第六話「過分」

「過分」の使用例は「過分の待遇を賜る」である。

 国語辞典で引いた時、まさに自分自身だと思った。大して能力もないのに秘書の役目を与えられ、能力以上の報酬を受け取っている。

 それを知った他の従業員たちは、憤慨したりしないだろうか。日々悶々としながら、仕事をしている。

 表面上は取り繕えても細部にはミスが目立っている。いくら気を付けてもいまだに完璧にはこなせない。

 社長がおおらかなおかげで難を逃れているが、本質は何を考えているのか分からない。

「今日の会食、同席して」

「承知しました」

 そう言って社長は出て行ってしまった。スケジュールに“同行“の文字を足すと深く吐息した。

 別に同行することが嫌なわけではない。他の予定があったわけでもない。

 それなのに気分が塞ぐのは、いまだに慣れないからである。

 会食での交渉と交友の狭間で起こる特有なせめぎ合いは、秘書として試されているようでならない。

 うまく立ち回らなければ、社長の顔に泥をぬってしまうどころか、契約も流れてしまうかもしれない。

 その極度の緊張に苛まれると思うと憂鬱でしかない。だからといって断ることもできないことも知っている。

 社長は基本的には一人で行動するが、必要となれば私も同行している。

 そのときは決まって、秘書の役割が必要なときである。

 今夜の会食も取引先の受賞記念祝賀会で、様々な会社の社長や役員が集まることが予想されている。

 そこに社長一人で行くことは、格好がつかないだろう。

 どうして秘書をしているのか。

 世間にはなりたくても慣れない人がいるはずなのに私は不釣り合いな肩書だけがついている。



 祝賀会に到着すると受付を済ませた。社長は「会食」と言っていたが、ホテルの広間を貸し切って行う立食パーティそのものだった。

 招待されている人は一定以上の役職がついている人が多く、名刺交換が頻繁に行われている。

 今の時世で祝賀会自体が珍しく、また主催者側もそれを分かって場所を提供しているようだった。

 さすがやり方が違う。代々続く酒蔵のご令嬢でありながら、奇抜なアイディアで業績を立て直しただけはある。

 既存の地盤を強固にしながらも新規開拓もしていく発想の豊かさは、移り変わりの激しい時代を読み取っている。

 ダウンライトされ、社長の挨拶が始まると会場の雰囲気が一気に静まりかえった。

 それはコンサートの合間にトークしているアーティストへ向けられる眼差しとよく似ていた。

 ふと視界の端に動く人影が映った。目を凝らせば、主催者側の秘書で何か会話をしている。

 タイムキーパーは彼女か。各所に指示を出し祝賀会をつつがなく終わらせるように動いていた。

 おそらく私にはスムーズにはできない。いや、社長は私にやらせないかもしれない。

 随所に格の違いを見せられたようで、砂を噛んだ。



「申し訳ありませんでした」

 先日、商談の日程変更があったにも関わらず、それを社長に伝えていなかった。

 それだけでなく、ダブルブッキングさせるという最悪の事態を招いてしまった。

 何とか社長が場を収めてくれたが、秘書の仕事としては最低である。

 謝っても謝りきれないことは分かっている。しかし私は謝る他、術を知らない。

「もういいわ。過ぎたことだから」

 社長は書類を見ており、こちらに視線を向けることはない。怒っているのは、明白だった。

 仮にも秘書になって二年が過ぎようとしているのに初歩的なミスである。怒鳴られる覚悟すらあった。

 引くに引けず立ちすくんでいると社長が言い放った。

「誰にでもミスはあることでしょう。何も思ってないから、本来の業務に戻りなさい」

 淡々と言われ、自分のデスクに戻るしか選択肢はなさそうだった。



 この三年、入社してからはもう六年が経過しようとしている。

 それは先の配属先が起因している。

 最初は人事課で三年過ごし、その後経理課に移動になった。

 この会社では異動は珍しいことではない。だから新たな経験を積むためにと難なく受け入れた。

 しかし経理課には、暗黙のルールが存在しており、馴染むことができなかった。

 課長には取り合ってもらえず、回される単純な仕事を淡々とこなすだけの日々だった。

 配属されて日が浅い私は、残業も多く、助けてもらえる人もいない。

 まさに四面楚歌だった。

 何のために会社へ行くのか、生きる意味さえも失いかけたとき、社長が声をかけてくれたことは、今でも鮮明に覚えている。

「つまらなそうな顔をして。もっと楽しみなさい。仕事に対して失礼よ」

「仕事に対して」とは、面白い人だと思った。

 その当時、私にはその考えが理解できなくて、ただ覇気のない表情を突っ込まれただけだと思っていた。

「……はい、以後、気を付けます」

 その返答を聞いた社長は、軽く頷きながら経理課から姿を消した。

 一ヶ月が経過した頃、課長から異動の話を聞いた。その先が秘書課だとは、悪い冗談だと思った。

 早く会社を辞めてくれないか、言われているようで心持ちが重い。

 それでも断ることもできず、ただただ頷いた。

 引き継ぐことはほとんどなく、一週間後に秘書課に転属となった。

 従来、関わることのないこの特殊業務は未知との遭遇だった。

 学生時代に就職活動に役立てばと思い、秘書技能検定の下級を取得していた。

 それでも実践と遠く離れた学生時代の記憶など思い出せるはずもない。

 先輩に必要最低限のことを教わると知らぬ間に放り出されていた。半年が経った頃だった。

 相談すれば応じてくれるものの、自分から動かなければ何一つ解決はしなかった。

 それに先輩達は忙しそうで、そう頻繁に聞くこともままならない。結局は自分で解決をするしか道は残されていなかった。

 一心不乱に秘書業務に打ち込んだ。かつてないほどにのめり込み、自ずと知識を高め、気遣いや礼儀作法を吸収していった。

 その様は、熱中していた部活動を思い出させ、僅かに青春時代に感じた面影を思い起こさせた。

 ここでは暗黙のルールもなく、さっぱりとした人間関係は居心地がよかった。

 退社する人に代わり、社長の秘書となった今でもそれは変わらない。

 お互いが認め合い、高め合っている。

 部署内のカーストは、たとえ遣える人が社長や常務など役職の上下があっても影響を及ぼすことはない。いや、カースト自体存在しないのかもしれない。

 配属された歳月で、先輩と後輩はあるものの、ほぼ同等のようなものだった。

 こんな張り合いのある部署は、他にはない。

 秘書課はただ多忙で一定のスキルがないと配属されないと言われているが、平凡な私がここにいることは奇跡でしかない。

 特別に綺麗ではなく、礼儀作法も人並みで語学が堪能でもなかった。かろうじて英語はできる程度でしかない。

しかし今なら言える。   

二年前にできなかったことが今では身についていると。仕事の中で成長していくことが楽しいと。



 ささいな時間のほんの気まぐれだった。

「社長、どうして私を秘書に選んだのですか? ベテランの方がいらっしゃるのに」

「それは私があなたをここに呼んだから」

「意図が読めません」

「あなたがつまらなさそうに仕事をしている姿を見て、ちょっと興味が湧いたの。仕事の楽しさを感じて欲しくて」

 急に経理課から異動になったことに多少の不可解さを感じていた。

 左遷のような異動ならまだしも花形部署への転属である。人事部にいたときにもそんな話は聞いたことはない。

「私はその恩を返せているのでしょうか?」

「過ぎるくらいよ」

 そう言って社長は、微笑んだ。

 まさに過分である。





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