第23話 人の心の裏表
暗い大きなうねりの中で、サニーは己の意識を取り戻した。
「(此処は…………?)」
視界を覆うのは、黒一色に染め上げられた完全な闇。方々に視線を彷徨わせたところで、見える景色は変わらない。
「(んっ……!)」
サニーは茫漠とする思考を懸命に働かせ、身体を動かそうとする。
しかし、見えない綿のような弾力を有する『何か』に全身を抑えつけられ、指先ひとつ立てる事すらままならない。
まるで闇そのものが質量を備え、明確な意志を持って自分を捕らえているかのようだ。
強力な圧迫感から息苦しさを覚え、徐々に恐怖が脳内から染み出してくる。
心做しか、この圧迫感を与えてくる『何か』が自分の身体を押し流し、この闇の更に奥深くへ送り込もうとしているような感覚を受けた。
「(だ、誰か……っ!)」
叫びたい気持ちを堪え、サニーは心の中で必死に助けを求める。口を開けばその瞬間から体内まで闇に侵されそうだ。
そうこうしていると、不意に目の前の光景に変化が起きた。
闇の中から、ぼうっと浮かび上がるように何処かの場所が映し出される。
「(これは……!?)」
サニーは困惑した。映像の中では、大人の男女がこちらを見ながら幸せそうに笑い掛けている。
そして、それに応えるかのように、手前から小さな手がニュッと伸ばされた。
『ジュディス、三歳の誕生日おめでとう。もう随分と歩くのが上手になった』
『言葉も覚えてきたわね。あなたともっと話せるようになる日が待ちきれないわ』
映像の中の男女が、こちらを見ながらそう言って手を振り返す。
「(ジュディス……? それって…………。)」
サニーが言葉の意味を咀嚼しようとした時、突如として映像が切り替わる。
今度は何処か外の光景だ。暗い街中が現れ、視界が上下に揺れる。
横へ流れてゆく風景の真ん中で、五歳くらいの女の子が歩きながらこちらに顔を向けている。
『ジュディス、こんやはどこであそぶ?』
舌っ足らずな声で、相手の少女が笑う。
「(思い出した……!)」
星の小爆発でも起きたかのように、突如サニーの頭の中が冴え渡る。
ジュディスとは、アングリッドの母親の名前だ。
息子が『
そして、自分は彼女に――
「(呑み込まれたんだ……! 黒い、大きな触手に……!)」
直前の記憶を思い出し、サニーは青ざめて身震いする。
自分は、『
……分からない。サニーの疑問に答える者は誰も居ない。
目の前に広がるのは何処までも続く暗闇と、その中でポツンと浮かび上がったジュディスの記憶と思しき映像だけだ。
「(……ん? また違う場面になった……!)」
恐慌に陥るのを防ごうと、ジュディスの記憶に意識を集中させるサニー。
そんな彼女の前で、映像はまたも移り変わった。
夜間の学校で他の子供達と共に授業を受けている景色。
喧嘩でもしたのか、オーガの形相となった母親の顔が大写しになった景色。
快活で優しそうな男の子と一緒に過ごしている景色。
ジュディスの主観と思わしき映像群が、サニーの見ている前で次々と闇の中から浮かび上がっては切り替わってゆく。
まるで、ジュディスの人生を追体験しているかのような気分だ。
そして、急流のように送られる映像と共に、時折りジュディスの“声”が混じるようになる。
――父さんと母さんは大好きだ。いつも私の事を気にかけてくれる。
――でも、ちょっと小煩い。いつまでも子供扱いしてくる。いい加減好きにさせて欲しい。
――モニカは大切な親友。両親に言えない事でも、彼女になら言える。ずっと一緒に居たいな。
――モニカと彼が密かに付き合っているのは知っている。私も気になっていた子だったのに、モニカは知っていて彼を奪った。どうしてそういう事が出来るんだろう、ひどいよ。本当は大嫌いだ! なのになんでまだ、私は彼女にヘラヘラ笑い掛けているんだろう……?
――仕事が決まった。街の各所に宅配物を届ける配送員だ。社会人としての第一歩、頑張ろう!
――本当は事務職が良かった。バース炭鉱辺りに勤めたかった。レインフォール家の当主に見初められれば、玉の輿を狙えたのに。呪いの所為で、配送業なんてアンダイーヴズ内だけに限定されているから稼ぎには期待出来ない。それでも、食べていける分には問題は無いんだけど……。
――今日、彼と付き合う事にした。優しくて真面目で誠実な人だ。もしかしたら、結婚も視野に入れるかも知れない。彼となら、良い家庭を築けそうな気もするし。
――彼の仕事は街の石工だ。建物の設計に携わる建築士ならともかく、力仕事の人足では給金なんて高が知れている。もっと裕福な男と親密になりたかった。でもダメだ、私には過ぎた夢。彼で妥協するしか無い。
人生での出来事に一喜一憂する心。
家族や友人、自分を取り巻く現状に対して明るく前向きな気持ちを抱く一方、心の何処かでは失望したり、疎んじたり恨んだり、諦めたりもする。
人間の心を構成する光と闇。
ジュディスの持つそれぞれの側面が、惜しげもなくサニーの前に晒される。
「(これが、この人の……ジュディスさんの、半生…………)」
サニーは、不思議な気分でジュディスの人生を眺めていた。
彼女がこれまで抱えてきた気持ちが、否が応にも分かってくる。
様々な経験や、時には挫折を味わい、不満足な人生を送りながらもどうにか折り合いをつけながら生きてきた彼女。
そんな彼女も、人生の転機を迎えて結婚を果たし、やがて子供を産む。
――アングリッドは可愛い。私がこのお腹を痛めて産んだ子。この子の為なら、今までよりもっと色々な事を我慢出来る。自分以上に大切なものを授かる喜びを、私はようやく知った。
――アングリッドが中々言うことを聴いてくれない。またお皿を割った。これで何回目?いい加減、引っ叩いてやりたくなる。
――夫が死んだ。仕事中の事故で負った怪我が悪化して。私とアングリッドを遺して、あの人は逝ってしまった。最期まで笑って、苦労をかけ続けた事を詫びながら。ああっ、もう二度とあの人の温もりを感じられないなんて……!
――やっと死んでくれた。仕事も出来ず、臥せるばかりで何の役にも立たなくなった男。何度正面切って罵倒してやろうと思ったか。それに耐えただけでも、私は偉い。ああ、それにしても葬儀代が嵩むな……。
――アングリッドが学校を辞めたいと言い出した。バース炭鉱の坑夫として働きたいと。最近病気がちな私を心配しての言葉は嬉しいと思わなくもないけれど、アングリッドにはちゃんと学業を受けさせてあげたい。学費なら心配要らない、私が何とか捻出してみせるから。
――アングリッドを働かせるのもひとつの手かも知れない。男の子なら、レインフォール家に炭鉱夫として雇ってもらえるかも。そうすれば、このきつい暮らしも少しは楽になれる。ここまで女手一つで育ててきたんだ。恩返しのひとつくらい、期待しても罰は当たらないだろう。
家族に対する、相反した感情。
ジュディスは、情愛と損得の間で揺れ動きながら、それでも妻として母親として出来る限りの力を尽くした。
街の呪いの影響だろうか、日に日に心情が不安定になり始め、事あるごとに利己的な考えを起こすようになりつつあった自分に嫌悪の感情を抱きながらも、彼女なりの愛情を懸命に家族に注いできたのだ。
だが、危うさを孕みつつも微妙なバランスを保っていた彼女の心は、とうとう崩壊の時を迎えてしまう。
――アングリッドの影が消えた。レインフォールの若旦那の手で、『
――畜生!なんであの子が! どうして私の息子がこんな目に!? もう使えない! あの男と同じように寝たきりになって死ぬのを待つだけだ! なんで私が、それを見なくちゃいけないんだ!
――《影送りの儀》なんて、何の慰めにもならない! あの子の人生は帰ってこない! どうしてこうなった!? 誰の所為で!?
――夫が死んで、私は病気になって、そして今度はアングリッドまで……! なんで私ばかりがこんな目に遭うの!? 運命は、神様は、どこまで私達を弄ぶ気なの!?
――レインフォール家だ!! 何もかも、全部あの連中が原因なんだ! あいつらが私の幸せを! 私の息子を奪ったんだ!!
息子を襲った呪い。
それが、ジュディスの心の均衡をあっけなく打ち砕いてしまう。
ベッドに横たわる息子を見下ろしながら、嵐のような激しさで憎悪と絶望を膨れ上がらせる彼女。
闇を通じて、その想いがサニーの全身を侵食しようとする。
「(……っ!? なんて、凄まじい負の感情なの……!? こうしているだけで、あたしまで当てられそう……!)」
身体だけでなく、心までジュディスに取り込まれそうになる感覚。サニーがそれに必死に耐えていると、不意に別の声が聴こえた。
『そんなに、あの人が……レインフォール家が憎いですか?』
その声に、ジュディスは思わず振り向いた。
そこには、誰かが立っていた。
まるで全身が濃い霧で覆われているかのように、その正体は分からない。男か、女か、大人か、子供かも。
ただ、黒い霧の一点で、血よりも尚赤い光が妖しく瞬いている。ぼやけた他の部分とは異なり、そこだけがしっかりと焦点を結び、明確な像を浮かび上がらせていた。
「(あれ、は……!?)」
サニーは目を凝らしてその一点を見詰める。黒い霧から溢れる一条の赤い光が、更に力を強める。
『どうしても自分の心を押し止める事が出来ないのなら……そうまでして、自身の不幸の原因を他に押し付けたいのなら…………。』
「(……!? ダイヤ、モンド……! 赤い、ダイヤモンド……!!)」
サニーは見た。黒い霧の向こうにある赤い光の正体を。
それは紛れもなく、あのブルー・ダイヤモンドの片割れ――――
『そのまま、自分の『
赤い光が爆発的な輝きを発し、ジュディスを包み込むように広がる。
「(……!? ダメ、呑み込まれる……!!)」
サニーがその赤い光に目を細めた時――
「ハァァァァァッッ!!」
今この場で、一番聴きたいと思っていた声。
青い光の一閃が、全ての光景を断ち切った――――!
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