第54話
あれから僕はもう一度アクツに会いに行った。
もう会うことはないだろうと思っていたが、流石に僕に課せられていたもう一つの任務が残っている。
アクツは僕の顔を見ると、なんで来たんだよ、と少し嫌そうな顔をのぞかせる。
でもそれ以上にどこか嬉しそうだった。
さっきから頻繁にアクツに頭を撫でられている黒猫はついに我慢できなくなったのか、軽くアクツを威嚇し彼を置いてどこかへ行ってしまった。
僕から河井のお願いに関する話を聞くと、アクツは軽く頷いて、その手があったかと言って不器用に笑う。
そして僕がここに来た理由を訊ねる前から分かっていたのか、木陰で大きく広げてある、一枚の長い紙を見せてくれた。アクツの手は墨で所々真っ黒に汚れ、すぐそばにはまだ墨の付いた筆と硯が転がっている。
「“歴史書”に空白を作って悪かったな」
そう言って、その長い紙を綺麗に畳むと僕に手渡した。
その瞬間、僕の心にあった違和感がすっと消えていった。
その違和感は今までずっとあったものだから、なくなると逆に変な感じがした。
「オレにだってもっとうまいやり方はあったかもしれない。お前はよくやったよ。もうオレとお前が遇うことはないだろうな。でも、たまにでいいから。オレみたいなどうしようもないやつも必死になって歴史を繋いできて、同じようなヤツが身近にもいるかもしれないってことを思い出してくれよな」
名残惜しそうにアクツは言った。
「……、なんで僕が初めてアクツさんと出会ったとき、僕の心を見透かしたようなことを言ったんですか?」
僕はそれだけがずっと分からなかった。
「なんとなくお前の眼が、世の中を遠くから達観したような、他人事のように観ている視線が昔のオレに似てるなと思った。どこか変化、いや救いようなものを求めるような感じがな」
「すんごくいやな回答だなあ。じゃあ“歴史書”に空白を作った理由の方は?」
「樅山がいなくなって数年間、“歴史書”なんて開きたくなかった。それに“歴史書”の空白がまさに心に空いた空白そのものを表わすような感じがした。その虚無感を消したくなかった。“歴史書”に私的な出来事は書き込めない。それなのに樅山と過ごした楽しかった期間を、樅山のために泣いて苦しんだオレの時間を、オレにとってはどうでもいい“世の中”の出来事で書いて、書きなぐって、上書きしたくはなかった。樅山がいない世界は空白でよかった。何も起きなかった。むしろ空白がオレには適切だった気がした」
「それで……本当にもう大丈夫なのか? 今ならまだ“歴史書”のそのページを破り捨てることも」
「いや、いいんだ。オレはもう乗り越えられる。古久根のおかげかもしれない。やっぱりお前は強いよ。オレが次に選んだだけある。オレは“歴史書”に何も書けなくなってから、ある人に会った。その人は自分を縛るしがらみや過去、人間関係が嫌になったらしく、全ての関係を断ち切って今は一人で旅をしていると言っていた。関係を失ったその人はオレに後を継いでくれる人がいることの素晴らしさを教えてくれた。そうやって長い中で繋いできたものならお前も頑張ってみればいいんじゃないかって。そう言われて、オレはまた“歴史書”を綴り始めることができた。その人はお前と同じ名字だったんだ。だからオレはお前を次に選んだのかもしれない。樅山への悲しみを乗り越えるのにたくさん時間がかかってしまった。でも今なら樅山が生きていた時間に向き合うことが出来る。だから空白にした“歴史書”にけりをつけたい。オレはもういい大人だ。お前よりだいぶ年上なんだぞ。伊達に180年は生きてるからな」
オレの仕事がやっと全部終わった、と感嘆の声を上げてアクツは天に向かって両腕を伸ばす。
固まっていた身体はほぐれた気がする、と言って両腕をゆっくり左右に下ろした。
「始まりこそ急で……、横暴で……、僕の人生を悉く狂わせてくれたなって少し恨んでたけど。でも、……、でも僕こそこうして色々世話になった。…………けどお礼なんて言わないからな」
不意に僕の頬を涙が流れているのに気付いた。
これで終わるのだ。
ならば今だけは、気持ちを切り替えるためにこの涙は必要なものなのだ、と自分に言い聞かせる。
アクツは何も言うことなく、ただ微笑んでいた。
それから次第に世界はぼやけ始める。
涙で相まって歪みは増していく。
視界がかすんで見えなくなった後も、春らしい暖かで柔らかな、スズランのような甘い香りを纏ったそよ風が、僕の身体を優しく包み込むように吹き付けているのをずっとどこまでも感じていた。
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