幸せな王子
寄賀あける
1
教会の鐘が夕刻を告げる。西に傾いた太陽がそろそろ辺りを薄橙色に染め始める時が来たと告げている。鐘楼は高く、この国のどこからでも見えるよう、そしてその鐘の音は狭い小さなこの国の隅々にまで届くよう、考えて作られていた。
狭い小さな国 ―― 山に囲まれて攻め込みにくいという利点だけが取り柄の国、今まで存続して来たことさえ不思議なほどの国。
わたくしが生まれ、育まれ、愛してやまず、逃れることのできぬわたくしの国。この国の王のたった一人の子、一人娘であるわたくしは明日、この国の命運を背負い、あの教会で婚礼の式を挙げる。
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我が国の西にある国は大国となった。西のみ開かれた我が国にとって実質的な隣国はその国だけだ。『大国』である隣国を通らねば我が国に攻め入ることはできない。
我が国は隣国に守られていた。遠き昔に交わした約束を隣国は忘れず、我が国に攻め入ることはなかった。それどころか天災や飢饉の折には手を差し伸べ我が国を救ってくれた。
遠い昔の約束 ―― それは、隣国が窮地に陥ったとき我が国が国運を掛けて助けた、その恩を忘れないというものだった。
大河が流れる隣国の地は肥沃で、豊かな恵みは国を潤した。財を蓄え、軍備を整え、国土を広げ、そしてまた財を蓄え……隣国は揺るぎない大国であった。それに引き換え我が国は、隣国に守られ助けられる反面、国土を広げるにはその隣国を攻めるほかに術がない。
隣国に攻め込むことなど心情的にも国力の面でもかなわず、言わば隣国に阻まれ、限られた狭い地の僅かな収穫で
そして隣国は我が国にとっていつしか脅威となっていった。遠い日の約束……反故にしないとの保証はどこにもない。そして我が国を攻め滅ぼせるのは隣国、ただ一国のみである。
気が付くと窓の外に猫がいる。どこをどうやってここに来たものか。そっと窓を開けてやるとスルっと部屋に入ってきた。時を告げる鐘の音はとうに終わって、喧騒がこの窓にも届いている。わたくしの居室の窓からは教会の出入りは見えないが明日の準備のため、ひっきりなしの出入りがあるはずだ。
明日の準備、父は財力に物を言わせて ―― 大した財もないのだけれど ―― 式を華々しいものにするよう躍起になっている。街の人々も呼応してお祭りを待つかのように心躍らせている。わたくし一人がまるでお葬式の喪主のような顔で窓辺に佇み、夕日を眺め、見知らぬ猫を部屋に招き入れていた。
部屋に入ると猫はわたくしの様子を窺っているようである。
「どこからきたの?」
問うたところで猫が答えるはずもない。わたくしの顔をじっと見つめるような素振りをしただけである。そして当然とばかり擦り寄ると、腰かけたわたくしの膝に乗ってきた。猫とはそんなものなのだろう。恐る恐るその背を撫でても嫌がらず
陽は留まることを知らず、刻一刻と辺りは燃えるような色へと移って行く。わたくしの結婚も否応ことなく近づいていく。
一筋の涙が膝でわたくしを見つめる猫に落ちた。
「あら、ごめんなさい」
落ちた涙をぬぐってやると猫はわたくしを見上げ不思議そうな顔でじっと見つめてくる。なぜ泣くと問うているようだ。
「嫌なわけではないの……」
猫になら本心を漏らしてもよいと、誰かの許しを得たような気がした。
「嫌なわけではないの……ただ ―― ただ、そうね、不安なのだわ。怖いのだわ。この先、どんなことがあるのかが。でもこの国から離れなくてよいことには安心しているの」
あの教会も、この夕暮れも、かすかに届く人々の営みの音も、いつもと何ら変わらない ―― 笑い声、叱る声、幼子が母を呼ぶ声、時には夫婦喧嘩と察せられる声、気持ち良さ気に唄う声、あの声の主はきっと酔っ払い。雄鶏が時を告げ、荷馬車はガタガタ揺れて行く。
どこかで何かに怯えた犬が吠えたてる。食器の割れる無駄に派手な音、あの音はもっと静かなら叱られる給仕も減るのにといつも思うわ ―― この窓辺に届くすべての事柄、そして王宮の庭。
この窓辺を時折のぞき込む小鳥たちは王宮の庭に住んでいるのだろうか。庭を歩くと語り掛けるようにさえずっている。木漏れ日はキラキラと輝き、雨音はひっそりと通り過ぎる。時には嵐も来るが、その時は堅牢な城が守ってくれる。それらすべてに囲まれて、その中でわたくしは生きてきた。
「それにしても、わたくしの住む世界は狭いものだったのね。この部屋とこの城とそのお庭と」
ここで生き、ここで生涯を終える。この婚礼はそんな約束でもある。
いや、あるいはお相手の国に行くこともあるのかしら。その時は人質なのね。そう言えばいつか故郷に連れて行ってくれると約束してくれたのは誰だったかしら。
ふと遠い昔を思い出した。あれは母様が
「泣くと禿げるぞ」
と言った同じ年頃の男の子、禿げたりしないと怒ったら、
「禿げたりしないが母御が泣くぞ」
と笑った。お見送りしなくちゃね、母御は何が好きだった? 歌か、ならばその歌を唄ってやるといい。
歌は不思議と心を落ち着かせてくれた。在りし日の母がわたくしを通して唄っているかのように感じた。母はわたくしの中に今も生きている ――
男の子は傍らでじっと聞いていてくれた。そして……
(もう一人、男の子がいたっけ)
茂みの間から
頭を撫でてくれた男の子は、逃げた子がごみ箱を運ぶ仕事をしていたと察すると、あんな子供が働いているのかと怒りだした。だけど、わたくしがごみ置き場に運ぼうとしたら、やっぱり怒りながら代わりに運んでくれた。
「自分が王なら子供を働かせない」
そう自信満々に言うから
「そんな国なら行ってみたいわ。そんな国にこの国をしたいわ」
と笑って答えた。
運び終わると泥だらけで、男の子はさらに怒っていた。お守り役に叱られると、怒ったのではなく「嘆いていた」が正しいか。それから手を洗うと泉水の水を懐から出した杯で飲んでいた。
「銀の杯だよ――毒が入っていれば変色するらしい。父上が国を出るとき寄越したのだ、くれぐれも気を付けろと」
「誰があなたに毒を盛るの?」
わたくしの問いに
「それもそうだね」
とにっこり笑った。
「あれ……さっきのあの子、あそこにいるよ。倒れてる。この杯で水を飲ませてやるといい。毒を盛られるはずもないからこの杯はもういらない。あげるよ」
頭を撫でてくれた子は杯を泉水のわきに置くと、後ろ手を振って行ってしまった。客間に戻って大急ぎで着替えるのだろう。晩餐にあの格好で出るわけにはいかない。他にも何か話したけれど何を話したものか記憶にない。
倒れていた男の子はすぐに気を取り戻し、よっぽど喉が渇いていたのかガブガブと水を飲んだ。返そうとする杯をそのままに、杯をくれた子の真似をして後ろ手を振ってその場を離れた。ごみを運んでいたのはきっと調理長の弟子だ。いまも王宮に仕えているのだろうか。
母の葬儀の日、遠い昔。こんなこと思い出したこともなかった。ごみ運びの男の子はあの杯をまだ持っているだろうか。もう売って金に変えてしまったろうか。そして頭を撫でてくれた男の子はどこの子だったのだろう。
猫が一つ瞬いて目を逸らした。小さな伸びをすると開いたままになっている窓へと飛び移り、振り返って前足を少し上げ、また私を見るとニヤリとした ―― ように見えた。
(笑った?)
見定める間もなく猫はさっと身をひるがえし、窓の外へと消えていく。あっ、と思って窓際で見降ろしても、もう猫はいなかった。
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