2章 蟹と蜂……2〜4層攻略まで

43刀目 閑話 プロローグ・真夜中の雑談

 夜の静けさが部屋一杯に満ちている中で、ページを捲る音が響いていた。


 ゆっくりと一定の速度でぺらり、ぺらりと紙の擦れる音がする。


 暗闇も相まって、子守唄に聞こえる音に集中していると、軽快なノックが意識の中に割り込んできた。



「……明日は2階層に行くのに、起きとる悪い子は誰やねん」



 自分のことを棚に上げて、シェリアクこと、シェリーは頭を乱暴に掻き乱す。


 そのまま出たら嵐が通り過ぎたような髪を見られてしまうので、軽くくしで整えてから扉を開いた。



「お、起きてるっすね。一杯どっすか?」


「酒持って言うなら様になるんやけどな……それ、両方ともココアやん」



 部屋に訪ねてきたのは姉のベガだった。


 両手には並々に注がれたココアがあり、どうやってノックしたのか不思議である。


 部屋の中に招き入れて、机まで誘導する。シェリーはベガと向かい合うように席に座った。


 ベガからココアを受け取ったシェリーは、恐る恐る口につける。


 熱いのを想定して口につけたのに、コップの熱さの割にはココアは冷えていた。



「アイスなんかい」


「そりゃあ、梅雨の季節っすからね。温かいのはもう終わりの時期っすよ」


「言ってることは正しいねんけども……まぁ、そこは流すわ。そんで? こんな真夜中に何の用事なん?」


「ちょっとお話でもしようかなーって思いまして」



 こんな真夜中に態々手の込んだホットコップのアイスココアを用意して、何もないとは思っていなかったけれども。


 シェリーは嫌な予感がして、思わず眉をしかめた。



「シェリーちゃんは【プルチックの感情の輪】って知ってるっすか?」


「現地人の心理学者が提唱したヤツやったよな。赤、青、黄の原色を元に多種多様な色を生み出せるのとおんなじように、感情も混ぜたら色んなもんが誕生するぞーっていう理論やったと思うわ……知らんけど」


「知ってるじゃねぇっすか。それっすよ」



 プルチックの感情の輪。


 

 色と同じように、感情も基本となる感情同士が混ざり合うことにより、様々な感情が誕生すると提唱された理論の名前である。


 円錐の逆さまの図とか、カラフルな花弁の図ならば、知っているという声もあるのではないだろうか。


 色の3元色と同じように、感情にも8つの基本感情があり、それぞれ『喜び・信頼・恐れ・驚き・悲しみ・嫌悪・怒り・期待』と、心理学者ロバート・プルチックは分類したらしい。



「それで、プラスチックの輪がどうしたん?」


「輪投げ用の輪とか、カードリングの話はしてないっすからね? ……アタシが【プルチックの感情の輪】の話をした理由は察してるんでしょ?」


「ま、感情って出てきたら、権能のことやろうな」



 権能とは、意志の力。感情に左右される力でもあるのだ。


 それを態々深夜に言いにきたのだから、それなりの理由がないと困る。


 実は思わせぶりなことを言いに来ただけです、とか言われてしまえば、シェリーの拳が火を吹くだろう。



「権能っすか。じゃあ、ちょっと予想してみます?」


「何がというわけでなんかはわからんけれども……何の予想か聞いてもええかな?」


「坊ちゃんの力の源にあたる、感情の予想っすよ」



 目を細めて笑うベガに、シェリーはため息を零す。


 態々深夜に来て、夜中に話さなくてもいいことをしに来たというのか。


 シェリーは自然と半目で姉を見てしまう。



「姉さんも好きやなぁ。態々深夜にやる事ちゃうやろ」


「お昼に寝てたシェリーちゃんに合わせて、起きてる夜に来たのに辛辣! ……それで、シェリーちゃんはどう思うっすか?」


「自分の心もわからんのに、人の心なんてわからんやろ」



 姉の気持ちもわからなくもない。


 1階層の最後、蒼太が権能にも負けない力を使って討伐したアレは、星の民でも再現が困難な偉業だ。


 権能を扱う者ならば、一体どんな感情を昂らせて、燃料にしたのかと憧れたり、秘訣を探ろうとしてもおかしくはない。


 三姉妹の誰よりもダンジョン攻略に熱を向けているベガならば、その興味も人一倍強いだろう。


 しかし、相手がいないところで予想した所で、答えのない議論になるだけ。


 無駄な時間を過ごすぐらいならば、本を読む方がマシであった。



「アタシ的には怒りか、嫌悪かと思うんっすよねー。家庭環境的に十分にあり得る感情っすから」


「そうやな、まぁ、あり得る感情やな」



 理不尽な環境に怒りを覚える。


 理不尽な存在を嫌悪する。


 それ自体は納得できる話だし、ベガの想像の中ではそういうことなのかもしれない。



「で、ホンマにその話の為だけに来たん?」


「実の所、要件は権能じゃなくて蒼太ちゃんのことっす」


「……そういえば、権能のことやって一言も言ってないな」



 それはつまり、勝手に勘違いして勝手に面倒だと思っていたというわけで。


 シェリーはか細い声で「ごめんなさい」と謝ると、ベガが「いいっすよー」と笑った。



「まぁ、権能のことも関係あるんっすよ。坊ちゃん、権能持ちでも中々できない太刀筋を見せたっすよね?」


「あれはすごかったなぁ」


「でしょう? 権能モドキの疑惑がある力であっても、あんな現象を引き起こした坊ちゃんの精神がどうなってるのやら……シェリーちゃんに注視して欲しいんっすよ」


「権能が発動できてまうのは星の民的には良くても、人間的にはあんまり良くないからなぁ」




 どうして人間が権能を持てないのか?




 1つは、権能を使う粒子量が足りなくて、魂核ソウルコアを使えない、又は生成できないという根本的な理由。


 そしてもう1つは、人間の精神は複雑怪奇で、1つの感情が極端に出て来やすくなるという、おかしな現象は起きないからだ。


 人間は時に笑って時に悲しみ、時には怒り……そんな喜怒哀楽を、その時々に合わせた色を見せる存在である。


 ずっと怒りっぱなし、ずっと悲しんでる、ずっと喜びに満ちてて、ずっと期待してる。


 そこまでいくと、『情緒不安定』と呼ばれる類の人間になっているはずだ。普通のわけがない。


 星の民はそういう性質だからと折り合いをつけて生きているが、それでも引っ張られる民は多い。


 1つの感情に振り回される生き方もまた、不安定でとても面倒なのだ。



「姉様は1点しか見てねぇっすし、アタシも前を見がちなんで……そういうのが得意なシェリーちゃんにも、見ていて欲しいんっすよ」


「一応、考えてるんやな」


「まぁね。坊ちゃんという、アタシ達のような存在とは無関係だった子を巻き込む以上は、ちゃんと考えないと」


「考えるって事を4回目までに気付いて欲しかったわ……まぁ、ええで。ウチも気になることがあるしな」



 どうせ了承したところで、シェリーがすることは変わらないのだ。


 いつも通り、後ろから見守るだけ。

 ただ、それだけのである。



「あ、でも、念のために師匠が捕まったら、呼ぼうと思ってるんで。そこはよろしくっす」


「その報連相、主人にしてもろてええか?」


「……姉様、なーんかアタシ達に1つや2つほど、秘密にしてるみたいなんで。黙っておこうかなぁと」


「やられたらやり返す主従関係はあかんやろ……」


「紹介してくれたファラちゃんにも申し訳ないとは思ってるんすけどね。姉様って、信頼はできても、信用はできねぇんすよ」


「それ、姉さんが言い返されても文句言われへんからな? 似たモノ同士なのを自覚して欲しいわ」



 姉がやらかすつもりなのを聞いてしまったシェリーは、ココアを飲んでいるはずなのに、ノニジュースに入れ替わったような気持ちになった。





 ──────────



[後書き]


☆ロバート・プルチック

アメリカの心理学者。研究対象には、感情の研究、自殺と暴力の研究、および心理療法プロセスの研究が含まれていたという。

(作者は心理学部ではなく一般文系人間なので、専門な人には違和感のある説明かもしれません)

決してプラスチックという合成樹脂ではない。プラスチックの輪と調べても出てこないのである。輪投げの輪とかそんなものしか出てこなかったのだ……


☆師匠を呼ぶ

注意する妹も結局はただの傍観者。報告するつもりがないので、どっちもどっちである。

ただ、主人も主人で誤情報を意図して渡したり、大切な情報を隠しているため、こちらもどっちもどっちだろう。


☆感謝

いつもこの作品を読んでくださり、ありがとうございます。この場を借りて感謝します。

私も評価しない読み専でしたので、フォロー50を超えて「ひゃわっ」てしてるんですが、応援や☆も頂けると喜んじゃいますね。ポケモンのヨクバリスになりそうです。ダイマックスさせないようにします。


☆次回

時間軸を少し戻してお休み中のお話です。

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