第49話 OtherSide-1-
古久根虎。
私が名簿帳でその名前を確認したとき、何かの運命を感じた。
私への試練かとも思った。
教師をやって何人もの生徒と関わってきた。
けれどその名前には見覚えがあった。
すぐに思い出した。
高校生の頃、クラスの皆が冷たくしていた彼で、私が目を背けて逃げてしまった彼と同じ名前だった。
こんな珍しい同姓同名もいるものなんだな、と春休み中の眠くなりそうなくらい穏やかな職員室で一人、ふっと笑みをこぼす。
あまり学校に行かなかった私の高校二年生の記憶と言えば、彼への後悔だけだった。
そのくらい私の中で強く残り、今も渦を巻く。
私は囚われている。
四十になってそろそろ人生の方向を決めなければならないと思っていた私は、この気持ちに向き合うときが来たと一人勝手に思った。
この名前を見た私は、今年は特に頑張ろう、と新学期への新鮮な気持ちと共に意気込む。
入学式の日、私は初めてクラスの生徒たちと顔を合わせる。
初めましての日を何回経験しても、凄く緊張する。
私は何回もお手洗いに行って、自分の顔に怯えや不安が出ていないことを確認した。
いつもこの日の教壇が一番怖い。
私を真っ直ぐ見つめて逃がさない彼らの視線を想像すると、教室の扉を開けられなくなってしまう。
私は意を決して扉を引いた。
教室全体を見渡してゆっくり中に入る。
皆と初めましてのはずだった。
でも一人だけ見覚えがあるような気がした。
古久根虎。
高校二年で同じクラスだった彼の顔はもう何も思い出せない。
声も視線もしゃべり方も何もかも全て。
でも今目の前にいる方の古久根虎はどこかで見覚えがある気がした。
普段の買い物中か。
それとも通勤の間か。
分からない。
もしかすると高校の彼と同じ名前ということで無意識に目の前の彼に高校の彼を当てはめてしまっているだけかも知れない。
目の前の彼が私が手を差し伸べなかった彼と一緒であるはずがないのに。
しかも不思議なことに目の前の彼は家の都合で三日に一度しか来れないと聞いている。
やっぱり運命だと思った。
かつての優しげだった彼が噂で聞いたようになぜ女の子をいじめるようになってしまった理由をもう覚えていないが、今の彼ももしかすると同じような性格を持っていて、上手くクラスに馴染めないかもしれない。
考えすぎで自分の勝手な妄想だと分かってはいるが、今度こそ私が彼を守ろうと思った。
二者面談、遠足と彼と直接喋る機会があった。
思ったことを素直に話してくれる優しい子だった。
でも私が心配したとおり友達はあまり作っていない。
今の歳で一人暮らしをしているというものだから、きっと中身はしっかりしていて一人でなんでも出来ちゃうタイプなのだろう。
遠足の楽しげな雰囲気に飲まれたとはいえ、私が過去の思い話を思わず喋ってしまったことは反省しなければならない。
いつの間にか喋っていた。
日々の疲れかもしれない。
でもあの時間は久々に気持ちが良かった。
安心できた。
多分私はずっと誰かに話したかったんだと思う。
河井さんが学校に来なくなってクラスが少し揉めている。
まさか河井さんがそうなるとは思ってなくて、日頃から警戒してなかったのは私の未熟さ故だ。
反省する。
今は彼女の気持ちを知ることが第一だ。
私は電話をかけたり、実際に彼女の家を訪問した。
そこで会う彼女は元気そうだったが、彼女が今何で悩んでいるのか教えてくれなかった。
そのうち電話越しで言葉を詰まらせるようになった。
明らかに彼女は何かを抱えているのにも関わらず、私は拒絶されていた。
きっと話の聞き方が下手なのだろう。
私はこの日、職員室を訪れた古久根君を見て、彼が時折隣の席である河井さんと仲よさそうに話していたのを思い出して、彼に河井さんの家に行って悩みを聞いてほしいと頼んだ。
私が不意に過去の話をしてしまった相手だ。
きっと話の聞き方が上手なのだろう。
彼は渋々引き受けてくれた。
彼を守るつもりが彼に頼み事をするとは、なんて私はだめなのだろうと呆れてしまう。
だが、それは功を奏したようで河井さんは次の日から学校に来るようになった。
彼も今のところ問題なく学校生活を過ごしていて私は安心した。
「先生。“歴史渡り”を知っていますか?」
私はその言葉を聞いたとき、ことの全てを理解した。
まさか私にとっておばを殺したという嫌な記憶でしかない“歴史渡り”という言葉をまさか彼の口から聞くとは思ってもみなかった。
今日が人生で一番驚いたと言っても過言ではない。
でもそのことが顔に出ないよう必死に平静を装った。
彼は高校の時の彼と同一人物だった。
思い出した。
昔の彼はこんな風だった。
何も変わっていない。
今の彼は“歴史渡り”をしている。
実は同年代だったと分かっても、しっかり生きた年月は私の方がはるかに長い。
彼は私が高校の時の同級生とは気づいていないようだった。
その頃の私は存在が薄かったから無理もない。
救いたかった彼が今、私の目の前にいる。
まるで運命みたいだ。
嬉しかった。
だから私は教師として、生徒である彼を助けようと知っていることを正直に話した。
それが彼の役に立ったかは分からない。
でも今の私にできる全てだった。
私は自分のクラスの劇を本番で初めて見た。
必死に叫んでいる彼を見た。
そんな彼を初めて見た。
私はどうしようもなく胸が熱くなった。
視界がぼやけ、涙がこぼれてくる。
彼にも今守りたいものがあると伝わってくる。
私も彼のように叫びたかった。
私自身、なぜだかよく分からない。
でも火傷するくらい熱い感情が突き動かされる。
彼はまだ答えが出ていないのかもしれない。
私は心の中でこれまで生きてきた中の一番の大声で、一番想いを込めて、頑張れと彼に叫んでいた。
彼は今の私のことを、そして高校の時の私でさえ覚えていないしきっと知ってすらいない。
それでも良かった。
一方的でもいい。
私は劇の間、彼のことを考えた。
そういう劇だった。
これまで辛かっただろう。
もう彼は自身の幸せを考えても良いときなんだ。
それはきっと私にもいえる。
劇の最後に舞台に立つ彼の姿が眩しかった。
きっとこれから大変な決断の時が来るのだろう。
諦めなんて彼には似合わない。
どんな時でも頑張れるように。
意志を曲げないように。
望んだ未来を掴めるように。
私は最後の一人になるまで熱い想いを込めた拍手をずっとずっと送り続けた。
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