プロローグ・2 楽園の扉

「――イト」


 すぐ近くから声が聞こえる。


 仰向けに倒れた状態で、目を開ける。吸い込まれそうなほど青い空が広がっている――そして、俺が寝ている場所はただの地面や床ではなく、磨き上げられた鏡のように空を映し出している。


 ここにいるだけで不安になりそうな風景だが、動揺することがないのは、俺が死んだからなのだろうか。


「マイト。あなたがたが命を落としたあとに向かう場所は、ここではありませんよ」


 丁寧ながらからかうようにも聞こえる口調で、彼女はそう言った。


 仲間たちの姿は見えない。この果てしなく広く思える場所に、俺と彼女だけがいる。


 白く長い髪に、金色の眼。俺が今まで見てきたどの種族ともその特徴は異なっていた。


 その装いは、神々しくさえある――白い貫頭衣に装飾具を身に着けているだけだが、見るだけで感情が波立つのが分かり、直視できない。


「私たち女神は、見るものが理想とする姿に見えるものです」

「……女神……楽園の扉の向こうにいるっていう神が、ここにいるってことは……」


 彼女は口元を隠すようにして笑うと、俺に近づいてくる。差し出してきた右手を握ると、身体を引き起こされた。


 その手は温かくも冷たくもない。だが、自分が死んだのかという疑念が薄れるくらいには、握られた感覚がはっきりしていた。


「世界の果てには、かつて楽園の扉があった。その向こうには神の国がある……というお話を、聞いたことはありませんか?」

「……それは、おとぎ話じゃないのか? 世界の果てには魔竜がいるとしか聞いてないが」

「楽園の扉に至る道を閉ざしていた魔竜を倒したことで、神の国はあなたたちに接触を図ったのです」


 女神を自称するその人物は、両手を合わせるようにして話す――その姿は、旅の途中で見た神像の一つに似ている。


「魔竜は死の呪いを遺し、あなたはそれを受けました。本当なら魂を神の国に連れて行くところですが、今回は猶予を与えさせていただきました」

「猶予……?」

「他の三人の『面談』はすでに終えています。あなたの蘇生を希望していましたが、それについてはあなた自身と話すことで結論を出すことにしました」


 女神は俺を蘇生させることができる――そう言っているように聞こえる。


 覚悟して『死の呪い』を受けたのだから、このまま死ぬのが道理だ。都合のいい話に飛びつくことはできない。


「あなたたちが魔竜を倒したことで、私たちは下界に干渉できるようになりました。そのお礼ということになるでしょうか……何か一つ、願いを叶えて差し上げます」

「願いって……そんなことが、本当に……」

「はい。まず最初に、感謝をお伝えするべきでしたね。魔竜レティシアを倒した英雄に、神々より惜しみなき賛辞を」


 彼女は俺の前で片膝を突き、頭を下げる――言葉だけでなく態度でまで示されれば、信じないわけにもいかなくなる。


「頭なんて下げないでくれ、俺はただの『盗賊』だ」

「『盗む』という行為は、必ずしも悪事であるとは限りません。それとも、別の職業を希望していたのですか?」

「……同じ『盗賊』でも、魔力を一切持ってないっていうのは俺くらいだ。魔力を持たないなんて、この世界じゃ不能って言われてるようなもんだからな」

「それでもあなたは一つの職業を極め、困難なことを成し遂げました」


 自分には欠陥があると、ずっとそう思ってきた。このパーティに必要なのは本当に俺なんだろうかと、常に迷いがあった。


 魔力を持ち、魔法を習得している仲間たち。俺も魔法が使えたら、より連携が上手く行っていたかもしれない。


 しかし、与えられた職業は変えられない。どんな生命も職業から切り離すことができない、それがこの世界だ。


 ――だが、もし。


 本当に目の前にいる彼女が女神なら。絶対に叶わないと思っていた願いを、神の力で叶えられるのなら。


「……笑わないで聞いてくれるか」

「はい。どのようなことでも仰ってください」


 喉がひりつくほどに乾いていた。仲間たちにも、一度も言ったことのない、冗談にしても笑えないような願望。


「俺は、魔法が使えるようになりたい。『賢者』になりたいんだ」


 魔力を持たない『盗賊』が、よりによって魔法職の頂点とされる『賢者』を望む。


 そんな子供のうちしか許されないような大それたことを言ったら、恥ずかしい奴だと思われてしまうだろう。


 女神の表情は変わらなかった。笑わずに聞いてくれている――と思ったが、彼女は顔を伏せてしまう。


「やっぱり笑うよな……無理もない、変な予防線を引いた俺が悪かった。そんな願い、叶うわけ……」

「いえ、叶えられます。与えられた職業を変えることは、女神に許された権限の一つですから」

「っ……!!」


 思わず声を上げそうになる。職業を変える、あるいは魔法を使えるようになる――それはずっと、無いものねだりだと自分に言い聞かせていた。


 しかし女神は腕を組み、少し難しい顔で、たしなめるように言葉を続ける。


「職業を変えるということは、レベルが1に戻るということです。『レベル99の盗賊』である現在とは大きく勝手が変わってきますが……」

「レベル1……ってことは、相応のレベル帯の地域にしか入れなくなるってことか」

「はい。それでもいいのですか? 仲間ともすぐに会うことはできなくなりますよ」


 魔竜を倒すために協力する、その目的のために俺たちはパーティを組んだ。


 三人とも、魔竜を倒した後に故郷でするべきことがあると言っていた――また会えるかは分からない、それは元から思っていたことだ。


「そして『賢者』と言っても、あなたの生来持つ才能に合わせた魔法を使うことになります。広く知られている攻撃魔法、回復魔法を覚えるとは限りません」

「そう……なのか? だけど、俺に向いてる魔法ってのはあるんだな」

「職業を変えた事例が珍しいため、確かなことは申し上げられませんが……想像と違ったことになっても、また職業を変更することは難しいと考えてください」


 本当は勧めない、というのが暗に伝わってくる。それはそうだろう、レベルが1に戻っても良いなんて言える奴は探してもそうはいない。


 しかし簡単にはいかないだろうが、レベルはまた上げればいい。『盗賊』で積んだ経験を活かし、レベル1でも入れる地域――俺の故郷である歓楽都市なら、日々を生きるには困らないはずだ。


「決意は固いようですね……マイト」

「ここで冒険は終わりだと思ってたが、まだ続けられて、なりたかった職にもなれるんだ。苦労するかもしれないが、後悔はしない」

「分かりました。では、この扉をくぐってください」


 女神がそう言って指し示した先に、忽然と扉が存在していた。それまでは無かったはずのものが、一瞬で現れている。


「この扉を通ってまっすぐ歩き続けてください。あなたの職業は変化して、懐かしい場所の近くに出るでしょう」

「本当か? それで職業を変えられるのか……」

「もし心配でしたら、送っていきましょうか?」

「ありがたいけど、止めておくよ。俺は自分が死ぬものだと思ってたんだから、もし騙されてもそれはそれで構わない。そういう運命だったんだ」


 彼女は何も答えず、ただ頷くだけだった。


 扉に近づき、開ける。蝶番を軋ませて開いた先から、光が溢れる。しかし不思議と眩しいとは感じない。


「迷わずに歩き続けてください。あなたに――の加護があらんことを」


 背中にかけられた声は穏やかだった。迷うなと言われたとおりに、俺は振り返らずに歩き続ける――ただ、前へ前へと。


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