジュアルな服装だが清潔感のある白のブラウスに控えめなゴールドチェーンのネックレス、腕には有名ファッションブランドの腕時計がされている。
短く整えられた髪は、顔の作りの精巧さを巧みに引き出していた。
ヌードカラーの唇には、色っぽさを覚えてしまう。
「さて、今日はこの前会場で渡したノベルティについて、率直な感想を教えて欲しくて、呼び出したの」
「老舗の印象とはまた違った側面が見られて、面白いと感じました。デザインの無駄がなく、またそれが洗練されており、コンセプトをうまく表現されていると思います」
「ありがとう。じゃあ、あなた個人としては、何をもらったら嬉しいの?」
「物よりも思い出でしょうか」
「そう」と吐息を吐きながら頷いた。
しかしそこには不思議と寂しさが入り混じっていた。
この感情を揺さぶる不均一で、衝動的なものは何なのだろう。彼女以外が霞んでいる。
お金で何とかできる物ならば、できる自信があった。
しかし体験となるとスケジュール調整は困難で、乗り越える壁が大きい。
彼女は何を欲しがっているのだろう。
もはやコンセプトの本題は忘却され、彼女を喜ばせたい一心だった。私にできることは何かあるだろうか。
「例えば時間の共有が楽しくなったり、一人の時間でリフレッシュしたり、そんな些細なことができる場所でいいのだと思います」
彼女は本題について触れ、独自視点で語ってくれた。
友好的な取引をしている会社とはいえ、重役の秘書が話す内容ではない。それでも彼女は話を止める気配はない。
「友人と来ても恋人と来ても、一人で来ても受け入れてくれる場所。つまり共存できることがこれからの課題ではないでしょうか」
「思慮深いのね。あの方が手放さないはずだわ」
「恐縮です」
どうしたものか、さらに彼女が欲しくなってしまった。今の秘書も優秀だが、彼女を私の秘書につけたら毎日が楽しいに違いない。
刺激的で魅力的な外見、つちかってきた経験。
どれをとっても不足はない。私の会社に呼び寄せたい。
そうは思っても友好関係が保たれている取引先の秘書である。簡単な話ではない。
でも欲しいのだ。手元に置いて愛でたいのだ。
どうすればいい。
どうすれば彼女が手に入る。
欲望だけが膨れ上がり、現実を見失いそうである。
相手の社長に言えば、彼女を譲ってくれるだろうか。それでも心が動いていなければ、おそらく彼女は話は受けないだろう。
まずは警戒心を解いていくほかない。そっと話題をすり替えた。
「もし恋人とデートするとき、あの店には行くと思う?」
「行っても構わないけれどいかないと思います」
「どうして?」
「今は話題性があるので誘っても問題なく、楽しめるでしょう。ですが、話題性が落ち着いたとき、デートで行くには少し客層が若く私では浮いてしまうかなと」
「それは今後の課題ね。ありがとう」
確かにそこは感じていた。
高校生でも少し背伸びをすれば楽しめる価格帯にしていた。高過ぎず安過ぎない、だけど高品質な空間の提供を目指してショップをオープンしていた。
しかし結果は成熟した大人には使いにくいものへとなろうとしているのかもしれない。
やっぱり彼女が欲しい。
そう願わずにはいられない。
ほぼ初めて親密な会話したにも関わらず、彼女の声が心の奥底まで響いてくる。
どうしてこんな出会い方をしてしまったのだろう。
彼女が秘書でなければ、簡単に呼び寄せられたかもしれない。
彼女が私の会社に面接に来ていたら、採用していたかもしれない。
あのプレオープンの場で声を掛けなければ、こじれた感情を抱いていなかったかもしれない。
もし重役が彼女でなく、いつも通り男性秘書を連れてきていれば存在さえも知らなかった。
どうして彼女に焦がれるのか。ただの美貌だけではない、押し寄せてくる感情の渦が、内壁を壊していく。
彼女はおそらく私に“取引先の社長“という想いしか抱いていないだろう。
どうすれば手に入る。
どうしたら私の元に置いておけるの。
責め立てる言葉が走馬灯のように押し寄せる。私はこれからどうしていけばいいのだろう。
プライベートな連絡先を交換した後、私たちは別れた。
さも当然のようにこのことはお互いに口外しないと決めた。
取引先の社長とプライベートで会ったという事実は、双方に責任問題になりかねない。
しかも彼女は第二秘書である。立場が危うくなることは、容易に想像できる。
帰宅すると画面に表示されている彼女の連絡先を眺める。
これでよかったのだろうか。
間違っていないのだろうか。
燃えたぎる熱情のまま、アポイントを取り、別れ際にはプライベートな連絡先まで聞いてしまった。
「豪遊、お酒、男性。地位とお金がある方が道を踏み外す理由は多々あります。気をつけてくださいね」
社長職に就任してから、秘書に言われ続けていた。
現在の秘書とは社長職に就く前からの付き合いで、最悪な時期も共に乗り越えてきた。そんな秘書を裏切ろうとしているのだ。
ただ目が眩んで一目惚れした彼女を秘書におこうとしている私は、罪人である。
まだ心のうちを伝えていないが、この先変わることはないだろう。
それどころか、さらに燃料がくべられ、熱量は上がっていく。
許されるならば、出会う前に巻き戻して欲しい。
そうして、社長でも取引先の秘書でもない関係で出会って、新たな関係を築き上げたい。
そう願っても叶わないことくらい、身をもって知っている。
“仕事終わりにディナーでもしませんか?“
この文面が打てずに何度も消した。
あれから彼女とは会えていない。それは私の海外出張が重なり、誘う時間が取れなかったからである。
傍には常に会社の人間がいて、連絡すらもままならなかった。
オフィスでスマートフォンを眺めながら、吐息を吐いた。
「大きな商談がまとまったのですから、喜んだらいかがですか?」
「それはよかったと思っているわ」
「プライベートに口は挟むつもりはありませんが、色恋沙汰には注意してくださいよ」
「どういう意味?」
「最近のあなたは、どこか浮ついている」
「気をつけるわ」
「がっかりさせないでくださいよ。相手と会う理由を探すようになったら、もう後戻りはできませんから」
そう言って秘書が社長室から退室していった。
付き合いも長く、年齢も近い秘書は時折、釘を刺す。誰よりも私のことが分かっており、僅かな変化も見逃さない。
仕事に支障をきたさない程度のことなら、見守っていてくれるが今回は違うらしい。
確かに今までの恋愛は、追われることが多く、どちらかといえばドライな関係だった。付き合っている自覚はあってもそれ以上もそれ以下もなかった。
イベントは共に過ごし、デートは常に相手から誘ってきた。相手もそれに不満はなく、割り切った大人な関係だった。
それなのに今回は、彼女に会う理由を探している。
“有名なレストランの予約が取れたから”、“試写会の特別招待券を貰ったから”。どれも前例を超えている。
友人すら滅多に誘わない私がどうかしている。
スマートフォンをデスクに伏せると天井を見上げながら、深いため息を吐いた。
堪え性なく、しばらくしてからディナーに誘った。彼女は快諾し、個室のレストランで待ち合わせをした。
私が到着すると彼女はすでに席についていた。
「お待たせしました」
「いえ、私の仕事が早く片付いただけなので、お気になさらないでください」
向かい合う彼女は、仕事着にしてはドレッシーで、アクセサリーが煌めいていた。
目元には上品なアイシャドーが輝き、唇も潤い、美麗という言葉がよく似合っている。
ここへ来る前に整えてきたことは確かで、鼓動が速くなっていくのが分かった。
白ワインが好きという彼女に合わせ、いつもより高級なボトルを注文した。
「個室を選ばれる辺り、今夜は何かお話でもあるんですか?」
微笑を浮かべながら真っ直ぐに見据えられ、言葉に詰まる。
ただ会いたかった。
その言葉が口にできない。
こんな密室で、誰が見ているわけでもない。それなのに言えないのは、社長という肩書きのせいか、彼女の秘書という職務のせいなのか。
うまくはぐらかす言葉も思い浮かばず、生唾を飲む。
しばらくして、彼女が口を開いた。
「私は社長と会いたかったです。仕事の場でもなかなかお目にかかれないのにこうして呼んでいただけて光栄です」
好意が垣間見え、さらに鼓動は速くなる。
心なしか呼吸も浅くなっているような気がする。
大きな商談でもこんなに緊張することは滅多にない。
手のひらには汗が滲み、そっと膝上のナプキンで拭った。
邪心が占領している今、羨望の眼差しは無垢すぎて痛い。
口走っていいものか。一瞬、迷いが生じる。しかし導かれる答えは変わらない。
ただの一人の人間として、全てを忘れ、走り抜けたい。
この後どうなろうと考えたくない。
たとえ取引先と関係がギクシャクしようと現在の秘書と折り合いがつかなくてもこの熱情だけは抑えきれない。
日に日に増す灯火は、薪をくべられた暖炉のように大きく燃え盛っている。
お酒の勢いのまま、大きく息を吸った。
「あなたに会いたかった。ただそれだけ」
彼女は小首をかしげ、ワインを口にした。
「それはビジネスとしてですか? それとも私的な意味でですか?」
もはや私に止めるものはない。
結果は後から見えてくる。
感情に流されるとは、なんて私らしくないのだろう。
「ねぇ、私の秘書にならない?」
「それだけですか?」
「どういう意味?」
意図が読みきれず、思わず聞き返す。
彼女はおかしそうに笑って、バッグから綺麗に巻かれたリボンを取り出す。
そのリボンには見覚えがあった。
初対面のときに渡したノベルティを装飾していたものである。
しかも彼女に渡したそれは、本来なら人に行き渡るはずのない真紅のものだった。いくつか作ったサンプルの一つで、招待客には別の色が配られている。
あぁ、なるほど。最初からこうなることがどこかで分かっていたのかもしれない。
「この後、時間ある?」
大きく頷いた彼女の瞳は潤み、頬は紅潮していた。
その光沢のあるリボンには、ショップのロゴが刻まれている。
〔sic infit〕
――そして、今始まる。
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