川崎さん

椰子草 奈那史

川崎さん

 新卒で入った会社の赴任先は名古屋だった。

 会社が借り上げているワンルームマンションに引っ越した後、入社式と新人研修を行うために数日だけ東京に滞在した僕は再び名古屋に戻ってきた。

 用意されたマンションは名古屋支社から地下鉄で7駅ほど離れたところにあり、駅からは歩いて10分ほどの住宅地の中にあった。


 何度かの試行錯誤を経て、毎朝7時50分に部屋を出る生活が定着した頃のことだった。

 マンションから駅まで丁度半分くらいの位置にある角の住宅に差し掛かった時、不意に横から「おはようございます」と声がした。

 半分ボーッとしながら歩いていた僕が慌てて声の方を向くと、そこには玄関の前でほうきを持った年配の女性が立っていた。

「老婆」と言うにはまだ若く、「中年」と言うには少し違うような微妙な年齢に見える。

 しかし三割ぐらいが白くなった頭髪は、よく手入れされているのかつやがあり「品のいい奥様」と言った雰囲気の人だった。

 僕はとっさに言葉が出ず、小さく頭を下げた後に少しうわずった声で「おはようございます」と応えた。

 年配の女性はニッコリと微笑んでいる。

 正に「満面の笑顔」という言葉そのものだった。

「いってらっしゃい」

 再び女性が僕に声をかける。

「あ、はい、行ってきます……」

 僕は戸惑いながらも再び小さく頭を下げてその場を去った。


 何だったんだろう。

 僕がこれまで学生時代を過ごした東京の街では、見ず知らずの人に挨拶をされるなんて事は殆どなかった。

 このあたりには昔ながらの「人情」のようなものが残っているのだろうか。

 そんな事を考えながら駅へと向かった。


 ※※※


 翌朝も同じ時間に角の家の前を通ると、再び年配の女性が玄関の前で箒を持って立っていて「おはようございます」と声をかけてきた。

 昨日と同様に、満面の笑顔を浮かべている。

「あ、おはようございます」

 軽く頭を下げて先へ進む背後から「いってらっしゃい」と声がした。


 その日以降も年配の女性は毎日玄関の前に居て、「おはようございます」と「いってらっしゃい」を言ってくれた。

 僕も次第に慣れ、普通に挨拶を返すようになっていた。

 それ以上何か言葉を交わすことはなかったが、初めての土地で会社の人間以外には殆ど知り合いもいなかった僕にとっては、ほんの少し心の潤いになっていたのは確かだった。

 年配の女性の事について僕は何も知らなかったが、表札に「川崎」と記されていたから僕は自分の中で勝手に「川崎さん」と呼んでいた。

 川崎さんは毎日その時間は玄関の前を箒で掃いていて、雨の日でも白いカッパを着てそれを欠かさず行っているようだった。

 玄関の前は常にきれいでそこまで毎日掃く必要があるのかとも思ったが、おそらく習慣のようなものなのだろうと僕は解釈した。


 そんな生活が二ヶ月ほど過ぎたころのことだった。

 朝、いつものように川崎さんの家が近づいて来たときに小さな異変に気がついた。

 川崎さんの家の門の前で、スーツ姿の初老の男性が敷地内に向かって何かを言っている姿が目に入る。

 徐々に距離が近づいていくと、男性は強い口調で何かを問い詰めているようだった。

 言っている内容はよくわからなかったが、「言った通りにやれ」とか「何回言えばわかるんだ」とか、そんな事を誰かに言い放っていた。

 初老の男性は僕が近づいて来ていることに気がつくと、バツが悪そうな表情を浮かべて駅へ向かう方向へと歩き出す。

 僕は少し歩く速度を落として川崎さんの門の前にたどり着いた。


 ――この時間なら、あの男性が怒鳴っていたのは……。


 川崎さんの玄関の方を見ると、やはりそこには箒を持った川崎さんが立っていた。


「おはようございます」


 川崎さんはいつもの「満面の笑顔」を浮かべてそう言った。


 ――え、あんなに怒鳴られてたのに、普段と変わらない?


 僕が戸惑いながらも挨拶を返し、その場を離れようとした時だった。


「お恥ずかしいところを見せてごめんなさい」


 初めて、川崎さんが「おはようございます」と「いってらっしゃい」以外の言葉を口にした。

「え? えと、いや……」

 言いよどむ僕に構わず、川崎さんは言葉を続ける。

「夫は真面目な人なのだけど、今日は機嫌が悪かったみたい」

 そう言って川崎さんは笑顔を浮かべたままで微かに首を傾げるような仕草を見せた。

「そう、だったんですね……ええと、行ってきます」

 会話を切り上げて背を向けた僕の背後から、川崎さんの「いってらっしゃい」の声がした。

 その後は川崎さんのご主人に会う機会はなく、再び川崎さんとは朝に挨拶を交わすだけの日々が続いた。


 夏が過ぎ、秋の気配が訪れ始めた頃だった。

 その日も出勤のために川崎さんの家の前まで来ると、いつものように川崎さんが満面の笑顔とともに「おはようございます」と声をかけてくれた。

「あ、おはようございます」そう言って先へ行こうとしたした時、背後から「待って」と声がする。

 振り返ると川崎さんが門のところまで出てきていた。

 その手には小さな包みが乗せられている。

「あなた、お昼はいつも外食かしら」

「は、はい。だいたいそうですね」

「そう。実はね、うちは夫と二人なのだけど、ちょっと食べきれなくなって食材が余ってしまいそうなの。お口に合うか分からないけれど、よかったらお弁当に持って行っていただけないかしら」

 川崎さんは手の包みを僕の前に差し出す。

「お弁当、ですか」

 川崎さんとはこの半年間、平日はほぼ毎朝顔を合わせていると言っていいが、挨拶以外は殆ど話したことはない。

 そのぐらいの付き合いの人から手作りの弁当を勧められても、正直なところ躊躇する部分の方が大きい。

 答えに迷う僕に、川崎さんは笑顔のまま言葉を待っていた。

 この笑顔を前にするとどうにも断りづらい。

「それでは、頂きます」

 僕の答えに川崎さんはさらに顔をほころばせた。

「まあ、ありがとう。器は使い捨てのものだからそのまま捨ててもらって構わないわ」

 そう言って僕の手に包みを握らせる。

「あ、ありがとうございます。……それでは僕はこれで」

 頭を下げて再び駅へ向かう僕の背後で「いってらっしゃい」の声がした。


 昼休み、会社で包みを開けてみると仕出しで使われるようなプラスチックの弁当箱の中には、色鮮やかで手の込んだおかずが何種類も入っていた。

 口に入れてみると味付けも程よく、会社の前のキッチンカーで売っている弁当よりもはるかに美味しかった。


 ――こんな美味しいものを作ってくれてたのに、ちょっと迷ったりして悪いことしたな。


 そんな事を考えながら、僕は弁当を残さず完食した。


 ※※※


 次の日も、その次の日も川崎さんは僕にお弁当を渡してくれた。

 恐縮する僕に、川崎さんは「食材が余りそうだったから気にしなくていいのよ」と満面の笑顔で答えるだけだった。

 結局、その週は金曜日まで毎日、川崎さんの弁当を頂くことになった。


 週が変わった月曜日、その日もいつもの時間に川崎さんの家の前を通ると川崎さんは僕には気づかず、どこかを見つめたまま玄関の前に立っていた。

 川崎さんの視線を追っていくと、高さが三メートルくらいの庭木の枝に青い色の小鳥が留まっている。


 ――インコか? なぜあんなところに……。


 僕が訝しんでいると、すぐ近くで「おはようございます」と声がする。

 いつの間にか川崎さんが門のところまで出てきていた。

 川崎さんはいつもと同じ満面の笑顔を浮かべている。

「あ、おはようございます」

 チラリと川崎さんの手を見るも、今日はそこには何もなかった。


 ――ちゃっかり今日もお弁当を頂くつもりになってたけど、よく考えたら食材が余ってたと言ってたしな。もう、それを使い切ったということなんだろう。


 気恥ずかしくなって先ほどのインコに視線を戻すと、どこかへ飛び去ってしまったのかもうその姿はなかった。

「ええと、あ、行ってきます」

 小さく頭を下げて再び元の方向に進もうとした僕の視界に、玄関先に置かれた鳥かごが目に入る。


 ――さっきのインコ……。もしかして放し飼いにでもしてるのか?


 疑問を感じながらも歩き出した僕の背中に、川崎さんの「いってらっしゃい」の声がした。


 ※※※


 その翌日、いつも通りの時間に川崎さんの家の方に歩いていくと、明らかな異変が起きていた。

 川崎さんの家のあたりには人だかりが出来ていて、見えているだけでも数台の警察車両が止まっている。


 ――え!? いったい何が。


 人だかりに近づくと、川崎さんの家の前には黄色い規制線が張られ警察官が周囲を警戒していた。

 川崎さんの家の玄関の戸は開け放たれ、捜査関係者と思われる人間が出入りしている。


 ――なんだ? まさか強盗にでも入られたとか……。


 混乱する僕の耳に、近所の人らしい女性達の囁き合う声が聞こえた。


『旦那さんの会社の人が訪れてわかったそうよ』

『亡くなって一週間くらい経ってたんですって』

『背中から何度も何度も刺した跡があったらしいわよ』

『旦那さんが奥さんを怒鳴る声、よく聞こえてたものね』

『きっと、耐えられなかったんだわ』


 ――そんな、もしかして川崎さんのことか? 一週間前って、食材が食べきれなくなったからと川崎さんがお弁当をくれた日……。


 その時、数人の警察官に囲まれるように玄関から年配の女性が現れた。

 表情というものが一切ない、木彫りの面のような顔のその女性が川崎さんだと気づくのに数秒ほどかかった。

 川崎さんは導かれるまま一台の警察車両の後部座席に乗り込む。

 警察官が人だかりに道を空けるよう促し、車両は徐行し始めた。

 表情のない川崎さんが、ゆっくりと車窓に顔を向ける。

 その視線が僕の方に一瞬だけ動いた。


「川崎さん……」


 走り去る車両の中で、川崎さんは満面の笑顔を浮かべていた。

 その口元は、確かに「イッテラッシャイ」と動いたように見えた。

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川崎さん 椰子草 奈那史 @yashikusa

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