128話ニヴンの兄弟

 自分は特別な存在なのだと、幼い頃から理解していた。


 周りの子供達が空を舞う虫を必死に追いかけまわす中、自分は軽く手を伸ばすだけで、それを手の中に収める事が出来た。

 どうしてこんな簡単な事に、あんなに必死になるのか理解が出来なかった。

 手に力を込めればそれがあっけなく活動をやめる事にも、特に何も感じなかった。

 それを見ていた周りの子供達が騒ぎ立てる様も、やはり理解出来なかった。


 物心が付く前は、人並みに親の愛情を欲しがっていた筈だが、かなり早い段階でそんな感情は欠片も無く消えていた。

 彼の母親が亡くなったと聞いた時、その事には父親と呼ばれる存在が関わっている事も、朧げながらに理解していた。


 父という存在は、愛情を求める相手でも、庇護を求める存在でも無い。

 逆にそれが自分に求める物は、「使い勝手が良いのかどうか」それだけだと言う事を、彼は随分早い時期から理解した。


 だが、それで父を特に恐れる訳でも無い。

 この男が求める物は分かり易かった。此方は常に其れを提示してやれば良いだけの、実に扱い易い存在でしか無かった。

 一度酷くステッキで打ち据えられた事があったが、特にそれでこの男に関する評価がどうこう変化する訳でも無く、只そう言う物だと感じていただけだ。それの本性が醜悪な物だという事は、とうの昔に理解していたのだから。


 彼にとって世界は容易く平坦で、実に退屈な物だった。

 だがある時、小さな羽虫の翅や足を捥いで解体する時に見せる反応が、自分に僅かな感情の動きを与える事に気が付いた。

 それが『悦び』や『愉楽』なのだと自覚するのに、それほど時間は掛からなかった。


 その愉しみに耽る時が、唯一世界に彩りを感じる事ができた。

 その対象が少しずつ大きくなっていく事は、彼にとってはごく自然な成り行きだったのだろう。


 それでも世界が退屈な事に変わりはなかった。


 歯向かう物に対しては、持てる力を以って踏み潰すべきと声を上げる自身の中で燻ぶる衝動は、父親から譲り受けた物なのだろう。

 年の離れた弟にもその性質は見られた。

 だが自身はこの肉親2人とは違い、その衝動が下らないモノだと認識している。

 その衝動を抑える事も容易に出来る。


 衝動に身を任せがちな2人のソレを目の当たりにする度に、その精神性の未熟さを感じさせてくれた。

 特に弟のソレは、まさに幼児の癇癪と変わらない。成長の無い低劣な人間である証だといつも見ていた。


 彼らを見ていれば、人間の本質がいかに愚かで醜悪なモノなのかを、余す事無く教えてくれる。


 中途半端に知性がある分、人間というものは実に救い難い存在だ。

 自身の目先でしか物を図れぬ狭量さ。

 己の良識がこの世の全てと考える傲慢さ。

 自らの矮小さを理解出来ぬその在り方には、呆れを通り越すばかりだ。


 こんな淺ましい存在と自分が同族だという事実が、到底許せぬ話だった。



 その社会の窮屈さに、絶望の様な物を感じていたのもこの頃だ。

 世界になんの魅力も感じられず、只虚しさだけが己の身を包んでいた。


 時折り戯れに人を、組織を、羽虫を甚振る様に潰してみるのは、単なる退屈凌ぎの時間潰しでしか無かった。

 彼にとって、世界はやはり相変わらず彩りの無く平坦な物だったのだ。



 だがある時、彼の世界が一変した。

 出会った瞬間、その圧倒的な存在感に魂を奪われた。

 生まれて初めて目の当たりにする、その美しさと在り方に、我知らず跪き頬を涙が濡らす。

 その時、自分が何処までも矮小な存在なのだと思い知ったのだ。

 生きている事さえ恥ずべき奴等と同等なのだと理解した。


 しかし、この方の前で跪く事で感じる多幸感。

 この方と巡り合わせてくれた神々の導きに、彼は生まれて初めて感謝をした。


 いや!この方こそ神々の御使だ。自分はこの方に見出されたのだ!

 この方と出会う為に自分は生まれて来た!

 そう確信した時、その相手に自らの魂を捧げる事に何ら躊躇いを覚えなかった。


 そしてつい先日、遂にステージを登る事を許された。

 今迄は、その尊いお力をほんの僅かに授けて頂くに留まっていた。

 それでも歓びに堪えないものだったが、遂にその先を許されたのだ。


 あの屍肉喰いは、この身より何年も先に人の壁を超えた事で、生意気にも自分に対して優越感を持っていた様だった。

 だがあの方の寵愛が此方に大きく傾いている事に気付くと、不必要に対抗意識を大きくしていた。

 所詮は、己が下賎な出自だと示すだけの愚かしい話だ。


 しかし今、ついに自分は人間の領域の先の存在となった。

 この喜びと感謝は、到底言葉では表し尽くせない。

 この身全てを捧げ尽くすと、自身の行動を以って示して行く誓いを立てた。



 だが、授かったこの身を傷付けた小虫を、このままにはしておく訳には行かない。

 居る場所は分かっている。

 今から向かい、その身に相応の報いを与えてやる事が、あの方への最初の忠義の証しとなるだろう。



     ◇◇◇◇◇





「何かやべぇ感じがする……。ルウリィ、急ぐぞ」

「なによ! アタシをこんな所で走らせないでよ! それに、エマもゾーイも居ないじゃない!」


 レイリー・ニヴンが右手に抜いたロングソードを持ったまま、左手でルゥリィ・ディートの手を掴み、森の中に開かれた道をキャンプ事務所がある場所へ向かい走っていた。


 今夜、キャンプ中に避難訓練があるかもしれない……とウッドリーとベンがそんな話を持って来ていた。

 その事は、一応各班長には伝わっているので、おそらく間違いなく実施される。

 何時に行われるかは分からないが、その時の行動は個人の点数に加算されるので、準備はしておいた方が良い。と言った物だ。


 その話を聞いた時、純粋に「下らない」と思っていた。

 それでもココは伝統を誇る学園だ。規律を重んじるのは当然だろう。

 同時に、これ以上家名に泥を塗るわけには行かないと言う考えも抱いた。

 つい先日まで、父の犯した罪で自身も謹慎状態だったのだ。


 父が犯したのは国家反逆罪だと聞いた。正直、その後どうなるか分からない。

 父は恐らく極刑は間逃れない。一族全てが処分されてもおかしく無い罪だ。

 だがニヴン家は、ローレンスヴァンを切り捨てる事で事なきを得た。


 その後、「跡を継ぐのはお前だ」と母方の伯父言われた。

 一人前になるまでは伯父達が補佐をすると言ってもらえた。

 病弱な母を救う為にも、自分に選択肢はなかった。

 だが、それ以上に有り難かった。


 訳が分からぬまま、自分達にも重い刑罰が降るのかもと、ずっと一人で恐れを抱き震えていたのだ。

 だがそれがこの様な温情を貰えた事に……、伯父達がその為に走り回ってくれた事に涙を流して感謝した。



「招集の合図が来た時、エマが慌てて足首を捻ったそうだ。ウッドリーとベンがエマを医療テントまで連れて行っている。ゾーイはその付き添いだ」

「チッ! なによこんな時に! ……使えないヤツ!」

「オレ達も急ぐぞ。他の連中から随分遅れてる」

「なによ! アタシのせいだって言いたいの?!」

「そんな事は言ってねぇ。イイから行くぞ」

「待ってよ! 置いていかないで! ちゃんと走るから待って!」


 ルゥリィ・ディートの口からは、相変わらず悪態が漏れ出ているが、その手はレイリーの手を決して離さぬようにと力が込められ、その目はやはりレイリーから離す事はない。

 2人は黙って手を繋ぎ、篝火の炊かれた林道を急ぎ足で進んで行く。


 その彼等の上を、不意に影が覆った。

 今夜は月が雲に隠され、月明かりの届かぬ夜だ。

 森の奥には結界装置の蒼白い魔力の灯りが見えるが、ここで光源になっているのは、道を照らすために所々に置かれた篝火だけだ。

 上から影が落ちるという異常さに、2人の足が思わず止まる。


「まだこんな所に居たのですね。少し驚きました」


 突然響いた底冷えのする声に、レイリーは思わず目を見開いた。


「あ! 兄上?! 兄上……なのか? なぜ……ここに?」


 レイリーが驚きの声を上げる。

 突然暗がりから聞こえた声は、聞き間違いようのない良く知る兄の、……自分達を窮地に追いやった相手の声だった。


「しかし、考え様によっては好都合ですか」


 暗がりから現れた顔は、やはりレイリーの見知った兄の顔だ。


「ちょうど良い。此処で綺麗に片付けてしまいましょうか」


 だがその眼は炭火のように赤い光を放ち、レイリーを見る表情はとても肉親を見る物では無い。

 それは只々冷たく、感情の欠片も無い。


「なぜ……なぜだ兄上! なぜあんな事を?!」

「あんな事?」

「ち、父上を傷付けたと聞いてる! 他国の兵力を密かに引き込んだとも! そんな……そんな国に対する裏切りを!!」

「くくくく、何を言い出すのかと思えば……下らない」

「く、くだらない?」

「アナトリス騎士の国越えは、確かに段取りこそ私がしましたが、求めて引き入れたのはあの男の邪心。しかし、その力をろくに役立てる事も出来なかった。あの男の無能ぶりの表す所です。尤も、端からそんな人の兵力など、私にとってはどうでも良い事なのですがね」


「お、俺は……俺は! 兄上をずっと……ずっと目標にしていたんだ! それを……それなのに……!!」


 レイリーにとって、誰もが認める優秀な兄は、幼い頃から憧れであり目標だった。

 その目標も成長するにつれ、自分には決して届かぬ物なのだと思い知るようになる。

 その己の不甲斐なさに、周りに当たり散らす事も少なくなかった。


 それでも、ヴァンから時折かけられる言葉に一喜一憂もする。

 兄が手の届かない所に居ると理解しても尚、その想いは変わらなかったのだ。


 いつか、兄に認められたい。

 いつか、兄の手助けが出来る人間になりたい。


 それが昔から変わらず彼が胸に抱いていた思いだ。


「それこそが身の丈を理解していない証です。お前如きが手を伸ばそうと考える事こそが烏滸がましい」

「そ……そんな…………」


「ヴァン様! それは余りにもヒドイです! レイリーは貴方を目標にずっとずっと頑張っていました! 手が届かない事が分かっていても……それでも!!」

「だからどうだと言うのです? そんな意味の無い努力をしたからと言って、一体何になると言うのですか? 端から無駄なのですよ。只の時間の浪費です。剰えそれを私に認めろと? 私の時間までも無駄にさせるおつもりですか?」

「……あに……うえ?」

「な?! なにを? ……なにを言うの?!」


 ヴァンの言葉にレイリーは身体の力が抜け落ち、その場に膝をつきそうになる。

 ルゥリィはその身体に腕を回し、力の入らぬレイリー身を支えながら思わず声を上げていた。

 しかしヴァンの口から続けて出る言葉に、ルゥリィは信じられぬと目を見開く。


「段取りを仕立ててやったにも関わらず、碌に成果を上げられないお前達も、やはり等しく無能です」

「い、一体何の事を仰っているのですか……」

「カレンですよ。態々彼女の意思を抑えて、貴方達の意識もカレンの心を挫く様にと方向付けたのに……」

「な、なにを…………」

「結局、カレンの心は折れ切れる事は無かった。元の心根の在り方の差なのでしょうね。彼女の意思の強さと、貴方達の貧相な性根の違いです。実に情け無い」


「アタシ達の精神に……、何かを……して……いた? …………ぅぶっ!」


 ルゥリィは、突然喉元に込み上げて来る悪心に口元を押さえた。


 確かにカレンは気に入らない相手だった。その理由も分かっている。

 自分が抑えの効かない性格なのも理解していた。

 直ぐにカッとなって頭に血が昇るのは、人に言われるまでも無く自分でも良く分かっている事だ。


 だがカレンに対する感情は、普段よりもなおさら抑えが効かなくなる。

 カレンに向かうと込み上げて来るあのどす黒い憤りは、他では感じる事の無いものだった。

 それは簡単に膨れ上がり、自分の目の前を真っ赤にさせる。

 自分が自分で無くなって行く様な感覚。だがそれを不思議とも思わなかった。


 だが、あれが外から捻じ込まれた物だと言うのか?

 自分の心が何かに浸食されているという考えに、ルウリィ・ディートは吐き気を覚えずにはいられなかった。


「家の力を笠に着る事しか出来ず、知性に乏しく碌に胆力も無い。お前達は只の甘えた痴れ者です」


 顔を青褪めさせるルゥリィに向け、ヴァンは冷たく言葉を落とす。


「お前たちが未だ存在しているという事実は、私の価値を悪戯に下げるに等しい」


 ヴァンが手を上げ、軽く指を弾いて乾いた音を響かせる。

 その音が響くと共に、ヴァンの背後の暗がりから複数の気配が動き出した事に、レイリーとルゥリィはまだ気が付かない。


「惨めに引き裂かれてここで終わりを迎えなさい」


「アナタの弟ですよ?! アナタに……ただ、兄に憧れていた弟なだけじゃないですか?! それを! それなのに!!」


 ヴァンの冷酷な言葉に、ルゥリィはレイリーの身体に手を回したまま悲痛な声を上げていた。

 その身体を守ろうとするように、腕には知らずに力が籠る。


「昔から縋り纏わりつくその手が、実に煩わしかったですよ」


 冷え切った眼差しでヴァンがそう言葉を発した直後、彼の後の陰から何かが2人に向かって飛び掛かって来た。


 その姿が篝火に照らし出され、初めてルゥリィの眼にその凶悪な姿が映り込む。

 赤い目をした四足の獣。

 唸りを上げる口の中には、乱雑に鋭い牙が並ぶ。


 ルゥリィは一瞬、何が起きているのかも分からず、ただ驚きに目を見開いた。

 だが直ぐにそれが自分達に対して害意を持って牙を向けている事を悟り、回した腕に力が籠められ、反射的に目を固く閉じた。


 獣の唸りが耳元迄迫るのが分かる。

 その凶悪な牙がこの身に喰い込むと覚悟し、さらに身を固くした時。


 その耳に入って来たのは、獣が上げる悲鳴のような甲高い声だった。


 何事が起きたのか? とルゥリィは思わずゆっくりと目を開くと、その眼に映ったものは、飛び掛かる姿勢のまま中空で縫い止められた数頭の山犬達だ。

 山犬の魔獣「テラードッグ」達は、地面から生えた複数の棘に貫かれ、その場で串刺しになり、口から目から、至る所から出血し絶命していた。


「ひっ?!」


 思わずその凄惨な光景に、ルゥリィの口から悲鳴が上がる。


「むっ?!」


 ヴァンが己の右手の爪を一瞬で短剣のように伸ばし、自らの後の暗がりを斬るように、その腕を勢い良く振り切った。

 直後、鋭い金属音が辺りに響き、火花が散る。


「これほど夜目が効くとは知りませんでしたよ。やはり犬猫並みですね」


 火花で闇に浮かび上がるのは、ツーハンドソードの巨大な刃。

 ヴァンの短剣のような爪に止められているものの、力負けせずガリガリと音を立てながら鍔迫り合う。


「いい加減、ココらでけりを付けようぜ」


 獰猛な笑みを浮かべ、アーヴィン・ハッガードが挑む様に言い放つ。

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