十九手目「君の手を握って」

 亘とみのるは盤上の石を整地し終わる。

 亘とみのるは互いに自分の手を引く。

 みのるは表情を引き攣らせて、仰天して目を見開いた。

 亘は身体を震わせながら、みのるに向いた。

「俺の、半目勝ちだ」

「バカな! こんなこと有り得ない!」

「みのる君……」

「嘘だ! 絶対に嘘だ! 整地の時に数を誤魔化したんだろ!」

「俺はそんなことしない」

「記録係、棋譜を確認してくれ! 絶対に俺が勝っているんだ! こんな奴に俺が負けるわけない!」

 みのるを呆然と見つめる記録係の記録係の職員。

「ワタル君! みのる!」

 仁村の声が聴こえて、亘とみのるは襖の方へ振り向く。

 仁村が下を向きながら、二人の下へゆっくりと歩み寄って来る。

 仁村はみのるの右横に正座する。

「確かにワタル君の勝ちだ」

 みのるは泣きそうな顔で仁村に振り向く。

「そんな!」

「観戦室から見学していた。間違いない。AIもワタル君の半目勝ちと示している」

 みのるはガックリと頭を下げた。

「……畜生」

 仁村は悔しそうな表情を無理矢理笑顔に作り変えて、亘に振り向く。

「ワタル君!」

「仁村先生」

「本当に強くなったな。囲碁のルールをまるで知らなかった初めの頃から比べると、ワタル君は本当に成長したよ。プロ棋士に相応しい棋力と精神力を手にしたんだね。本当におめでとう!」

「ありがとうございます」

 仁村は左横で落ち込んでいるみのるに首を傾けて、

みのる、残念だ。お前は序盤、中盤、終盤、ほとんどの局面でゲームを支配していた。にも関らず、お前は負けてしまった。どうしてだと思う?」

「無理に、相手の石を取ろうとしたから、返り討ちに遭いました」

「お前、ワタル君に挨拶しなかったな」

「っ!」

 ハッとするみのる。

「相手への敬意を忘れないことが、盤面の視野を広げることにも繋がるんだ」

 みのるはガックリと肩を落とし、項垂れる。

「礼儀礼節を欠いたら、どんなに努力を積み重ねても、栄光は得られないぞ!」

 みのるは全身を震わせながら泣きじゃくる。

(俺も一緒に泣くよ、みのる……)

 仁村は泣きそうになりながら、亘の方を向く。

「ワタル君。君は自分だけの努力で強くなったわけではないのを分かってるね?」

「はい」

「じゃあ、あの子のもとに行きなさい」

「はい! ありがとうございました!」

 亘はゆっくりと立ち上がると、摺り足で部屋から出て行った。

 記録係や棋譜読み上げの職員達も、仁村達を気遣って無言で立ち去って行く。

 みのると仁村の二人だけになった対局室。

 仁村はみのるの肩を優しく叩いた。

みのる!」

「父さん……」

 みのるは泣きながら仁村に抱きついた。

 仁村もみのるにつられて涙腺を厚くしながら、みのるの頭を優しくなでた。


 亘はこの後、別室に移動して、着物の姿でパイプ椅子に座った。

 待ち構えていた報道陣がインタビューを始める。

「準備が整いましたので代表質問を始めます。まずは入段おめでとうございます」

「ありがとうございます」

「すばり勝因を聞かせて下さい」

「運が良かっただけです」

「初手に天元に打ちましたが、その理由は?」

「みのる君がニギリの時に僕に黒番を渡すことは読めていました。彼は勝つだけじゃなくて勝ち方にも拘る男だと合同予選の時にも戦って分かっていましたから。それでみのる君は院生として長い期間やっているのに対して、僕は囲碁を始めてまだ半年の未熟者です。普通の手を打っても経験の面では勝てないと思ったので、ならば相手も一番経験していない手が有効だと考えて、天元に打ちました」

 その後も、色々と記者が質問してそれに受け答えしている中、

「亘!」

 父親の拓郎と母親の千鶴子がニヤニヤ笑いながら姿を現すと、亘と抱き合って見せた。新聞カメラマン達が一斉にフラッシュを浴びせて撮影した。

「おめでとう、亘!」

「ありがとうございます」

「プロ棋士になれるなんて凄いよ」

「お母さん」

「会見が終わるまで待っているから」

「いいえ、先に帰っていてください」

「どうしてだ?」

「僕には、もう同じ道を歩きたい人が居るので」

「分かった」

「じゃあね」

 このやり取りは記者達には聞こえなかった。

 拓郎と千鶴子は亘の言う通り、退出し、先に帰宅していった。

 記者会見はその後も続き、同じ質問や下らない質問にも何度か受け答えしながら、一時間以上にも及んだ会見に、亘は真摯に対応した。


 亘は真っ黒な羽織袴姿に荷物を入れた巾着袋を持って、日本棋院から外に出た。

 すると、香織が艶やかな赤い振袖姿で亘を待ち構えていた。

「香織ちゃん」

「おめでとう、亘君」

「ありがとう」

 香織は両腕を広げて振袖を垂らす。

「どう?」

「香織ちゃんが、世界で一番可愛い」

「そう言うと思った」

 亘と香織は微笑み合う。

 亘と香織は並んでゆっくりと歩いていく。

「本当にプロ棋士になれるなんてね」

「だって碁が強い人と付き合いたいって言ってたじゃん」

「亘君」

「だから、もう一度告白させて」

 亘と香織は足を止めて向き合う。

「香織ちゃん」

「はい」

「好きです。僕と付き合ってください」

 亘は真剣な表情。

 香織は自分の顎を持って考える仕草。

「じゃあ……」

 亘は緊張した表情で固唾を飲む。

 香織は微笑して右手を伸ばす。

「手は繋いで良いよ」


(香織ちゃんと、手を繋げるだなんて……!)


 亘は感極まった表情で両手を伸ばし、香織の右手を優しく握る。

「香織ちゃんの手を、握れた……」

 香織は微笑する。

「行こう」

 亘は香織の右手を利き手の左手で握りながら歩く。

「次は、私のためにタイトルを取って」

「えぇ、何年後になるやら」

「諦める人、嫌いよ」

「分かった、頑張るよ。香織ちゃんも女流タイトルを諦めないで」

「うん、二人で頑張って行こう」

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