27年間もつれたまんまの糸 <神様からのギフト>
絶坊主
第1話 君はいつだって正しい
奇跡――常識で考えては起こりえない、不思議な出来事・現象。
しかし、奇跡・・・そんなものは元々なくて、すべての物事は最初っから決まっている。淡々とした事実,結果があるだけ。ただ、その事象に人間が一喜一憂しているだけなのかもしれない。
私は幼い頃から少し変わっていて、友達がアイドルやら漫画に夢中になっている中、そういった類に一切興味がなかった。
どうせ誰かが作りだした架空の話、そこにリアリティーなんてない。
皆が正義のヒーローに夢中になる中、悪役の怪獣にとても興味があった。正義のヒーローに倒されていく悪役の様にスゴク魅力を感じていた。“滅びの美学”とでも言うのだろうか。
だからか“奇跡”なんてものは所詮人間の都合のいい願望。淡々とした事実、結果が残酷だろうが知ったこっちゃなくあるだけ。だからこそ、私は嘘やハッタリのきかないリアルファイトの世界が性に合っていたのだろう。
どこか冷めている私はそう考えていた・・・
「絶坊主さん!Sさんかヤバいっす!」
後輩山ちゃんから慌てた様子でTELが入った。
Sさんは私のプロボクサー時代のトレーナー。私の尊敬する伝説のボクサーIさんはじめ数々の日本ランカーを育てた名トレーナー。そして、私が所属していたジムのプロ第1号選手という大先輩でもある。
山ちゃんが言うには、ずっと腰が痛かったSさん。整体行ったり、マッサージ屋に行っても一向に痛みが引かないので、病院に行ったところ精密検査をして下さいと言われた。
検査の結果はガンだった。
しかも、ステージ4。
ステージ4のガンか・・・
私には忘れられない出来事があった。
仕事上で知り合ったAさん(77歳)という方。町の歩く会の会長をするなど、健康に関して人一倍興味のある方だった。なので、よく健康や体の事について話をしていた。私は治療院もやっているので、そういった知識が一般の方よりもある。そんな私の話を、時には熱心にメモを取りながら聞いてくれていた。
そんなある日。
Aさんと数ヶ月振りにお会いした時。
一目で普通じゃないくらい激ヤセしていた。
「どしたんすか?めちゃくちゃ痩せられたんじゃないっすか?」
その話題に触れなければおかしいくらいの急激な痩せ方。Aさんの話によると、激しい倦怠感と共に食欲が急になくなったとの事。
私にはある嫌な予感がした。
激しい倦怠感・・食欲がなくなる・・急激な体重変動。
“ガン”
でも、まさかそんな脅すような事は言えないし・・・
「一回詳しく診てもらった方がエエんちゃいます?」
私はやんわりと言った。
「まぁ、私も歳だからね。」
それ以上強くは言えなかった・・
それから数ヵ月後。
クマゼミが叫ぶように鳴いていた酷暑の8月。Aさんの奥さんから電話が入った。
「絶坊主さん・・主人ね、ガンだったんです。それもステージ4・・・。お医者さんは年も年だし、手の施しようがないって。年を越せないだろうって・・。私、どうしたらいいかわからなくて・・・」
私はAさんの奥さんとも顔見知りだった。そんな私に打ち明けてくれた。
私には“ある治療法”が頭にあった。
“枇杷のエキス”
枇杷の葉や種には、ビタミンB12、アミグダリンという成分がある。仏教の開祖、お釈迦さん。この方が2500年前にお経の中で枇杷の事に触れている。
“大薬王樹”
薬の王。つまり薬効に大変優れた木なのだと。そして“無憂扇”憂いを無くす扇。枇杷の葉っぱの事をこう呼んでいる。
後の研究で種にはアビグダリンが葉っぱよりも大量に含まれているとの事だった。枇杷の種や葉っぱを果実酒に漬けて半年もするとエキスが出てくる。
私は興味があり、それを作っていた。
元ミドル級世界チャンピオン竹原慎二さん。
この方も膀胱ガンのステージ4から、この枇杷エキス治療法も実践して今も元気に活動している。
※ただ数年前、農林水産省からビワの種子にはシアン化合物が含まれているという注意喚起がなされた。しかし、これは大量に摂取した場合、危険があるということ。治療などの量はそれには該当しない。
「・・・という治療方法があるんです。諦めず、やれる事をなんでもやってみましょう!」
私は奥さんに枇杷エキスの話をして、希望を捨てず頑張りましょう!と元気づけた。
翌日、Aさん宅にエキスを届けに行った私は愕然とした・・・
人は亡くなる寸前、体が白くなってしまうという。つまり、血流の流れが悪くなり白くなってしまうらしい。数ヶ月振りに会ったAさんの体は見るからに白くなっていた。
Aさんが私に向かって緩慢な動きで手を伸ばしてきた。私はAさんの手が伸びきる前に、その手を両手で握った。私が力強く握る力に対して、Aさんの力は弱々しく握力はほとんどなかった・・・
もう間に合わないかな・・・
内心そう思ってしまった。
でも、自分がやれる事をやりましょう!と奥さんに言ったんだから、私が元気がなかったらどうしようもない。
「希望を捨てず、やってみましょう!」
私は元気よく言って、Aさん夫妻にエキス、使用方法を説明した。
勿論、奇跡を祈って・・・
◇
2ヶ月後・・・
奥さんから電話が入った。
「絶坊主さん!主人、お陰で元気になったんです!会いに来て上げて下さい!」
奥さんが嬉しそうに私に言った。
奇跡・・・
私も我が事のように嬉しくなり、仕事を終え急いでAさん宅に向かった。
「絶坊主さん!ありがとう!お陰で元気になったよ!」
2ヶ月前とは違い声にも力があり、力強く私の手を握り上下に揺さぶったAさん。本当に別人のように元気になったAさん。
あんなに白かった体も血色が回復し、体に覇気が戻っていた。
「良かったです!ホント、良かったです!」
知らず知らず2人・・いや、奥さんと3人涙を流して喜びあった。
「いや~ホント、奇跡!お医者さんからは年越せないって言われたけど、この調子じゃ年越せるなぁ!」
Aさんは嬉しそうに言った。
良かった・・あそこから回復するなんて、ホント、奇跡よな。
私も嬉しかった。
このままAさんが元気に、以前のようにまた、健康や体に関する話ができたらいいのにな・・・
このまま元気で・・
ずっと・・・
◇
「・・絶坊主さん、主人、緩和ケアに入ったんです・・・。」
「え・・・」
年が明けて2月を過ぎた頃、奥さんから電話が入った。
奥さんの話によると、無事に年を越せる事ができ、家族で近場に旅行に行った時。少し風邪気味になってしまい、そこから体調が戻らなくなったらしい。
どんどん体調が悪くなり、お医者さんから緩和ケアに入るように言われてしまったとの事だった。Aさんはガンによる痛みが酷くなり、モルヒネを少し入れるまでになった。その鎮痛剤を入れてしまうと意識が朦朧としてしまう。
「絶坊主さん!家族しか面会してはダメって言われてるけど、来て下さい!主人、きっと会いたがってると思います!」
「ボクなんかが行ってもいいんでしょうか・・・」
「何言ってるんですか!絶坊主さんの治療法のお陰で、年も越せたし、家族と最後の思い出作りもできたんです!私たち家族はコブシさんに感謝しかありません!だから、遠慮せずに来て下さい!」
私はAさん家族にそこまで思われているという嬉しさと同時に申し訳ないと思ってしまった。
もっと早い段階、ステージ4になる前に、あの治療法を教えてあげればよかったな・・と。杓子定規に枇杷エキスについて話す時には、ガンの事とセットで話さなければならないんだと。
そんなもん漠然と体にいいからとか適当に嘘ついて理由を作れば良かったのに・・・
自分のヘソクリ貯める為の嘘ならなんぼでも平気で嫁につくくせに・・・
私はとめどもない罪悪感に苛まれた。
奥さんからAさんはモルヒネの為に意識がはっきりしなくなったと聞いた。自分が行く事で少しでも刺激になれば・・・
「いいんですか!是非とも行かせて下さい!」
私は贖罪にも似た気持ちだった・・・
翌日、早速Aさんの病室に向かった。
病室の扉を開ける。
そこには、数ヶ月前に血色も戻り、力強く私の手を握り返してくれたAさんはいなかった・・・
弱々しい呼吸をして目を閉じているAさんがいた。
「お父さん!絶坊主さん来てくれたよ!会いたいって、ずっと言ってた絶坊主さんよ!」
Aさんは奥さんの声に反応し、うっすら目を開けて手を少し動かして何か言いたげだった。
すると側にいた娘さんが何かを持ってきた。
「これね、娘が作ったんですよ。」
見ると、あ行から書かれている五十音図の紙だった。
「お父さん、何か言いたいんやね。」
目の前に五十音図を持っていくと、Aさんはゆっくりと指を動かした。
“あ”
“り”
“が”
“と”
・・・もう“ありがとう”の5文字すら指で追えないほどAさんの体力は落ちていた・・・・
「わかった・・わかったよ、Aさん!ありがとうって言ってくれてるんよね・・・」
私は“う”のところに必死で指を動かそうと、でも届かないAさんの手を両手で握りしめて言った。
涙が頬をつたう・・・
人間、ここまで弱くなってしまうものなのか・・
奥さんと娘さんも泣いていた。
それからは、連日、家族でもないのに図々しく、奥さんの言葉に甘えて病室に行かせてもらった。なんとか、自分みたいな人間が刺激になって、意識が戻ったらいいのに・・・
奇跡・・・やっぱり、そんなものなくて、あるのは淡々とした事実だけ。
それから4日後・・・
Aさんは息を引き取った。穏やかな、安らかな顔をして天国に旅立ったAさん・・・
葬儀の席で私はAさん家族に言わなければいけない事があった。
「私は、何故、あの治療法を嘘をついてでも、もっと早くAさんにお伝えしなかったのかと後悔しているんです。・・贖罪にも似た気持ちで病室に通わせて頂きました。家族でもないのに図々しく、連日、病室に押し掛けてすみませんでした!」
ご遺体が安置されていた畳の部屋で正座し、頭を下げた。
「何言ってるんですか!私たち家族は絶坊主さんに感謝してるんですよ!年越せないとお医者さんに言われたけど、最後の年越しもお父さんと過ごせて、旅行も行けて・・絶坊主さん、本当にありがとうございました!」
Aさん家族が皆、頭を下げてお礼を言ってくれた。
あれで私は、どれだけ救われたか・・・
◇
という事が過去にあった。ましてや自分の大恩人。
絶対にAさんの時のような悔いのないようにしなければ・・・
「Sさん明後日退院されるみたいです!」
山ちゃんから連絡があった。でも、その時、余命1年という事を知った。
2日後・・・
以前、20年ぶりに電話して以来、数ヶ月振りの電話。
「Sさん、ステージ4のガンって聞いたんですけど、大丈夫ですか?」
「心配してくれてありがとう!体は元気なんだけど、腰が痛くってさぁ。」
Sさんの声は私が想像していたよりも普通で元気そうだった。とてもステージ4のガンとは思えない声色だった。
「Sさん、ボク治療院やってるんで多少知識があるんですけど、ガンにいいと言われている治療法があるんですよ。あの元世界チャンピオンの竹原慎二さんも実践した方法なんです。」
「へ~そういうのがあんだ?教えてくれる?」
私はSさんに事細かく説明した。
「悪いけどさぁ、それ是非送ってよ!」
「勿論ですよ!Sさんには返しきれないご恩がありますからね!」
「だよなー!俺の言う事全然聞かなかったけどなー!」
2人笑いあった。
「それとさ~俺、ず~っと、うどん待ってるんだけどさ~全然届かないんだよね~。」
「え~~!Sさん知ってたんですかーーー!すみませ~ん!すぐ送ります!」
以前、電話した後、Sさんに香川県でも有名なうどんを食べてもらおうと、山ちゃんからSさんの住所を聞いていたことを思い出した。山ちゃんから「絶坊主さんが香川で有名なうどん送ってくれるみたいですよ!」と聞いていたらしい。
で、うっかり八兵衛な私は本屋で本買ったことによって読んだ気になって結果読まないみたいな、山ちゃんから住所聞いて送った気になって・・・妙な言い訳すんな!ってね。(笑)
ということで、うどんとビワエキスを送ることにした。
声も元気そうだし、Aさんと同じステージ4だけど、もしかしたらまだ間に合うかもしれない・・・
“起死回生の左フック”
ボクシングの試合では、どんなに劣勢な状態でも、たった1発のパンチで状況が引っくり返る事がある。
私は奇跡を信じた。
奇跡なんかないと思っている男が奇跡を信じる・・
つくづく人間というのは勝手な生き物だと思う。
早速、電話を切った後、枇杷エキスを送る為に用意した容器にじょうごとお玉で液体を入れていった。
早く、1秒でも早く送らなきゃ・・・
なんだかわからない焦燥感にかられていたのか、お玉を持つ手が震えていた・・・。
体に合う合わないがあるので、大量には送らず様子を見ようと思った。
余命1年・・・なんとか奇跡を・・・
◇
「絶坊主!待たされたかいあって、うどんうまかったよ!それと、ビワエキス!あれ、いいな!なんかあれ塗ってたらすんごく楽でさ~!治るような気がしてきたよ!無くなりそうだから、また送ってくれよ!悪ぃな!」
「良かったーーー!勿論、送ります!少しは恩返しができそうですね!」
「まだまだだけどな!俺の恩は大きいからな!」
「それ自分で言います?(笑)」
2人笑い合った。
心なしか最初よりも声に力がみなぎっているように思えた。
もしかしたら奇跡、おきるんじゃないのか・・・
祈るような気持ちでSさんに送る為、新しい容器にエキスを移した。
その手は安心感とは反比例に震えていた。
◇
「いいよ、アレ!塗るとさぁ、なんか体が楽になるんだよ!悪いけど無くなったから、また送ってよ!」
良かった・・・
普通、ステージ4のガンって宣告されたら、気が滅入ってしまうだろう。でも、Sさんの声は希望に満ち溢れているように聞こえた。
流石、海を渡り日本から遠く遠く離れたメキシコで闘っていたボクサー。精神力は並みじゃない。2回目に送った量の倍以上を送った。
でも、まだお玉を持つ手は震えていた・・・
◇
「絶坊主さん!Sさん入院することになりました!」
「え?どういう事?」
私は府に落ちなかった。Sさんの声色から元気そうだとばかり思っていたからだ。
「体は元気らしいんですけど、腰を圧迫骨折したらしいんです!」
なぁ~んだ、ビックリしたなぁ。
でも、圧迫骨折したという事が引っ掛かった。確実にガンがSさんの体を蝕んでいるように思えた。
頼む・・何とか奇跡が起こってくれ!
奇跡なんかないよ!あるのは淡々とした事実、結果があるだけ。
奇跡を信じなかった男が祈るような気持ちで、奇跡を真剣に願っていた・・・
◇
「絶坊主さん、驚かないで聞いて下さい・・・・。」
山ちゃんが改まった口調で電話を掛けてきた。
「今日、Sさんのお見舞いの帰り、病室の外で奥さんに教えて頂いたんです。・・・Sさんの本当の余命。」
少し前に山ちゃんから余命は1年と聞いていた。
「・・・本当の余命?」
私は山ちゃんの次の言葉を聞きたくなかった。
「・・3ヶ月です。動揺したらいけないので、Sさんには1年って伝えてるけど、本当は・・・3ヶ月です。」
「ウソでしょ?・・3ヶ月て・・・もうすぐやん。ウソやろ?」
私は激しく動揺した。
「・・・・いえ、3ヶ月だそうです。僕も信じられませんでした。」
3ヶ月て・・今が4月やから、7月一杯まで・・・
あんなに元気そうに電話で話してたのに?ウソだよね?
俺、あなたに生きている間に必ず会いに行くって約束したんだから・・
23歳で怪我の為、引退して27年・・・ちょっと待ってよ・・・3ヶ月て・・
私は激しい焦燥感にかられた。
なんとか奇跡が起きて、生きて欲しい・・・
数日後、Sさんからメールが入った。
“お子さんたちの名前と年齢教えてくれる?”
何だろう?
私はメールで子供たちの名前と年齢を送った。
以降、Sさんからの返信は途絶えた。
そして、山ちゃんから1週間後に電話があった。その声はひどく落ち込んでいた。
「・・絶坊主さん。Sさん・・・もう、時間がないかもしれません。絶坊主さん、会いに来れませんか?」
「え・・・なんで?いつの間にそんな・・・・。仕事の関係があって、月曜日やったらいけるんやけど・・そんなヤバいん?」
「もう・・残された時間、そんなないかもしれません。」
山ちゃんは震えるような涙声だった・・・。
「絶坊主さんにIさんの番号教えます。その方がSさんの窓口になってますんで、Sさんの状態詳しく教えてくれると思います。」
Iさんという方の番号を教えてもらい、すぐにかけた。
IさんはSさんの最後の教え子で、Sさんのジムを受け継いでいる方だった。
「はじめまして、絶坊主といいます。」
「絶坊主さん、お名前はSさんから何十回となく聞いてます。・・もう時間がありません。なるべく早く会いに来られませんか?」
今日は金曜日。明日、明後日はどうしても抜けられない仕事があった。
「月曜日なら絶対行けます。」
「絶坊主さん・・もし、間に合わなくても僕を恨まないで下さい・・・」
Iさんのその言葉で、本当に時間がないのがわかった。
「・・・わかりました!明後日・・日曜日に行きます!」
「ありがとうございます!」
翌日・・山ちゃんが震えるような涙声じゃなく泣きながら電話してきた。
「絶坊主さん・・もう・・・もう、Sさんダメかもしれません。ボク、今日、行ってきたんですけど・・・」
ちょ、ちょっと待ってよ・・つい、この間メールでやり取りしてたのに・・・
「・・絶坊主さんが来られる明日まで持たないかもしれません。」
「・・そうか。そんなに状態が悪いんか・・・」
私が住んでいるのは岡山県。Sさんは埼玉県。私は離れている距離を恨めしく思った。
「・・でも、信じましょう!絶対、Sさん、絶坊主さんに会いたいと思うので頑張ってくれると信じましょう!」
奇跡・・・
そんなものは元々なくて、あるのは淡々とした事実、結果だけ。
そんな風に冷めた物の考え方をしていた男が本気で奇跡を願っていた。
27年・・何でもっと元気な間に、会いに行かなかったんだろう。
“人は後悔する生き物”
何度、この事を思い知れば改められるんだろう・・
テレビのニュースでは4度目の緊急事態宣言が発出される事が決まったと報じられていた。
妻と夕食中だった私は席に戻った。
「・・・悪いけど、俺、明日、埼玉行くわ。」
私と山ちゃんの電話のやり取りを聞いていたであろう妻。
「ムリムリムリ!あんたテレビ見てみ!東京に緊急事態宣言出されるんやで!感染者めちゃくちゃ増えてるんやで!」
「・・・わかってる。でも、今回だけは・・頼む、行かせて下さい!」
妻に対して自分が悪い事して土下座して謝る事は今まで何度もあった。
純粋なお願いで土下座するのは初めてじゃないだろうか?
それだけ私にとっては、自分の人生において重大な事だった。
「俺の人生に大きな影響を与えてくれた大事な人なんや!このまま、生きている間に会えなかったら俺一生後悔する思うねん!頼む!行かせて下さい!」
そう言って、再度、頭を下げた。
「・・わかったわ。そんな大事な人だったらいいよ。」
ドラマや小説だったら、こういう展開になるだろう。
でも現実は・・・
「ムリムリムリ!あんた、感染したらどうするん?仕事先にも、子供たちにも・・とにかくダメに決まってるやろ!」
「いや、それはわかってる!でも、行かな・・行かなダメなんよ!間に合わんのよ!」
「・・・・・・あんた、もし、感染したら離婚やからな。それでも行くんやな?」
「どうしても行かないとダメなんよ!俺、このままSさんと会えなかったら一生後悔する思うんよ!」
「・・感染対策、絶対ちゃんとしてよ!あんた、平気で目擦ったりするんやから!マスクかて苦しいからって、嫌がってすぐ外すんやから!2枚重ねてやってよ!ホンマにちゃんとしてよ!」
「ごちゃごちゃうるさいのー!俺の大事な人の生き死にが掛かっとるんやぞ!うるさいねん、お前!」
30代のイケイケの私だったら、売り言葉に買い言葉でこんなケンカになっていたであろう。でも、私も50歳。半世紀生きてきたせいか、だいぶ俯瞰して物事を考えられるようになってきた。
妻は自分の子供たち、家庭を守る為に一生懸命なんよな。当然の至極真っ当な物の考え方や思う。悪いのは俺って充分わかってる。
君はいつだって正しい。
それでも俺は行かなアカンのよ。ゴメンな・・・
たとえ私が感染したとしても、離婚なんかしない・・だって、お前、俺の事好きだろ?
・・・とは自信を持って言えない結婚してからの20年。
何度、君を裏切る事をしてきた事か・・・
自業自得か・・
とにかく俺は、Sさんの息がある間に会わないと、伝えないといけない事があるんだ。頼む、明日、私が行くまで生きていてくれ!
そう祈りながら眠りについた。
◇
翌朝。新幹線の始発に乗る為、朝4時に起床。
山ちゃんから電話がないという事は、大丈夫!待ってて下さい!今、行きますから!
家を出る前、まだ寝ている妻の元へ。
「ゴメンな・・でも、ありがとう。」
そう言いながら、優しく妻の頬に手を置いた。
妻は目を開けて、一言「うん。」と返事をして目を閉じた。
外はまだ真っ暗に近かった・・・
緊急事態宣言が出された日、私は関東に向かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます