最終幕

□□□

 不思議な夢を見たのは久しぶりだった。

 白鯱が次々と海面から顔を覗かせ、飛び上がっていく。見上げる程の高さまで、何十体と空一面に舞う白鯱は、体を崩しながら弧を描き頭上を回り続けている。その光景を海上のテトラポットに座り眺めていた。夢現の意識の状態で懐かしさを覚えた。幾度か見たこの夢の世界に入ったのは久しぶりの事。

 幻想的に広がる空一面を見て息を飲んでいる私は、ふと隣に気配を感じて視線を隣に移した所で世界が暗転する。そうなるかと思っていたが夢は続いた。

 ゆっくりと視線を上げていくと、その顔は隼人だった。隼人は隣に座る私の顔を見て、一瞬目を大きくして驚いた表情を見せると、直ぐに柔和な笑顔を私に見せた。すると何か口許を動かして私に話しかけている。しかし、その言葉を私は聞き取る事が出来なかった。私がその事を伝えようとした時、突如世界が暗転して私は目を覚ました。

 あの時と違って目を覚ましたという表現は、今の私に寄り添った表現ではなかった。

 久しぶりに見たあの夢は、突如として訪れた。あの夢の中で隣に座っていたのは、やはり隼人だった。隼人だと確証を抱いてはいなかったものの、何となく隣に座る人物は隼人だと思っていた。それは隼人も同じ夢を見たと知った時から。あの夢の中の隼人は一体、何を私に語りかけていたのだろう。確かめる術の無い事に苛立ちを覚えた。

 久しぶりに隼人の顔を見る事が出来た。実際に見る事が出来ない今の私にとって、それはとても喜ばしい事。薄れていく記憶の中、夢で見た隼人の顔は私が知る直近の隼人の顔だった。


 ただ今の私にとってそれは、とても複雑な心境に陥るきっかけに過ぎなかった。季節が秋口から冬に変わり始めたばかり。隼人や結衣達と別れてから、三ヶ月が経とうとしていた。

 あれから私は、盲導犬と歩行訓練を始めていた。白杖だけでは物理的な歩行の支えになったとしても、一歩外出した時の精神的な支えが変わって来る。ただ盲導犬との日々の食事代や、身の回りの世話などのコストは否めないが、母の優子は家族が増える事を嬉しく思い、心配性の兄の聡は私が受け入れると話すと安心した様子を見せた。

 最初は外出する事がすごく怖かった。白杖を利用しながら優子に付き添ってもらい、近所を散歩した事がある。頭の中で把握している道路や店、標識や横断歩道。全てが耳と白杖が当たる音だけを頼りに歩くも足が竦んだ。

 それだけではなかった。物理的な怖さよりも私が最も心痛めたのは、周囲の目に晒される事だった。私を知る近隣住民達は、私の変わり様に親切心と情けと励ましの言葉を耳で受け取るも、その表情までは見る事が出来ない。当り障りない返答を私がした時、どんな表情で受け止めたのだろう。そして優子や聡はどんな視線を浴びたのだろう。憐れみと同情が入り混じった視線を向けられ、居たたまれない気持ちになったのではないだろうかと不安が募っていった。私の気持ちを察知したように、聡からの盲導犬の提案だった。実際に私にとっては何かきっかけが欲しい所だった。外出の度に優子や聡が付き添うには負担を要する。

 聡が千葉市中央区の盲導犬協会に問合せをすると、後日三人で盲導犬を連れての体験歩行会と説明会に参加した。普段使用する白杖をハーネスに持ち替えて実際に歩いてみると、宙に浮いているような浮遊感を覚えた。足を進める速さも、以前体感した速さで懐かしさを感じる。風を切って歩く小気味良い気持ち良さを味わう事が出来た。笑みを零しながら歩く私を見て、二人は盲導犬を飼う事を決心したようだった。


 申し込みを済ませ、幾度かの盲導犬訓練士とパートナーとなる盲導犬で歩行やブラッシング、給仕や排泄の仕方など共同訓練を始めている最中の事だった。

 私の中で当たり前が変わり始めようとしていた。見えなくなる前の常識が、もはや常識ではなくなり、新たな常識を築き上げようとしている。訓練が終わり、健常者とさほど変わらない生活が出来るようになる事が当面の目標だった。理想を言えば、二人が仕事から帰宅して家の家事等諸々が出来るようになり二人の負担を減らす事。二人が私に気を払う事が少なくする事だった。

 人間は環境に慣れる生き物だとつくづく思う。戸惑いを繰り返し、密かに症状に狼狽える日々もあった。不安で眠れない時は、隼人と過ごした時間を録音した携帯で聞く夜もあった。特段隼人を忘れようとした訳ではない。結衣に渡した日記に込めた想いを、隼人がどう受け取ったか気にはなっていた。

 月日は無情にも過ぎていき、目の前の現実と苦闘する日々を過ごす事になれば過去に気を払う機会は減っていく。そんな日々を過ごせば、心の拠り所を求める暇もなく、かつて決意したように自身が強くなっていかなければならないと無意識に鼓舞する機会が多くなっていった。

 過去の思い出が色褪せていく。

 かつてそう考え、それに怯えた為に隼人と過ごした思い出を録音して残していたのに。鯱のキーホルダーも、すっかり手にしなくなっていった。


 今の環境と現実が私を強くしていった。忘れたい訳ではない。忘れる事などありはしない。ただ隼人の事を想うと、自分が弱くなってしまう不安に駆られてしまう。

 こんな事は予想しなかった。想像していた以上に、現実は苦しく私を強くした。今ここで隼人に頼り泣き寝入りしたら、今の状態に戻ってくる事など出来やしない。今まで散々、優子と聡に苦労と心配をかけてきた。甘えてもきた。だから私は強くならなければならない。なるべきだと今まで頑張ってきた。

 あんな夢、見たくなかった。

 それが素直な気持ち。どうして今まで見る事がなかったのに、突然見るようになったのだろう。頭を振って隼人の映像を脳内から振り払う。その時、足音が近づいてきた。この足音は優子だと推測した。

「架純、起きた? なんだ、起きているじゃん。おはよう」やっぱり優子だった。明るく元気な声が耳心地良かった。

「おはよう……ってどうしたの? そんなに慌てて」優子の話し方から息巻いた様子を感じた。

「どうしたの? じゃないわよ。いつまで寝ているの? もう十時過ぎているわよ。ほら、早くどいて。お天気良いから布団干さなきゃ」

 私が目を患っても変わらない態度に幾度も救われた。視力を失っても変わらない日常の雰囲気が感じ取れる。

「……あっ、そうだ。今日は天気良いから、公園でお昼食べない? 聡と一緒にお弁当作って食べよう?」優子に支えられながらベッドから降りる。

「お兄ちゃん、仕事休みなの?」今日は平日の水曜日。土日休みの聡が仕事を休んでいる事に違和感を覚えた。

「あれ、言ってなかった? 先週土曜日出勤したから、今日は代休だって」

「……そうなんだ」優子がシフトで今日が休みなのは知っていた。

「聡にはさっき言ったの。そうしたら、張り切ってお弁当作るって言っていたわよ?」

「お母さん作ってよ? また変なのを作られてたら嫌だよ?」

「うふふ……大丈夫。お兄ちゃん、頑張って料理覚えているの、架純だって知っているでしょ? ほら、リビング行って、ちょっと待っていて」優子の帰りが遅い時は聡が前日から夕飯を作ってくれているのは知っていた。


「それで、お兄ちゃんはどこ?」

「二階じゃない? 直ぐに降りてくるわよ」

 壁に手を当てながら、壁伝いにリビングへと向かう。ソファーやテーブルの位置の把握はお手の物だった。ソファーに腰を下ろしていると「架純? 架純?」と階段を慌しく降りてくる音と一緒に聡の声が聞こえてきた。

「お兄ちゃん? ここ、ここ」声がする方向に手を振り、聡に自身の居場所を伝えた。すると足音が近づいてくるのが解った。

「なぁ、母さんから聞いたか? 昼、何食べたい? 架純の好きなもの、作ってやるぞ」

「いいよ、そんなに頑張らなくて。大丈夫」やんわりと拒否したのにも関わらず、聡は「そんなに気を遣うなって……じゃあ、架純の好きな卵焼きと肉そぼろ、作ってやる」と声が聞こえた後にキッチンから調理器具を取り出す音が聞こえてきた。

 優子が庭の物干し竿に洗濯物を干している様子が聞こえてくる。この平穏な生活音に耳を澄ますと、心は穏やかになっていった。一変した常識の中で変わらない事もある。研ぎ澄まされた荒ぶる神経は、ゆっくりと落ち着きを見せた。

 聡が忙しなく調理を進めていると、洗濯を済ませた優子が「支度始める?」と声を掛けてきた。今は便利な時代になった。スマートフォンのアプリで、衣服の色や模様を認識して音声案内をしてくれる。たどたどしくも自立したい私の気持ちを汲んで、優子は私の着替えを遠巻きに見守ってくれる。なんとか着替えを済ませると、優子から賛美の言葉が向けられた。その他にも視覚障碍者向けの支援アプリが私の生活を支えていた。対象物にカメラを向けると識別して読み上げる機能など、今では生活に欠かす事が出来ない。今の時代に生まれた事に感謝する毎日だった。


 身支度を終えると優子は聡の調理を手伝いに行った。優子の怒号と聡の弁解が飛び交う台所が賑やかで微笑ましくなった。やがて準備が整い終わると聡に支えられながら外出した。私の芽生えた自立心を聡は尊重した。特別な言葉を交わさずとも二人は察してくれた。優子も同様に私の数歩後ろで白杖を使いながら歩く私を見守ってくれている。

 不安は尽きない。迫りくる車の走行音が聞こえると心がざわついた。「架純、車」と優子の声が背後から聞こえると体を壁沿いに寄せる。一度立ち竦む私の横を通り過ぎる際の吹き付ける風が体を襲った。

「……大丈夫か?」聡の声と同時に私の肩に手が置かれた。

「うん……大丈夫」自宅付近はまだガードレールが整備されていない道路が多い。例え歩道と車道がガードレールで分離されていたとしても、今の私には車の存在は怖かった。

 頭の中で描いている場所にもうすぐ辿り着くはずだ。そう思った途端「もうすぐだよ、架純」と優子の声が聞こえてきた。一度は聡に支えられながら向かった市民公園。患う前ならば、自宅から歩いて十分弱の距離だった。恐らくこれだけの歩幅と歩く速度なら、倍近く時間を費やしているだろう。それでも一歩ずつ私は足を止める事もなく脇目も振らずに前に進んだ。やがて子供達の嬉々とした声が聞こえてきた。どうやら公園まで辿り着いたようだった。

「架純……よく頑張ったね」

「さぁ、架純? ほら、こっちに座って少し休もうか?」聡が私の手を取りベンチまで案内した。汗を滲ませながらようやく辿り着いた。ベンチに腰を下ろすと緊張で硬直した体がゆっくりと解けていく。ゆっくりでいい。ぎこちなくでもいい。自分に言い聞かせ、心を鼓舞していった。優子に差し出されたお茶を口に流し込むと、渇いた口内に潤いが訪れた。

「疲れたんじゃない? 大丈夫?」右隣に座る優子が私の体を気遣った。

「……ちょっとね。でも、大丈夫」


「お腹空いてないか? どうだ、弁当食べれるか?」左隣に座る聡が心配そうな声をかけてきた。研ぎ澄まされていた神経を、食事を摂る事で休ませたかった。少しばかりの肌寒さを覚えていたので私は聡の言葉に頷いた。

 この市民公園は秋になると銀杏の木に包まれる。色鮮やかに公園を彩る姿が私は好きだった。毎年芳しい香りを届け、道路に舞い降りた銀杏の葉を手に取り秋を感じ取っていた。今年も変わらず美しく咲き誇っているのだろうか。大きく深呼吸をして、視覚ではなく嗅覚で銀杏を感じ取った。脳内に広がる光景は銀杏の葉で敷かれた絨毯が一面広がり、凛と聳え立つ木々がそこにあった。

「架純、ほら? そぼろ丼。母さんと一緒に作ったんだ……持てるか?」私の左手を掴み差し出された容器を持つと、次に右手にスプーンを持った。

「聡にしては、頑張って作ったんだよ?」優子の笑い声と聡の鼻高々な言葉が聞こえてきた。その様子が目に浮かび微笑ましくなると口に運んだ。いつものと違う味付けに驚いた。

「……これ、本当にお兄ちゃんが作ったの?」

「あぁ、そうだよ……美味いだろう?」

「うん。悔しいけど、美味しい」肉の甘さと濃い目の味付けに卵焼きが中和されてご飯が進んだ。聡の料理の腕前に感心していると「まぁ、味付けの仕上げは私がやったんだけどね」と優子の種明かしをする。すると聡が「ちょっ、ちょっと母さん? それ、言わないって約束しただろう?」と聡の慌てた様子が目に浮かんだ。


 これから先、三人でこうして長閑な時間をどれくらい過ごせるだろう。聡はきっと私に負い目を感じているに違いない。私に気を遣い、自身の幸せより私の生活に重きをおくのだろう。優子も仕事をしているにせよ、女性としての幸せを掴んでほしい。素敵な人と時間を共有してほしい。その為には私自身が一日でも早く、自立出来るようにならないといけない。そんな事を想い耽けている時だった。

 ふと足元に違和感を覚えた。得体の知れない物に突如接触した感触を覚え、不審に思った。戸惑いを覚える程の衝撃でもなく、痛みを感じる程の狼狽えを見せる程でもなかった。

「……すみません」駆け寄って来る足音と同時に、低く落ち着いた声が聞こえてきた。

「どうしたの?」二人に状況を尋ねると「……うん? サッカーボールがね、転がってきたの」と優子が答えた。するとボールを拾った様子を思わせる音が聞こえた。

「あの……大丈夫ですか?」先程とは違い、緊張を帯びている声色に声の主が男性だと認識した。その声がする方に向かって私は「……はい」とだけ伝えた。私が視覚障碍者と解って気を遣っているのだろうか。緊張を孕んだ声に、そんな穿った見方をしてしまう。他人の視線に私はどんな目に映っているのだろうか。そんな不安を描いていたが、私が応えてからその男性の気配を前方から感じていた。

 不審に思い、紡ぐ言葉を発そうと口を開いた時「……失礼しました」とくぐもった声が聞こえ立ち去る足音が聞こえた。気配が消えた事を確認すると「……私の事、どういう風に見てた?」と聡に尋ねた。

「……どうって?」

「空気がね……ちょっと重かった」

「……空気?」優子が尋ねる。

「私が視えないってわかってボール取りに来た人……気を重くしたんじゃないかなって」

「違う……それは違うんだ」語気を荒げる聡。

「考え過ぎよ、架純」私の肩に優子の手が伸びた。

 自意識過剰過なのか。私は未だ、周囲の目に慣れずにいた。ボールを取りに来た男性も拾い終わった後に私を奇異な視線を送っていると思っていた。実際に送っていた可能性は大いにある。拾い終わってから立ち去るまでの間があった事に対して過敏になり過ぎていたのかも知れない。


 昼食を終えて自宅に戻る道中に、優子が買い物をしたいと近所のスーパーマーケットに立ち寄った。買い物を済ませると自宅に戻り、その後の時間を私はベッドに横たわりながら、スマートフォンから流れる、ベドルジハ・ソメタナの『わが祖国』を聞いて過ごした。壮大な草原地を彷彿させる曲に心が安らぎ始め、空想と現実の世界を行き来している最中だった。スマートフォンの通知音がイヤフォンから流れた後『隼人君から動画が届きました。再生する場合は十秒以内に画面をタップして下さい』と読み上げ機能付きアプリの音声案内が聞こえてきた。

「……隼人君から?」突然の連絡に胸が波打った。

『十……九……八……』無機質な音声に焦りを感じながらも戸惑いを覚えた。

『七……六……五……』どうして送ってきたの? それに今の状態で隼人に触れてしまう事はとても危険な状態だと思った。

『四……三……二……』何で連絡してきたの? 見えない事はもう知っているでしょ? どうして動画なの?

『一――』

「あぁ、もう」画面をタップした。心無い無機質な音声によるカウントダウンと今頃になってどうして隼人が連絡を寄越したのか、その二点に心が折れた。

 やがてゆっくりとイヤフォンから隼人の声が聞こえ始めた。


『……えぇっと……久しぶりだな、架純』 

 あれ? 何だろう、この違和感。流れ込んでいる声に脳内の奥底で燻っている記憶がある。

『突然で驚いただろう? ごめんな、急に送っちゃって。こうでもしないとさ、架純に伝えたい事があっても伝えられそうになくて』

 隼人の言いにくそうな事を話す時の癖で頭を掻く時がある。隼人のそんな癖が画面に映っているのが容易に想像出来た。

『日記……読んだよ。架純、俺に会うのが恥ずかしいって書いていただろう? 視力を失った自分を見られたくないって。だからこうして、お前に伝えている』

 結衣さん、ちゃんと隼人君に渡してくれたんだ。ありがとう。面倒な事をお願いしちゃったな。

『病気の事……全然気付いてやれなかった、ごめん。架純が俺に会いに来る前から、架純は苦しんでいたんだよな?』

 どうして隼人君が謝るの? そんな必要ないわ、隼人君は悪くない。でもそこまで心配してくれて嬉しいよ、ありがとう。

『架純がいなくなってから、いろいろあってさ……。あっ、祖父ちゃん、亡くなっただろう? ありがとな、通夜に来てくれて。あの時の俺は祖父ちゃんが亡くなって、結構落ち込んでいてさ。初めて身近な人を失って、もうどうしたらいいかって。それに祖父ちゃんは、俺にとって憧れだったから。あの時からだよな、俺達が会っていないのは……』

 そう、棺守りで隼人が悲しんている時だった。隼人に一人にしてくれないかって言われて、そっと一人で帰った時の事を思い出した。


『俺は祖父ちゃんを失ったショックで、アパートに戻らなかった。会社の二階で生活していた頃に架純はいなくなったんだろ? その頃に結衣さんが架純の日記を俺に渡して、お前の事をいろいろ知ったんだ……』

 あの時は暫く帰って来ない隼人を心配して、結衣さんに電話した事を憶えている。でもその時の私はもう殆ど視力を失っていた。だからもう限界だと思って隼人は正和を亡くした直後だったから、別れを隼人に告げるには辛かった。

『いろいろ話したい事があるんだ。実は弁護士が来てさ、婆ちゃんと会社の事だったりこれから先の事をいろいろ話したんだ……祖父ちゃん、生きている時からいろいろ会社の事だったり、俺の事考えてくれていたみたいで。今では俺、社長になったんだ……凄いだろう? って言っても結衣さんには相変わらず、怒られてばっかりなんだけどな。でもさ……社長になった俺に、未だにタピオカ買いに行かせるの……どう思う? ちょっとあんまりだと思わないか?』

 そうだったんだ。隼人君、お祖父ちゃんの後を継いで社長になったんだね。すごいね。お祖父ちゃん、天国で喜んでいると思うよ、きっと。お祖父ちゃん、隼人君の事心配していたもんね。でも結衣さん、相変わらずだな。思わず、笑っちゃったよ。さすが、結衣さん。

『ごめん、ごめん。なんか愚痴っぽくなっちゃったな……えっと、話を戻そうか。架純の事、いろいろ聞いたよ。優子さんと聡さんが話してくれた。日記に書かれていない事までな』

 お母さんとお兄ちゃんが? 隼人君と接点があったの? 私の事を話したって何を?


『その上で、俺に出来る事は何かないのかって、ずっと考えた。側にいて支える事。一緒に生活を共にする事。心の支えになる事。そのどれでも良かった。何か力になれる事はないかって。でも今の架純にとってそれらは、架純が苦しむだけなんだろうなって。だって、今の姿を俺に見せたくないから。だから俺から離れたんだろう? それに優子さんや聡さんがそれらを拒んだ。やっぱり余りにもデリケート過ぎて、家族の壁は厚いからな。いくら恋人だからって、架純の想いを尊重しなきゃなって』

 そうだよ、隼人君。隼人君、ちゃんとわかってくれていたんだね。私がこんな姿を大好きな人に……隼人君に見せるのは、とても恥ずかしい事。家族の問題だって事もある。それに隼人君を巻き込むのはとても気が引けるから。

『でもな、架純の力になりたいって気持ちは変わらない。だから何度も、優子さんと聡さんに掛け合ったよ。俺の熱意に押されて、ようやく二人は折れてくれてさ。しつこく訪ねてくる俺の話にようやく耳を傾けてくれた。俺だって男だし、好きな女が困っていたら、なんとかしたいって思うだろう? って言っても架純は女だからわからないか』

 何? 何を話したの? 私、二人から何も聞いてないよ? だとしたら、お母さんとお兄ちゃんは私に何を隠しているの?

 その後は、暫く隼人の声が聞こえなくなった。再生が止まった事を心配し始めた時、隼人が深呼吸した吐息が聞こえてきた。


『……架純、手術受けないか?』

 胸が大きく波打った。

「隼人君、何を言っているの?」自然と口から毀れだした

『優子さんと聡さんと一緒にな、吉岡先生に話を聞きに行ったんだ。アメリカの大学病院に、先生の大学時代の同級生がいるんだって。そこの病院では、最先端の手術が出来るんだってよ。再生医療ってやつだ。あっ、先生に俺の事、話したんだってな? 彼氏がいるって。俺の登場に先生、にやにやしてたぞ? 俺、すっごい恥ずかしかった』

 どうして? そんな事、今まで二人から聞かされてない。どうして二人は黙っていたの? 鴨川に隼人と行った後に、一度吉岡先生の所に訪れた事があった。その時に浮かれていた私は、先生に隼人の事を話した事があった。でも隼人が、先生の所に行くなんて考えてもいない。それに……手術ってお金かかるんだよ? 二人に負担がかかるし、これ以上は負担をかけるのは無理。

『費用の事は心配するな。実はもう準備は出来ている。いくら保険を使った所で、やっぱり額は大きいからな』

 私の心の声が聞こえたかのように、隼人が説明を始めた。

『この数か月、俺は祖父ちゃんが残してくれた不動産を売ったんだ。ほら、さっき話した様に祖父ちゃんが持っていた不動産を相続したからさ。勿論、最初はいろいろ考えたよ。祖父ちゃんが今まで、大切にしていた不動産だったからな。婆ちゃんにも相談した。婆ちゃんは、快く承諾してくれた。それに、祖父ちゃんが生きている時に言っていたんだ。失う事がかけがいのない事ならば、厭わず守れって……男としてってさ』

 だからって、そんな大切なものを……。


『架純、手術を受けるのが怖いんだろ? 手術を受けて万が一駄目だった時、また絶望を味わったりする事が怖いんだろう? 架純の事だから手術にお金がかかったりする事に気を遣っているのは、みんなわかっているぞ?』

 そうだよ、隼人君の言う通り。私は怖いの。希望を抱くって時として残酷よ。成功と失敗は表裏一体。これ以上家族に負担をかけたくないし、波を荒立てたくないの。

『架純、さっき公園行っただろう?』

 うん、行ったよ。でも、どうして隼人君、知っているの?

『その時、ボール転がってきただろう? その時、ボールを拾いに行ったの……実は、俺なんだ』

「……うそ?」

『架純、俺の声に気付かなかっただろう?』

 あれは隼人君だったの? この動画から聞こえてくる声を聞いた時、違和感を覚えたけれど。あれはもしかして……そういう事なの?

『ちょっとした賭けをしたんだ、悪いな。聡さん、その為にわざわざ仕事休んでさ』

 あれだけ鴨川に行った時、花火を見に行った時の隼人の声を聞いていたのに……あれから時間が経ったとしても、隼人の声を聞き間違えるはずがない。 

『優子さんと聡さんに、手術の事を相談したんだ。勿論、二人とも反対したよ。二人からすれば、いくら架純の恋人だからって赤の他人だしな、俺は。それに二人の考えや想い、今まで積み上げてきたものが崩される訳だし、余計なお節介だって』

 そうだよ、隼人君。いくらお金を用意してくれても、二人が納得するはずがないわ。それに私が手術を拒んでいるんだから。


『だから、提案したんだ。もし架純が俺の声に気付いて俺だって解ったら、もう関わらないって。渋々、二人は頷いたよ。でも……お前は……』

 隼人の啜り泣く音が聞こえてくる。私も自然と涙が零れ落ちてきた。先程から堪えていたが限界だった。隼人が目の前にいて、隼人の声に気付けなかった事に対する自身の不甲斐なさに慟哭する。大好きな人に忘れて欲しくない。私の中でこれからも隼人は生き続けるって誓い、その一心で隼人に近づいたけれど、現実が私の中の隼人を霞ませてしまった。

 私が忘れていた? 私が気付けなかった?

『それだけ視覚を失うって事は、怖い事だと思う。いくら時間が経っているからって、俺の声が解らなかったんだからな。二人とも驚いていたよ。勿論、俺も驚いた。気付けなかった事実も怖いと思うが、気付いてもらえなかった方も怖かった。何か特別なきっかけがない限り、こうして忘れられていくのかなって。お前の中の俺が、消えてなくなっちゃうのかなってさ……』

「……ごめんね……ごめんね、隼人君」

 苦しい……何なの、この息苦しさ。辛い……辛すぎる。

『架純の事だから、もうこのまま生きていくって決めた最中の事だったんだろう? でもな……これ以上大切な人を失いたくはないんだ。祖父ちゃんの時もそうだった。突然別れが来て……あの時もっと話しておけばよかった。どうしてあの時、もっと素直にならなかったんだろう……もっと一緒に時間を過ごす事をしなかったんだろうって。後悔ばかりだった』

 隼人の強い想いが、耳に流れ込んでくる。そう……後悔って人生に付き物なんだ。


『俺からしたら、架純だって祖父ちゃんと一緒だ。突然現れて、突然いなくなるし……まぁ、事情と状況が全然違うけれど、理屈は同じだ。どうせ、勝手な事をしてって思っているんだろう? だけどな、俺からしたら勝手にいなくなった架純だって悪いんだからな? だからお互い様だ』 

 もう……どうして、そこまで想ってくれるの? 隼人君、良い人過ぎるよ……。でも流石に隼人君にそこまでしてもらうのは……。 

『今の架純の気持ちはどうだ? 何を考えているんだ? お前の事だからきっと、周りの事ばかり考えているんだろう? 俺がここまでした事に申し訳ないって気持ちがあるんだろう? だけどな……もっと自分に素直になったらどうだ? 迷惑がかるとか、何かしてもらったから申し訳ないとか……相手に気を遣う事も大事だと思うよ? 別にそれを否定するつもりもない。でも人生って助け合ったり、支えあったりする事が人生だろう?』 

 そうだよ、隼人君の言う通りだよ。素直になったり、他人に甘えたりする事が時として怖い時がある。あの時……家族が分裂したあの時から、私の中で価値観が大きく変わったの。それから私は、他人の目ばかりを気にする事になった。

『俺がここまでしたのは、架純が必要だから。これから先の人生、架純と一緒に過ごしていきたい大切な人だから』

「……隼人君」

 家族以外から、こんなに真っ直ぐで、温もりを感じる言葉を受けた事がなかった。長く繋がれていた鎖が、ゆっくり解けていくように解放される感覚に陥った。すると硬直していた体が緩和されると、あらゆる感情が一気に込み上げてきた。


『いつか一緒に、またあの海に行こう? そうだな……その時になったら、架純に伝えたい言葉があるんだ』

「隼人君、ありがとう……ありがとう」

 嗚咽が止まらない。呼吸が荒々しくてままならない。嬉しさ……もどかしさ……後悔……悲壮……。あらゆる感情が交互に押し寄せてくる。

『あとは……あとは、架純が決めてくれ。俺は架純をいつまでも待っているから……』

 動画の再生の終わりを告げる音声が流れると、イヤフォンを取った。

「隼人君……隼人君」

 隼人君の顔が見たい。隼人君に会いたい。隼人君に触れたい。

 この眠りから目を覚まして、隼人君の顔を見たい。

 再び隼人に触れた今の私には、ただ感情を解き放つ事しか出来なかった。 

 私の泣き声が家中に響くと、慌てた様子で優子と聡が私に駆け寄った。

 優子と聡は、私が手に持つスマートフォンの画面を見て状況を察したようだった。

「……架純」優子が私の体を抱く。泣き叫び、震える私の体を力強く抱き締めた。

「隼人君の言葉に甘えよう、なっ?」私の頭を撫でながら聡が私に言葉を投げかけた。

「……うん」私は大きく頷いた。二人は安堵の顔を想い浮かべた。

 私は手術を受ける事を決心した。

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