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 隼人は正和を見送った日からアパートに帰っていなかった。

 正和の葬式の翌日から帰って来ていない事を心配した私は、隼人に連絡をするも返事が来なかった。隼人の落ち込みから見て、最悪の事態も考えたぐらいだった。

 環奈に連絡をするも実家には帰っていない様子。思いつく親しい人と言えば、結衣しかいなかった。結衣に隼人の消息を確認すると意外な答えが返ってきた。

『えっ? 隼人君なら店舗の二階に泊まっているよ?』

 正和ホームの二階部分が住居になっている事を初めて知った。それを聞いた時、一先ず安心した。続けて正和の思い出に触れていたいのだろうと話す結衣。隼人にとって正和は、ただの祖父と孫の関係ではない事に思い出した。

『今は……そっとしといてあげて?』

 私は結衣の言葉を肯定した。結衣自身も辛いはずだ。少なからず私も懇意にしていた正和との別れは辛かった。正和との別れだけでなく、私は精神的にも追いつめられていた。

 私はアルバイト先で失敗を繰り返していた。商品のポップ作成の際に色を間違える。レジの打ち間違い。結衣は非難の言葉を向けなかったが自身を責めた。

 以前より薬の効果が弱まってきた。色覚補助の眼鏡をかけて凌いで来たが、限界を感じるようになってきた。視界に膜がかかったように映り、物との距離感も掴めなくなっている。いずれ訪れるであろう症状に対して覚悟していた。いざ目の前に迫って来ると、恐怖や不安など月並みな言葉が私の中を駆け巡る。

 限界を感じた私は、かかりつけの病院に電話をして担当の医師に繋いでもらった。数秒後、担当医師の強張った声が聞こえてきた。


『……先生、そろそろ限界みたいです』

 私がふざけた様子で話すも、医師は私の思惑とは裏腹に私の言葉を重く受け止めた様だった。医師の提案は検査をする事だった。予定を聞かれ、明日訪れる事で話が纏まり電話を切った。

 翌日に病院を訪れた時、担当の医師である吉岡の顔は強張っていた。まるで厳粛な処罰を受けた会社員の様だ。その表情が若々しい顔立ちには不釣り合いだと思った。

「……架純ちゃん」

「先生、そんなに暗くならないでよ? 最初からわかっていた事だし、先生は悪くないんだから」重苦しい空気が漂う病室を変える為に、努めて明るく言ったつもりだった。吉岡の顔は依然として変わらなかった。

「先ずは検査をしよう。前回の検査結果より、どれだけ変わっているか確認だ」

 先月行った検査を一通りこなした後、待合室で待機するように看護師から案内をされた。一つ一つの検査の合間に垣間見える吉岡や看護師の表情は芳しくなかった。それは私が一番わかっていた。向かいの長椅子に座る、私と年齢がさほど変わらないであろう女性の腕の中には幼子が眠っている。当たり前の光景が私にとって当たり前ではなくなっていく。一つ一つが羨望であり愛に溢れている。この世界に溢れている人々が望まぬ事の中に、私が望んでいる事が溢れている。やがて名前が看護師に呼ばれると病室に向かった。

「やっぱりここの数値が低くなってきている」吉岡が見せたグラフは、先月に行った検査結果より大幅に下降していた。

「来週、お母さんと一緒に来てくれるかな?」

「……えっ?」

「今日は一部しか検査結果が出ないから、来週まで一先ず待ってくれるかな? その結果を見て今後の方向性を決めよう。一先ず来週までは服用している薬を服用し続けて、様子を見るしかない」

「でも、先生?」

「……何だい?」デスクに目を落とし、何やら紙に書き込んでいる。吉岡の視線はデスクに目を落としたまま。


「飲んでいる薬……もう効かないよ?」

 私の言葉に苦悩の表情を浮かべる吉岡。苦虫を噛み潰すように顔を歪め私に向き直った。

「考えられる最善の処置を架純ちゃんには施している。来週の検査結果が出るまで、待ってくれないかな?」吉岡の瞳が潤んでいる事が辛うじて見えた。その顔を見て私は微笑みを返した。

「ごめんね、先生。ちょっと意地悪したくなっちゃって」

「……架純ちゃん」私の言葉の真意を図っているのだろう。

「そんなに無理しなくていいから。辛い時は言葉に出して、楽になっていいんだよ?」

 吉岡の言葉を正面から受け止めてしまった。その言葉が一番堪えてしまう状況に私はいる。咄嗟に俯き瞳を閉じた。

「先生? もう話良いよね?」

「……あっ、ああ」拍子抜けした声を出す吉岡。椅子から立ち上がり出口に向かった。

「じゃあ、先生……また来週ね」吉岡に振り向かず、扉を開けて外に出た。

 足早に病院を出ると、込み上げてくるものを押さえられずにいた。口許を押さえ、嗚咽を繰り返しながら声を押し殺すようにその場で感情を吐き出した。


 怖い。

 人間の五感の中で、最も失ったら怖い。自分が生きている世界を見られなくなる事。何かを感じ取る時、始まりは視覚が多い。まだ二十歳の人間がこれから先を生きていく長い月日をこれから先、私はどうやって過ごしていけばいいの。もうこの世界を見る事が出来ないの? どうして私がこんな目に遭わなきゃいけないの? 幾度も自身を罵った。私が何か悪い事をした? 私に罰を与えられなきゃいけない事を何かした? 呪いにでも私はかかってしまったの?

 濡らした瞳を拭い、空を見上げれば晴天が広がっている。世界を司る存在に問い質した事もあった。遠くの空に漂う雲が私の目には陰りを差して見切れたように見える。いずれあの雲も、目の前を走る車も、行き交う人々も見れなくなっていく。誰一人私が視界を閉ざされる事など知る由もないだろう。

 当たり前の世界が崩れていく。

 静かにそっと緩やかに、着実に私の視界に幕が下りていく。

 これ以上、みんなに迷惑をかけられない。

 みんな十分、私に協力してくれた。私のエゴな考えに同調し同情をしてくれた。私にとってはとても貴重なかけがえのない時間を過ごす事が出来た。あの時何も行動を起こさなければ、きっと後悔したと思う。何も経験せず、何も感じず、今の状態に陥っていたら、この先今以上に暗澹たる思いになっていたに違いない。

 最初から覚悟していた事だった。最初から解っていた事だった。

 それでも後ろ髪を引かれる思いは残る。短い期間にも関わらず、濃密で楽しい一時は、私が望んでいた以上の出来事だった。隼人と過ごしたあの時間、あの出来事、あの体験をきっとこれからも忘れられない……いや、忘れる筈がない。


 今でも私は隼人と過ごしたあの時間を録音して聞いている。例え隼人の顔が見れなくなったとしても、隼人の声が聞ければ隼人の顔を想像出来る。

 これから先、隼人が年齢を重ね人生経験を積んだ時、隼人の顔はどんな顔つきになるだろう。不動産の仕事は、きっと大変だろうから苦労を重ねて痩せ細っていくのかな。でも隼人は明るくてよく笑うから、今以上に目尻に皺が増えるのかな。大人の階段を一歩ずつ登っていく隼人の姿が見れなくなるのは寂しいけれど、私は私で想像出来る楽しみが増えた。

 だから……大丈夫。

 覚束ない足取りになりそうな気配を感じながらも、自宅に着いて覚悟を決めた。結衣に連絡をすると会社にいる旨の返事がきた。隼人は外出していて不在の様子。

 改めて仕度を済ませると正和ホームを訪れた。

 出迎えた結衣は私の顔を見ると柔和な顔から一変して、強張った表情を浮かべた。結衣が要件を尋ねてきた。私が口ごもると「隼人君ならさっき戻って来て二階にいるけど……」と遠慮がちに言った。最後に隼人を一目見たい気持ちに駆られたけれど、今の隼人にこれ以上刺激を与えたくなかった。別れが立て続けに起きた時の隼人が心配だったから。

 そっと隼人の前からいなくなろう。


「結衣さん……借りていた部屋、解約します」

 私の一言で結衣は察してくれたようだった。顔を歪める結衣は私を抱きしめた。

「本当にありがとうございました。結衣さんには本当にお世話になって……」

 結衣の涙につられて私も泣きそうになった。でも泣かないとさっき決めたばかり。これからは強く生きるって決めたから。

「あと、これ……受け取ってくれますか?」鞄から日記を取出し結衣に差し出した。不思議そうに手に取った結衣に一言添えた。

「何ていうか、そのお世話になった方々への結果報告というか」結衣が日記を開く。流し読みをしながら中身を察知した結衣が「こんな大切なもの、受け取れないよ」と再び目元に涙を浮かべ始めた。私は結衣のこれからも老けずに変わらない、端正な顔つきで歳を重ねるのだろうと思った。初めて出来た、とても優しい大好きなお姉さんだった。

「結衣さんには読んで欲しいです。私の事、知って欲しいから……あと落ち着いたら、隼人君にも」頷きを繰り返す結衣。口許を押さえ涙を流しながら私を見つめている。 

「私が持っていても、意味がなくなっちゃいそうで……」努めて明るく言った。再び不思議そうに見つめる結衣に今度は笑顔で言った。

「だって私にはもう読めませんから」

 結衣に別れを告げて、正和ホームを後にした。

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