Descendant

@Tarou_Osaka

本編

 知り合いから貰った、骨董品の白いシーマ。それがわたしの車。

 今は、砂浜に鼻先を突っ込んでいる。エンジンは止まっていて、動いているのは雑音だけのラジオと、刺すように冷たい風が吹き出すエアコンだけ。敏感な鼻が、神経質にカビの匂いをかぎ分けた。車全体が右に傾いていて、蟻地獄に片足を突っ込んだように感じる。

 助手席では、隼人がまだ目を閉じたまま動かない。どこか懐かしく感じるのは、わたし達が最初に出会ったのが、こんな夜明けの海だったからだろうか。

 でも、あんなに好きだった海なのに、今は砂浜に打ち寄せる白い波がはるか遠くにあるように見えた。わたしは窓を下ろして、キーを抜いた。車庫に入れたときいつもやるみたいに、指に引っ掛けた。ラジオの音も、エアコンの風も要らない。波の音が聞きたかった。海の匂いが欲しかった。それが目の前まで届きかけたとき、助手席で隼人が体を起こした。

「おい……ここどこだ?」

「ごめん、砂にはまっちゃった」

 わたしが言うと、隼人はすばやく状況を把握して、それがどうにもならないことを悟るとダッシュボードを思い切り脚で蹴飛ばした。わたしが心底嫌っている仕草。気持ちは分かるけど。起きたら身動きが取れなくなっていたなんて、確かにそうしたくなるかもしれないけど。

 ひとしきり辺りを見回した隼人が、諦めたようにヘッドレストに頭を預けた。車の中が静かになって、波の音がやっと聞こえてきた。海の匂いは、つかみどころがなくてよく分からなかった。


 わたし達が最初に出会ったのは、海。

 三年前、わたしは不良の端くれで、十七歳だった。隼人も同じで、偶然に偶然が重なった奇跡の瞬間だと思った。高校を卒業して、隼人とわたしはすぐに働きだした。大学に進学しなかったことで、わたしと親の関係は最悪になった。ふたりで貯めたお金で、半年も経たない内にアパートで同棲を始めた。ふたりでやりたいこと、成し遂げたいこと。二十歳になる直前だったわたし達には、夢がたくさんあった。綺麗な家に住んで、車があって、いつか子どもが生まれたらいいご飯を食べさせて。その為にはお金が本当に足りなくて、わたしはキャバクラで働き始めた。

 そしてある日、たまたま隼人の給与明細を見た。わたしが思っているよりも遥かに多かった。

 わたしは、お金のことを気にする割りにそういうところは無頓着だったから、隼人が貰っている給料が本当なのかも知らなかったし、別に興味がなかった。そういう意味では、完全に信頼していたのかもしれない。切り出すときは本当に心臓が骨を突き破るんじゃないかと思ったけど、世間でよくある『浮気相手に貢いでいる』とかではなくて、どうにかなるかと、わたしはすぐ楽観的になった。でも、事情はわたし達が話し合って解決できるものじゃなかった。

『親の借金があるんだよ。死んじまったから、俺が返すしかないんだ』

 その次の月から、隼人の給料は『正常』に戻った。その代わり、家を不規則に空けるようになった。

 ある夜、急に着替えて出て行く隼人に、今から何をするのか問いただした。

『ツケを払わない奴が、また店に顔を出してるらしいんだ』

 想像はつくけれど、それを頭に思い描きたくなかった。新聞記事ぐらい簡単な表現で、すぐに忘れてしまいたかった。『用心棒見習いの男、飲み代を踏み倒した男を痛めつける』

 その用心棒が、隼人だなんて。それで借金を返してることになるの? わたしはその時に感じた不安を今でもフルカラーで頭に呼び起こすことができる。そして、隼人が選んだ道に『終わりがない』ということも。

 借金返済の相手に初めて会ったのは、明け方に隼人が真っ青な顔で帰ってきた日の夜だった。わたし達は突然、レストランでの豪華な夕食会に招かれた。わたしは病欠を使って、お店を休んだ。最初で最後のつもりで行くと、岡崎という名前の小柄な初老の男が、わたし達を迎えた。自己紹介の言葉は、『不動産でメシを食ってます』。その言葉遣いが上品な服と全く合っていなくて、お店で相手をするどんな客よりも怖かったのを覚えている。

『君たちはお似合いでいいね』

 おそらく、表情で見抜かれていただろう。指先のほんの先端だけでも、わたし達の間に割って入られた気がして寒気がした。帰り際に土産まで持たされて、ご飯までごちそうされたのに、おなかの中に石が詰まったみたいな気分で家に帰った。隼人は土産物の中に入った封筒を見つけて、中身を机に出した。札束が音を立てて、転がり出た。

 いつの間にか借金の返済は終わっていた。

 お金の心配はもうなくなった。

 隼人はあの日、人を殺していた。

 わたしがずっと包んできた夢は、全て消えた。夫婦になったわたし達も、子供も。


 わたし達が最初に出会ったのは、海。

 今思い返すと、それが最高の瞬間だったのかもしれない。

 助手席で短く息をする隼人は、眠そうだった。半年前。初めて岡崎に食事に招かれた日。わたしは嫌がったけれど、行って正解だったと今になって思っている。

 わたしが隼人に言った、決定的なひと言。それからまだ六時間しか経っていない。今思えば、隼人はずっとその時を待っていたのかもしれなかった。

『岡崎の為に働いているうちは、未来はないわ』

『どうしてほしいんだ?』

 隼人は答えを知っていた。わたしは大きく深呼吸をして、何千回と頭の中で繰り返してきたことを言った。

『岡崎を殺して』

 その通りになった。つい一時間前、わたしはシーマの運転席で、隼人が戻ってくるのを待っていた。銃声が二発鳴って、ゴミ箱に拳銃を投げ入れた隼人が助手席に滑り込んだ。


「殺した……」

 わたしの耳に隼人の声が届いて、視界が明るくなった。砂に突っ込んで傾いた車の中。夜明けの青白い海。骨壷をぶちまけたみたいな砂浜。わたしは助手席に身を乗り出した。隼人。

「ごめんね」

「これで俺たち……自由の身だな」

 そうね。わたしは眠そうな隼人の隣に寄り添った。

 聞こえてきた二発の銃声。一発は岡崎、そしてもう一発は隼人のお腹に。撃ち合いになったことは、すぐに分かった。

『病院には行かずに、このまま走り続けてくれ』 

 隼人がそう言ったとき、助からないとわたしは確信した。それならと思って、海に向かって車を走らせた。

「海の、匂いだな……」

 隼人の言葉で、今までずっと篭っていた血の匂いがふっと消えた。

「本当ね。懐かしいな」

 そう言いながら、わたしの頭の中には何も浮かんでこなかった。初めて出会った日、何を話したのかすら。ただ、思い浮かぶのは、力強い怪獣みたいなぼんやりとした姿だけだった。そして、それに喜んで寄り添っていた自分と。

 そして、そんな自分を完全に切り捨てている『今のわたし』も。隼人がゆっくり目を閉じて、わたしは、隼人の手に自分の手を重ねた。

 海に来て良かったな。

 お願いだから、何も思い残さないで。ゴミ箱に血だらけの銃を投げ捨てるあなたは、最高に格好良かった。だから、このまま眠って。

 言わないと決めた事。今、わたしのお腹にはあなたの子供がいる。もし女の子なら、血の匂いがする人間は誰ひとり近づけない。世界で一番幸せなお姫様にしてみせる。そして、もし男の子なら。

 あなたのように、すぐに暴力に頼って、断り方を知らないような男にはしない。

 そそっかしくて力が強くて、恩を忘れない不器用な男に育てる。まるで、あなたの生き写しのような。

 出会った日。まだお互いのことを何も知らなかった、最高の日。わたしがあなたの中に見た男。それを守る為には、何も残してはならない。あなたからこの子には、何も教えさせない。

『あんたも用心したほうがいいわよ』

 頭の中で何千回も繰り返した言葉。

 昨日の朝、わたしは先に岡崎に伝えた。唯一の不安は、隼人が返り討ちに遭って終わってしまうということだけだった。でも、そんな心配は要らなかった。

 あなたは怪獣と同じ。撃たれたって、殺すまでは手を緩めない。わたしがこの子を諦めないように。

 隼人の首が傾いて、眠りに落ちたように垂れた。わたしは一瞬息ができなくなって、思わず胸を押さえてむせた。まだだ。まだ、わたしは死ねない。

 だって、もうすぐ夜が明ける。

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