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花月と暮春が桑の木人形とやり合っている中、雛と桃井は必死に走っていた。
ふたりとも派手に暴れてくれているおかげで、桑の木人形たちはその音めがけて群がっているため、こうしてふたりで走っていても追いかけてくることはない。
「あ、あの……本当にこれで、大丈夫なんですかね?」
桃井は持たされた塩の袋を持ちながら、辺りを見回す。雛はこくりと頷く。
「
「まあ……そうなんですけど」
いくら花月は肝が据わっているとはいえど女性だし、暮春もいるとはいえども彼は若干見える体質らしくなにかにしきりに脅えていた。このふたりを囮にして、果たして無事で済むんだろうかとは思うものの。それ以外に方法がないのだからと、怪我しないことを祈る他あるまい。
正面出入口ではなく、従業員が使用していた出入口へと向かう。そちらのほうも、ゆらゆらとした動きの桑の木人形たちがいるようだった。しかし正面入口よりもその数は少ない。
お清めの塩を撒けば、桑の木人形たちが倒れるのはわかっていても、それ以外に対処する方法が見つからない。そもそもあの大きな繭玉をおしら様に供物として捧げられてしまったら、その時点でアウトなのだ。
桃井は塩を掴んで、桑の木人形たちに振るう。
桑の木人形たちは時には桃井が首に下げているカメラを引っ張ろうとしたり、頭を掴もうとしたりしてくるものの、塩を浴びた途端にバタバタ倒れていく。そんな中、桃井は少しだけ違和感を覚えた。彼らは雛……正確には雛の持っている風呂敷……にだけは手を出さないのだ。
あの中にはご神体とご神体の新しい服が入っているせいだろうか。
ふたりで最後の桑の木人形が倒れたところで、出入口へと足を踏み入れる。
「う……」
踏み込んだ途端に、桃井は鼻を抑えた。
昼間に製糸場に入ったときには、こんなに篭もった匂いはしなかったが、今のここはどういうことか。
夏場に生肉を三日間放置したような、甘いのか苦いのかわからない腐臭が、出入口からすら漂っていたのだ。これより奥に進めば、鼻が曲がってもう使い物にならなくなるんじゃと思わずにはいられない。
「この匂いは、いったい……」
「……供物、だと思う」
雛の返答は固い。彼女もまた、この匂いのせいなのか、それとももっと禍々しいものを感じているのか、表情がどことなく固い。
「供物って。こんな腐った匂いのものを、神様に捧げる気なんですか……!?」
いくら反転しているとはいえど、おしら様は神様のはずだ。そんなものを供物にしてしまってもいいものなのかとは、宗教に疎い桃井ですら思う。
雛は固い表情のまま続ける。
「……桑の木人形は、人間を繭玉に閉じ込めて、それを供物としておしら様に捧げるの」
「待ってください。この腐っているのは、つまり……」
それに雛は答えることはなかった。しかし、その沈黙で答えを言っているようなものだ。桃井は顔を引きつらせつつ、辺りを見回す。
「あの……それで、儀式をどこで行えばいいんですか? まさかこんな場所で行う訳にも……」
「繰糸を行っていた場所、と言えばわかる?」
「えっと……」
それはほのかが何度も覚えたての説明文でガイドをしていたように思う。昼間に製糸場を案内されたことを思い返しながら、桃井は頷いた。
それに雛が続ける。
「そこが本来、蚕月神社の拝殿だった場所なの。そこにご神体を置いて、儀式をはじめるの……逆に言ってしまえば、そこに村の人たちがおしら様に繭玉を食べさせ終えてしまったら、その時点で向こうの儀式が成立してしまうから」
「……既に、運び込まれていましたよね?」
「おしら様に繭玉を食べられなかったら、まだ儀式を行えるはず。急ごう」
「は、はい……」
桃井は喉がカラカラになっていた。
甘い腐臭が漂っている。それの正体を考えたらめまいが起こりそうだが、供物をおしら様が食べなかったら、まだ勝機はあるのだ。
いったいどれだけ時間が残されているのかはわからないが、それに賭けるしかあるまい。
****
桃井と雛が既に裏口に回って、製糸場内に侵入したその頃。
まだ花月と暮春は、桑の木人形たちに取り囲まれているままだった。
この辺り一帯の桑の木人形を操る女性は、桜と花月が鞄をぶつけ合っているのを、ただくすくすと笑って見守っているだけだった。
暮春は必死で塩を振り撒いて、桑の木人形たちの動きを止めていたものの、この女性がいると厄介なのだ。
一度動かなくなった桑の木人形に、彼女が指を差すと、途端に彼女の服や首裏、耳の穴から意思を持った繭玉が転がり出て、崩れた桑の木人形の穴……それこそ、耳の穴や口腔など……に入り込み、またも動きはじめる。
彼女をなんとかしなかったら、まず桑の木人形の動きを止めるのは不可能ではないかとは思うものの、桑の木人形たちを越えて、彼女の元に向かえないのだ。
これが武道の達人なり陸上選手であったら、最短で彼女まで距離を詰め、彼女を殴るなり叩くなりして動きを止められるだろうが、残念ながら暮春は編集者だし、花月は小説家だ。肉体労働には本来向いていない。
「あー……マジで桜がしつこい……こいつ、不能になるわしつこいわで、いっつもフラれてたんじゃないかね」
花月は鞄で桜を殴りつつも、文句を垂れる。彼女の面倒くさげな口調に、暮春は少しだけ「あれ」と思いつつも、いつもの調子で口を出す。
「止めてくださいよ、花月先生。さっきから下ネタばっかりじゃないですか。それよりなんとかしましょうよ」
「あー……モヤシに過度な期待すんなよー。ぶっちゃけ俺ぁ運動不足にゃ定評あるぞー」
「あんたがすぐ息切れするのは、喫煙のせいでしょうが! 健康のために禁煙しろとどれだけ言いましたか!?」
「えー、今だって一服してえけど」
花月はちゃらんぽらんでいい加減な言動をするが、自分たちの行動次第で、雛や桃井の命に関わるということくらいわかっているはずだ。なのに、わざわざ面倒臭いとか、思っていても言わないことをわざわざ言っている。
なにか作戦でもあるんだろうか、と適当に話を合わせている暮春だったが、先程まで奥でくすくす笑っていた彼女の表情が少しだけ強張った。
「ねえ、あなた。この人も女性よ? 犯しなさいな」
そう冷たい声で、桜に命令した。暮春は絶句する。
桜はどうしようもない奴だが、タイプじゃない女性を犯す趣味はないだろうし、なによりも花月をなんだと思っているのか。
暮春は慌てて塩を振り撒いて、花月のほうに近付こうとするが。桜が花月の運動不足な筋肉のない細い腕を取った途端。花月は鞄を放り投げて、ライターを取り出す。
ジュッ……と匂いがしたと思ったら、桜の袖に火が点る。
途端に、桑の木人形たちが……あの女性も含めて……後ずらししたことを、暮春は見逃さなかった。
「あぁ……ああああああ……」
「悪ぃ、桜。俺にはどこに取り憑かれてるのかわからんから、許せや」
桜は口を開くと、途端に口から大量の生糸を吐き出した。生糸の元の繭玉は慌てて桜の体から逃れようとするが、桜の服の袖が燃える中、巻き込まれて、あっという間に燃え尽きてしまった。
絹は丈夫で裂いたり破いたりすることこそ難しいが、熱には弱く燃えやすい。中学校の家庭科で習うようなことが、まさか心霊体験で役に立つなんて誰も思わないことだろう。
「な……この女……正気なの? 知り合いに火を付けるなんて……」
女性のほうが引いている。花月は「んー……?」と辺りを見回す。桑の木人形たちは、花月が危険だと判断したのか、皆後ずさりして、近付かない。
あの得体の知れない繭玉にも、恐怖というものはあったらしい。
花月は気にする素振りもなく、自分の鞄を拾い上げると、中に入っていたペットボトルを一本開いて、黙って桜に傾ける。燃やされたと思ったら水をかけられるなんて、どこまでも彼は不幸だ。
少し焦げ付いた匂いを立てながら、桜はそのまま崩れて倒れてしまったのを確認しつつ、花月は暮春のほうに視線を向ける。
「なあ、桜倒れたけど。なんか変化あったのか?」
「へっ?」
「俺にゃよく見えねえけど、桑の木人形は蚕の神様のお使いだから、絹糸で操ってるんじゃねえかと思って、燃えれば切れるかなあくらいだったんだけど、切れたか」
「あ、ああ……!!」
そこでようやく、暮春は思い至った。
花月は零感だ。だから、女性が粘着質な繭玉と戯れているのも、桜が生糸を吐いたことも、彼女からは「見えていない」のだ。見えていないからこそ、状況証拠だけ拾って、そうじゃないかと推測して、絹の弱点が弱点になりえるんじゃないかと判断した、ただそれだけなのだ。
たったそれだけで、桑の木人形たちを脅えさせたというだけで。
「……桜くんの体から、繭玉が出ていきました。芋虫みたいに動く。それが出たら崩れたので、多分火が弱点で間違いないです」
「そっかそっか」
そう言って、彼女は安心したように煙草まで引っ張り出してきて、火を付けはじめた。
闇に紫煙が立ち昇る中、桑の木人形たちからしてみれば、その紫煙はお香の匂いとなんら変わりがなかっただろう。神道なのだから、きっと線香ではない。
皆が後ずらしする中、ただ花月は不敵に笑った。
ああ、と暮春は頭を抱える。
彼女は零感であり、運動神経は大したことがない。だが、肝は据わっているし、頭も切れる。そしてなによりも彼女は。
見たい知りたい聞いてみたいという、ホラー小説家としての好奇心をなによりも優先する。それをネタにするとか、取材するとかいうのは一切ない、ただ興味があるから首を突っ込みたいというただの出歯亀根性だ。
それを向けられた幽霊にとっては、迷惑極まりない。
あれだけ深刻だったはずの、桑の木人形たちの楽園は崩れてしまった。あとはもう、彼女による彼女のための彼女の喜劇が上演されるだけだ。
こんなの、現地民の雛とただ取材に来ただけの桃井を巻き込んでいいものではない。よかった。あのふたりを巻き込まなくてよかったと、暮春は煙草の火をこれ見よがしに見ながら恐怖に駆られる桑の木人形たちを眺めていた。
もうここから先は、花月弥生の蹂躙しかない。
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