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 まだ夏だと思っていたが、日が落ちた途端に冷え込んできたのに、桜は失敗したなあと暢気に思う。

 時折髪が燃えたようなにおいが漂ってくるので、「んー?」と振り返ったら、夕闇でも見えるほど白煙と火の粉が空に舞い上がっているのが見える。


「あぁあ。田舎で建物が燃えたら、致命的なんじゃないの」


 まさか自分の泊まっていた宿が燃えているなんて知る訳もない。そのまま田舎道を歩いていく。時間を約束した訳ではない。どこで落ち合うか約束した訳でもない。ただ桜は気の向くままに歩いていく。

 そういえば、約束した美人さんの名前すら聞いてなかったが、まあいいかと思った。

 どんな美人にも穴があり、穴があったら塞ぎたくなるのが男の性分だ。口に出したら最後、誰もが「下半身以外でも物事考えろよ」と半眼で突っ込みを入れるだろうが、口やかましい人は大概は桜の下半身優先志向に嫌気が差して離れてしまう。

 どこぞの小説家が顔をしかめて「マジその下半身でしか物考えねえ癖、矯正しとかねえと知らねえぞ」と忠告していたが、桜からしてみれば枯れてるババアになにを言われてもと、聞く気にならなかった。

 やがて、宿場町から完全に抜け、土産物屋の通りに出る。こんな中途半端な観光地に建てられた土産物屋なのだから、もう既に店は閉まっていると思っていたのに、裸電球がぶら下がって、未だに店員たちがたむろしているのが見える。


「こんばんは、よく来てくださいましたね」


 桜が振り返ると、あの極上の美人が穏やかに笑っていた。彼女からは桑の実酒の甘い匂いだけがして、昼間にずっとここで店番をしていただろうに、不思議と汗の匂いはしなかった。

 桜は鼻の下が伸びるのを感じながら、汗と裸電球でうっすらと透けている彼女のTシャツの胸元を眺める。


「こんばんはー。もう店大丈夫? どこでする?」

「ここの裏はどうでしょうか?」

「えー……虫に刺されない?」

「ふふ……食われるかもしれませんね」


 虫に食われるってどこの方言だっけ、と桜がぼんやりと思っている中、彼女につるりとした手で自身の手を取られる。荒れひとつない手は絹のように滑らかで、先程から漂う甘い匂いも相まって、自然と桜も気分が高まる。

 店の裏には茂みしかないが、手を付けそうな気があるのなら充分かと思い、桜が彼女のTシャツに手をかけようとする前に、彼女は軽く桜の鼻筋にキスをする。柔らかい唇であり、甘い桑の実酒の匂いが通っていく。


「まずはキスからじゃないかしら?」

「あー、ロマンティックな奴からのほうがお好みで?」

「ええ……」


 本当だったらスカートに手をかければすぐにでもはじめられるが、彼女の流儀に任せることにした。彼女の唇を奪い、口腔に舌を伸ばす。

 彼女の口腔はびっくりするほど滑らかで、舌のざらりとした感触がないことに驚いた。そしてそのつるりとしたものが、桜の口腔を通り、喉を撫でていく。

 ……ん?

 人の舌はどれだけ長くとも、たとえざらざらしていなくても、キスしている相手の喉奥を撫でられるほど長くなることは、まずありえない。


「ちょ……待って……!」


 桜はキスを辞め、慌てて彼女の唇を押し返そうとしたが、そのときに見てしまった。

 彼女は口いっぱいに、繭玉を含んでいたということに。


「あら……もう駄目なの?」

「ちょ……これな……」


 口に大量に繭玉を頬張っている人間なんて知る訳がなく、そもそも口がこれだけ塞がっていてしゃべられる訳もない。しかも繭玉は本来は蚕のさなぎのはずだ。それがビチビチと意思でもあるように動く訳がないのに。それは芋虫のように彼女の口腔内で蠢いているのだ。

 そして、だんだん桜の喉が苦しくなっていく……先程、意思のある繭玉を口移しで流し込まれたのだから。


「く……うぅ……な、にした……!?」


 桜はどうにか嘔吐して繭玉を喉から出そうとするものの、繭玉は桜の喉の中でしゅるり……と解けたのだ。しゅるりしゅるりと糸が伸び、その伸びた糸が、桜の中を這いずり回ってくる。


「あ……ががが……がぁ……」


 口からダラダラとよだれが出る。息ができない。酸素が足りない。桜の意思とは裏腹に、解けた生糸は、桜の体中で蠢きはじめた。

 それを彼女はくすくすと笑って眺めていた。


「虫に食われちゃったわね。今のあなたはただの観光客ではないわ。木人形きじんじょうだもの。おしら様にお仕えするの……供物を捧げるために生かされるのよ、私みたいに」


 そう言う彼女が口から垂らしたのは、すっかり湿った生糸だった。

 彼女はとっくの昔に繭玉に侵食され、自分の意思で動いてはいなかったのだ。

 そうか。昼に自分に声をかけたのも。自分がまともな約束をしていない彼女の場所がわかったのも。

 とっくの昔に、自分は彼女に侵食されていたからだという訳だ。


『マジその下半身でしか物考えねえ癖、矯正しとかねえと知らねえぞ』


 どこぞの小説家の忠告が、だらだらとよだれを垂らす桜の脳裏を掠めた。

 うるせえババア。遅いんだよ。

 桜の意識は、喉の這いずり回る生糸に侵されていった。


****


 本当ならすぐに出かけるはずだった花月たちは、職員用施設に移動してからまずはじめたことは、盛り塩の設置だった。


「ですけど、花月先生……盛り塩ってこれ。神社の塩なんですよね? 意味なんてあるんでしょうか……」


 暮春が常日頃から持っている塩を小皿に入れて、職員用施設のあちこちの四つ角に置いて回るのを、困った顔で桃井は訴える。

 神社で祀られていたはずの蚕とはいえど、神なのだから、盛り塩が効くのかどうかなんてわからなかった。

 それに花月が盛り塩を並べながら答える。


「一応結界だなあ。結界っていうとRPGとかやってたら攻撃を塞ぐバリアーみたいなもんを想像するけど、本来は神域しんいきの場所を固定するってもんなんだよ。神社に行ったら大概は鳥居があるし、拝殿の上にはしめ縄が設置されてんだろ。ここから先は神の領域で人間がむやみに近付いちゃいけねえって意味で、神側にはここから先は人間の領域だから神も侵しちゃいけねえって活動区域を仕切ってるんだよ。今は神社が潰されたせいで、神域の区切りもなくなっちまって、この村のどこからどこまでが神の領域かわからねえから、こっちからここから先は人間の領域って定めておいたほうがいいってことだよ」

「はあ……ですけど俺たち霊感なんてないのに、こっちから仕切ってあっちがそれを了承してくれるんですかねえ?」


 桃井の質問に、盛り塩を並べている暮春が小さく答える。


「一応、俺は見える程度ですけど霊感はありますし、この塩も神社でもらったものなんで、本当に気休め程度にはなるかと思います……ただ俺も蚕とはいえど神様をどうこうするなんてこと、できませんよ……」

「まあ、マジで気休め程度だってことだ。どっちみちここにバスガイドの姉ちゃんを置いていく訳だし、その姉ちゃんが蚕のせいでひどい目にあったら可哀想だしな。おっし、終わり」


 廊下、食堂、玄関。最低ラインとして、共通スペースには四つ角にそれぞれ盛り塩が並べられている。

 さすがに物理的に火を付けられたらおしまいだが、そうでない限りは大丈夫だろう。そう思って暮春がひと息ついたとき、花月は鞄を肩に背負いながら「ふうむ……」と顎を撫でていた。


「あの、花月先生。盛り塩は終わりましたし……外に出るなり籠城するなり考えませんと」

「いやなあ。なあんで俺たちの宿、火事になったんだろうなあと思っただけで。俺煙草を吸ってもさっさとポケット灰皿に捨てるから」

「なんでって……そういえば、なんででしょうね」


 料理中に火事になるとは、ボヤ程度でもありえるが、ここの食事はそもそも工場から弁当が送られてくるのだから、厨房ではまず調理は行われない。

 だからといってなにかしら機械が壊れて、そこから……というのも考えたが、ここには複雑な機械はない。せいぜい自販機くらいだ。職員用施設にはテレビがあったが、宿にはそれすら存在していなかった。

 しかし萎びた村のやる気のない宿には、最新鋭のスプリンクラーも警報器もなかったから、火なんて実は付け放題だ。消防団が来るまでに火が回ってしまったら、どのみちなかなか消火できないのだから。

 でも燃やしても旨味のないはずの宿を燃やす必要が思いつかない。


「普通に考えれば、宿を燃やす必要はないですよね。観光客だって俺たちくらいしかいないんですから……」

「うーん、だから燃やしたような気がするんだよなあ。俺らは元々夜に出歩く予定だったけれど、バスガイドの姉ちゃんにすら、俺らが出かけること言ってねえもん」


 花月はガリガリと髪を引っ掻きながら言う問題発言に、暮春は喉がヒュンと鳴る。


「あの……俺たちが嫌でも外に出るように仕向けたかったとか、そう言いたいんですか?」

「状況証拠だけだったら、俺たちの味方って言えるのは観光客同士とバスガイドの姉ちゃん、そしてわざわざ知らせる必要もねえことを教えてくれた雛って子だけだと思うんだよなあ。それ以外は敵……とまで言わずとも、俺たちのことを煙たがってると思っていい。なら俺たちがどうなろうが知ったこっちゃねえんだろ」

「待ってくださいよ……火事で殺す気は……」

「それも考えたけどなあ。もし火事で俺たちを殺す気なら、食事に薬でも盛って絶対に起きないようにした上で、深夜俺たちが眠った頃に火を付けたほうが確実だろ。職員用施設にいるバスガイドの姉ちゃん以外は確実に殺せる。わざわざ食事中に、しかも俺たちがいない部屋から火を付けるんだったら、普通は逃げるだろ。俺たちを生かさず殺さずってのが、奴さんの狙いじゃねえの?」


 それに暮春は顔を青褪めさせる。そういえば、と桃井が口を挟む。


「雛さんも、夜は宿から出るなと言っていましたね。宿に火を付けられない限りは安全だと思ったんでしょうか」

「さあな、そればっかりはなんとも。さて、危ないんだろうが出かけるか」


 そう花月が言う。暮春は嫌な顔をしつつも、鞄の柄を握りしめた。

 本当だったら盛り塩を置いた自分の部屋に引っ込んで、震えながらひと晩過ごせば助かるとは、そう思っている。ただどこの誰ともわからない人間が平気で宿に火を付けるのだから、ここが確実に安全とも思えない。

 桃井が「あのう……」ともうひと言だけ言う。


「バスガイドさんには、言いますか? 俺たちが出かけること」

「止めといたほうがいいんじゃねえの? あの子も上に怒られるのが嫌だろうし、俺たちが無断外出してたってことで報告したほうがまだマシだろ。だからと言ってあの姉ちゃんを外に連れ回すのも可哀想だしなあ」

「……そうですね」


 ほのかが涙目になっているのを頭に思い浮かべながら、皆職員用施設の出入り口を後にした。

 向かうとしたら、蚕月製糸場だが。鼻をひくひくと動かすと、先程まで自分たちがいたはずの宿の燃える匂い以外に、何故か変な匂いがする。

 甘い匂いに、苦い匂い。夜風はやけに冷たいが、何故かメントールを鼻に塗りたくったような冷たい感覚が鼻孔を通っていくのに、暮春は目を剥く。それに目ざとく気付いた花月が「おっ」と声を上げる。


「暮春、なんかあったか?」

「なんかあったというより、においませんか?」

「火事のにおいはするけど。桃井はするか?」


 話を向けられた桃井も、暮春と同じく夜風にひくひくと鼻を動かすが、すぐに首を振った。もし火事さえなかったら、村を取り囲む森と土の匂いがしただろうに、今や焦げたにおいしか漂っていない。


「火事のにおいしかしません」

「だとしたら……この甘い匂いと、寒気はいったい……」

「んー……これがあの雛って子が夜に外に出るなって言ってた理由か?」


 花月が首を捻った途端。

 職員用施設の近くでガサッと音がした。そこからは、ひどくすえたにおいがするのに、さすがに暮春だけでなく、花月も桃井も鼻を抑える。


「う……う……う……」


 茂みから現れたのは、シャツにスカートと、どう見ても人間だが。何故か目の焦点が定まっておらず、口からダラダラと唾液を垂れ流している。そのにおいに、花月が「うわあ……」と漏らした。


「あ、あのう……あの人は……なんでこんなひどい臭いを……」

「あのさあ……いろいろあるんだろうなあとは思ってたけどさあ……桑の実食ったら最後、ゾンビになるとか出来過ぎだろ……」

「はあ!? ゾンビ……ですか?」

「呪いとかそんなんだから、正確にはどうなのか知らねえけど、あんなもんゾンビ以外に言えねえだろ。逃げるぞ」

「は、はい……!」


 小説家。編集者。カメラマン。夜の廃村を揺らめく人から逃げ出すために全力疾走なんてシュールな光景が見られるのは、おそらく今晩だけだろう。

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