若年の落堕

風早れる

若年の落堕

 初恋。それは言うまでもなく、初めて恋をするという意味の言葉。人間生きていれば、誰もが1度は経験するであろう。

 こんな書き出しで、18の時に僕はその時々の感情を文字に起こし始めた。ただそれは、どれ程醜く、どれ程人に嘲笑われてきたのか、自分には客観的な評価をする術を持たない故に、ジャッジメントを下す事は出来ない。

 ただ、それでも。僕は、そんな意味の無いエンターテイメントに足らない頭と語彙をフル回転させ、その身を捧げる事で、多幸感に包まれていたのだ。お酒やドラッグでも得られない、別の境地へと僕を導いてくれたのだ。


「ほぼ新品、新古品みたいなもんだよ」


 人生経験も、社会経験も薄く、これまで特に大きな失敗もしたことが無かった故に形成されていた僕のガラスのハートは、こんな些細な言葉で打ち抜かれた。この言葉が、自動車だとか、レアカードだとかそんなものに使われている言葉なら、最高……とまでは行かずとも、少しハッピーになれるような、そんな些末さを孕んだ言葉なのだろう。しかし、人間関係に置いては、荷が重すぎたのだ。

 その日、僕の目は色を無くした。サハラ砂漠の亜熱帯にて、やっと見つけた宿で寝てるときに火事に遭うような、地獄に地獄が重なる、そんな地獄。

 蛇口からコップに水を注ぐ時、人は分量を調節する事が出来る。溢れそうになったら栓を閉めれば、大抵の事は解決する。しかしその栓を亡くしてしまった時、当たり前の話ではあるが、蛇口は制御不能になる。そんな蛇口から降り注ぐ黒い雨を、僕はこの夜被り続けた。

「ふーん、おもろ」

 僕は駱駝みたいな、のほほんとした顔を演じながら強がった。そして僕は同居人が寝静まったのを見て、同じ部屋から脱出した。

 結論から言うと、この世界に置いて黒い水の出る、栓の壊れた蛇口は全ての天井に取り付けられており、僕を苛み続けていた。僕に自由など無かった。取り敢えず、外に出たかった。でも、足がどうしても竦み続け、僕は玄関のドアノブにすら辿り着くことは出来なかった。この時僕は、昨日まで協調していると思っていた世間が、こんな黒い雨を一人浴び続けている僕を見て、自分がこんな奴と同じ「ホモサピエンス」だと思われたくないから近寄るな、と軽蔑の目線を浴び続けるような気がしたからだ。

 腐ってもここは政令指定都市の中心地で、何時如何なる時も外に出れば大体数人は人が出歩いている。そんな場所に身を置くのは、社会的な自殺行為のようにも思えた。

 そんな僕が唯一外の風を浴びる事の出来る手段は、窓を開ける事だった。ここは三階だから、さすがに下から醜い駱駝の子を見ようとは思わないだろう、そう思って僕は留め具を外して、ガラスをスライドさせる。

 しかし、それで変わった事は何かといわれると、冷たい風と夜の色に染まって更にどす黒くなった雨が、僕の前頭葉をヒューっと、すり抜けていくだけ。冷気を浴びて冷静になれるとか、そんな落ち着けるようなものではなかった。風すらも、僕を責め立てているような気がして、恐ろしくなって僕は直ぐに窓を閉め切り、近くに置いてあったガムテープを四隅に貼って、この社会との窓口を永遠に封印した。

 僕に今できる事は、正直もう何も無かった。ただ、リビングの隅に蹲り、黙って思考を停止する事だけが今僕に出来る事だった。変に脳を働かせると、僕が黒い雨を浴びていることを思い出し、それが吐き気を催すからだ。

 とは言え完全な思考停止というのは難しく、偶に脳が生憎活性化してしまったときに、今すぐ睡眠を経て、僕が雨に浴びている事自体を忘れてしまうのが手っ取り早いのではないか、という仮定を終えつつ僕は遂に胃酸で床を汚した。だって、人間は無意識に呼吸をしているが、それを意識した瞬間、無意識で呼吸が出来なくなってしまうからだ。僕は今、浴びていることに気付いてしまったからこれ程までに苦しんでいるのであって、それを無意識化する唯一の手段は寝る事だと考えたのだ。

 しかし、眠気というのは都合よくやって来るものではなかった。どれだけ目を閉じた所で、得られるのは精々暗闇という安らぎだけである。

 とうとうやる事も無くなって、僕はポケットからスマホを手に取る。その暗転した画面には、僕によく似た駱駝の顔が写っていた。とうとう、僕自身は僕で無くなる日が来たようだ。このまま別の何かになってしまえば楽に生きれるのではないかと考え、僕は余生を愉しむことにした。

 まず、中学校時代の卒アルを眺め、当時好きだった女の子の写真に何度も口づけをしながらオナニーをした。そして、同居人のモノと思しきオプションパープルの煙草を三本も拝借し、一気に火をつけた。18歳故に煙など一切吸った事の無かった僕は、多いにむせてしまったが。しまいには冷蔵庫に入っていたビールさえ飲んだ。

 さて、こうして思い残す事も無くなった俺は、少しだけ想い出に浸る事にした。スマートフォンのロックを手際良く解除し、ミュージックアプリを開く。

 暫くスクロールしていくと、懐かしい曲目が並び始めた。レリゴー、ハピリーなど、当時のヒットチャートが並ぶ……そんな中に、一際目に留まる曲があった。

 下手くそな犬の絵が描かれたジャケット。それは、中学時代好きなバンドの、一番好きなアルバムだった。

 そうか、僕はこういう音楽も好きだったんだ、と思いながら再生ボタンを押すと、ベース音を聞いた瞬間、僕の全身に電撃が走るような……というより、走った。

 心地よいドラムンベースの中に繰り出される、消極的な歌詞。まるで、今の僕の様子を歌っているような気がして、少し寒気がしたのだ。

 そして、ボーカルは曲の終盤に、こう言い切ってしまった。


「心なんか一生不安だ」


 こんな人を突き放すような、諦観しているような、どうしようもない言葉を受けて、しんしんに冷えた僕の体が暖まっていくような心地を得た。さっきまでは氷点下を裸で生活するような気持ち悪さを帯びていた体が、夏に降る雪のように溶けてゆく。そんな雪たちは、いつの間にか酸っぱい涙へと昇華していたのだ。

 あぁ、そっか。雨が降れば、傘をさせば、それでよかったんだ。そんな簡単な事で、僕は救われるんだ。

 そんな簡単な事に気付けない程に、僕は人間として終わりかけていたんだ。あぁ、なんだ。考えた事も無かった。逃げ出してしまえば良いだけじゃないか。

 僕は、諸悪の根源であるこの家にある傘立てから、一本の真っ白なビニール傘を抜き取り、ドアノブを遂に軋ませて家を出た。


 外に出てみると、何時の間にか黒い雨は僕の目に見えなくなっていた。いざ止んでみるとなんだか少し寂しくなって、僕は何度も雨に気付こうと努力した。しかし、そんなものはこの世には存在しなかったのかと疑いたくなるくらい、一滴の純水たりとも降らなかった。強いて言うなら、目から涙が零れ落ちた程度だろう。

 そんな雨上がりの道路をゆったりと歩いていると、電柱の下に、一凛の小さなタンポポが咲いていた。強烈な嵐を耐え抜き、水滴を帯びてただただ燦然とパッションイエローに輝くその一凛の花の美しさに心を惹かれて、僕はそんなタンポポを紡いで、新たなる「家」へ持って帰っていった。


 それから2年が経った今も、タンポポは奇跡的……なのかは花に詳しくないから分からないが、未だに美しさを保ったまま、ウチの花瓶と共に我が家を彩ってくれる、家族の一員になった。

 ただ、勿論は育て親の僕が今までどんな人生を送ってきたのか、どれ程クズな人間かは知らないだろうし、知りたくもないだろう。僕も、に話す気はない。

 でも、彼女が白い種を撒くことになるのか、そのまま枯れ落ちてしまうのかはわからないが、例え僕が駱駝になってしまっても、どうにか彼女を最後まで見届けたいなと、心の底から願う。

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