第七話「鷹揚」

 高級ホテルの一室で、私たちは逢瀬をしていた。

 決して悪いことをしているわけではないのに公にできないのは、仕事内容が関係している。

 それでも数年間続いているこの付き合いは、鷹揚としているほかない。

 守秘義務は守っているし、法律に反しているわけでもない。だから誰にも責められる覚えはない。

 しかし倫理や道徳という世間からの見方は、私たちに追い風が吹くことはない。

 恋人同士でありながら、報われないこの関係は、いつまで続けられるだろう。



 ご贔屓の和菓子屋に行ったときだった。そこには何か思案顔した女性が立っており、どこか焦っているようにも見えた。

 普段ならば声をかけないのに自然と声をかけていた。

「どうかされましたか?」

「いえ、必要だったお菓子がなかったもので、どうしようかと」

「代替品ではいけないのですか? ここの和菓子はどれも一級品ですよ」

「ここの黄身しぐれでないといけないんです。今日の客人が味にこだわりが強い方なので」

 そう言った後、彼女は、通話を始めた。

 節々に「申し訳ございません」と聞こえ、切迫した雰囲気が伝わってくる。

 そんなに大きなことなのだろうか。

 そう思いながら眺めているうちに情が移ってしまったのかもしれない。

 取り置きを頼んで置いた和菓子の会計を済ませ、自然と彼女に手渡していた。

「足りるか分からないけれどあなたの求めているものは入っているはずよ」

 彼女は突然の出来事に面食らいながら、狼狽していた。

 受け取っていいのかさえも迷っており、和菓子は行き場を無くしかけている。

「私は何度も食べているから、気にしないで。また買いに来ればすむことだもの」

 そういって、黄身しぐれの入った箱を押し付けるように渡すと私は店を後にした。


 数日後、私はご贔屓の和菓子屋に足を運んだ。見覚えのある顔がそこにはあった。

「先日はご丁寧にありがとうございました。困っていたので、助かりました」

「それならよかった」

「これ、この前の代金になります。受け取ってください」

 ただの気まぐれのことなど忘れていた。

 なかなか封筒を引っ込めることがない彼女の熱意は、受け取るほかなさそうだった。

 しかしここで受け取ったら、いけないような気がして、断り続けるほかない。

 引くに引けない封筒は、行き場をなくすと共に彼女の立場もなくしていた。

 ふと視線をそらせば、心配そうに和菓子屋の女将がこちらを見ている。

 受け取るしかないのか、と思考したがやはり受け取る気にはならなかった。

「ねぇ、このあと少し時間あるかしら。よければお茶しない?」

 彼女の必死さに根負けし、自分から彼女を誘ってしまった。あの日から、本当にどうにかしている。


 その後、落ち着いた雰囲気のカフェに入り、彼女と小一時間を共にした。

 和菓子のお礼として、彼女がお茶代を支払った。それで和菓子代は相殺され、彼女の面目も保つことができた。

 話してみると彼女は知的で教養があり、年齢の割に落ち着いた品も感じられた。

 なんの仕事をしているのか尋ねると遠からず、近からずの業界で働いているようだった。

 それでも仕事上で出会うことはないだろうと連絡先を交換した。



 それから彼女のとの関係は続いている。何度か食事に誘い、共通の趣味も見つけた。

 忙しさの中での彼女は、まるで砂漠のオアシスのようで、唯一肩の力が抜ける場所へとなっていった。

 この関係はなんなのだろう。

 友人でもなく、恋人でもない。

 共に過ごす時間は、かけがえのないものである。

 他の誰にも抱くことのない安心感と気軽さは、それ以上の関係を求めていた。

 確かめてはいけない。

 しかし性分がそうはさせなかった。

「私たち、付き合わない?」

 彼女はふんわりとした微笑を浮かべ、抱き付いてくる。

「私もそう思ってた」

 このときからホテルでの逢瀬が始まった。

 戸惑うこともなく、世間体を気にしない私たちが、恋愛関係になることは容易だった。

 同姓である問題は端から存在していない。

 好きだから求める。

 必要だから相手の温もりを確かめる。

 ただそれだけだった。

 心の虚無感を埋めるように日に日に激情が増していった。


 世間にはおそらく認められないだろう。

 社会的立場からしても口外は避けたかった。それは彼女も同じで、吹聴することもなければ、外では相応に振る舞った。

 その反動はベッドの中で、過激に花開いた。

 心地よくて、刻まれる時が止まればいいと何度も思った。

 そうすれば、ありのままの姿でいられるのと。



「最近、何かいいことがありましたか?」

「どうして? 何もないわよ」

「いえ、どこか雰囲気が柔らかくなったようでしたので」

「そうかしら。ありがとう」

 察しのいい部下は、ビジネスパートナーとしては優秀だが、僅かな心境の変化までも読み取るから、時に困ってしまう。

 ただし深入りしてこないことも分かっているので、扱いは楽である。

 だからなのか、部下のプライベートにも口出しすることもない。

 しかし彼女との関係が知られてしまえば、部下は強引に別れさせるに違いない。

 それは私のスキャンダルが、会社そのものを脅かすからである。

 理解しているからこそ、慎重に行動しなければならない。私には相応の責任がある。



 ホテルでの逢瀬は、いつもルームサービスだった。

 しかし彼女の誕生日だったこともあり、三つ星のレストランでお祝いすることとなった。

「おめでとう。あなたに出逢えて、本当によかった。趣味に合うか分からないけれど誕生日プレゼント」

 彼女は満面の笑みで受け取った。

 その表情は今にも泣き出しそうで、つい頬に手を伸ばしたくなってしまう。

 向かい合ってフレンチを食べている二人には、距離を縮めることは不自然だった。

 衝動を堪えていると彼女は愛おしそうに箱の中身を眺めていた。

 この表情が何よりも嬉しくて、忘れられない一夜となった。



 約束していた取引先へ出向いていた。

隣にいる部下である秘書は、何度もスケジュールを確認しながら恐慌している。

 取引先の秘書は動転して、呆然と佇んでいる。

 同様に招かれただろう見知った顔は、困惑した様子である。

 どうしたものか。場が凍り付いて、時が止まっている。

 きっかけも掴めず、ただ一様に事態の収拾を静かに待つばかりである。

 しばらくの沈黙が続いた後、取引先の社長が口を開いた。

「この度は誠に申し訳ありません」

 この一言で凍て付いていた空気が動き出した。

 見知った顔をした秘書は、密やかに社長と会話をし出す。

 初めてみるビジネスモードの彼女は、凛として繊細な美しさをかもし出していた。

 倫理的に認められる訳がない。

競合他社の秘書と恋愛関係なんて、知らなかったではすまされない。

しかし私たちは知る術がなかった。いや、知ろうともしていなかったのかもしれない。このとき初めて、お互いの立場が露呈した。

 求めてはいけない。だけど今更、後戻りはできない。

 俯瞰して眺めていると隣で秘書が小声で話し出す。うなずきながらも首を振った。

 彼女の面目を保つために私は決断を下した。

「また日を改めて、お話をしましょう。今日のところは、帰らせていただきます」

「ご足労おかけして申し訳ありませんでした、社長。次はこちらからそちらへ伺わせていただきます」

 ただただ謝罪を繰り返していた取引先の社長は、僅かに安堵しているようだった。

 帰り際のタクシーで彼女へメッセージを送った。

”いつにも増して、今日のあなたは魅力的だった”と。

 今夜の逢瀬で、彼女はどんな顔をするだろう。嬉々とした感情は、悠然と昂らせていく。

 誰にも許されなくていい。

 彼女がいれば、それだけで構わない。

 いっそう激しく燃え上がっていくこの狂恋は、鷹揚であり過激である。



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