眠れる海の乙女

ソゼ

第一幕

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不思議な夢を見た。

白鯱が次々と海面から顔を覗かせて飛び上がっていく。見上げる程の高さまで何十体と空一面に舞う白鯱は、体を崩しながら弧を描き頭上を回り続けている。その光景を海上のテトラポットに座って眺めていた。ふと隣に気配を感じた。視線を隣に移すと、突如視界が暗転し目を覚ました。

 確かに誰かいた。

 なんとも言えない目覚めの悪い一日の始まりを告げられて、ベッドから体を起こした。

 さっきの夢は一体何を知らせる夢だったのか。初めて見る類の夢に興味を覚え、ベッド脇に添えてあるテーブルの上からスマートフォンを手に取り、『夢 鯱』と検索した。すると、鯱がどのように夢に出てきたかによって、その夢の意味が変わって来るらしい。俺が見た夢は、鯱の大群が空に舞う夢だった。その項目が見つかり、寝ぼけ眼を擦りながら読んでいく。

『大切な人に幸運が訪れる』

 夢を見た俺ではなく、周りの人間に幸運が訪れる。悪い事ではない。むしろ良い事の様に思える。だが次第に興味を失い、ベッドから立ち上がった。スマートフォンの画面に映し出されている時刻は、まだ朝の七時を過ぎたばかりだった。毎朝起きる時間より三十分は早い。二度寝をする程の眠気はなく、仕方なしにスマートフォンのアラーム機能を停止させた。

 寝室を出て、リビングに備えてあるソファーに腰を下ろすとテレビを点けた。ザッピングを繰り返す中、どこのテレビ局も先日のニュースばかりを繰り返し報道している。

『新たな医学の進歩!? 救えなかった病に、新たな希望が訪れる時代へ』

 似たようなキャッチコピーを、どの番組も使って報道していた。要は今まで治療が困難だった病気が治るかもしれないと言う事。地方の大学教授のコメンテーターが、保険認可が下りていないから医療費が高い事が今後の課題だと難しい表情を浮かべて話し出した。次第にそのコメンテーターの話し方や眼鏡を持ち上げる仕草が鼻についたので、テレビを消すと仕事場に向かう為に身支度を始めた。

 仕事場と言っても、行先は祖父が経営している不動産会社。祖父の正和と祖母の小百合の二人で経営している正和ホームに勤めて、もうすぐ二年になる。高校を卒業して自分の将来について何も考えず、ただ気の向くまま大学に進学して、当然のように遊び三昧の日々を過ごしていた。当時は大学一年生にも関わらず、俺は単位を落とし続けていた。見兼ねた両親が祖父の正和と計画を図り、俺を正和が所有しているこのアパートの一室に住まわせて正和ホームで働かせる事にした。

 住んでいるアパートは築三十年を超えており、全部で八部屋の一LDKの間取り。俺が住み始める以前からこの二○一号室含め、二階の他三部屋は全て空室となっていた。一階の部屋は常に満室の状態で、住人達は正和の友人達。賃料は激安だったが、孫の俺が月三万円の家賃で住んでいるとは口が裂けても彼等には言えない。

 祖父の正和は千葉県内に不動産を多く所有している。駅前の土地を始め、地方の山や田畑、駐車場として利用している土地など多岐に渡る。正和の家系が元来地主という事もあり、不動産会社を興した事を以前聞いた事があった。俺の父親が後継者として継ぐものだと正和は考えていた様だが、IT関係の仕事に就いたと聞いた時の正和が悲しんでいた事を祖母の小百合から聞いた事がある。父は正和にとって唯一の一人っ子という事もあった。

 そんな思惑があっての計画だったのかも知れないと思ったのは、ここに住み始めてからだった。父が正和の会社を継ぐ事が出来ない。そこで白羽の矢が立った俺を、正和の会社で修業をさせて、後継者として育てていく。父なりの正和への配慮なのではないかと。

 俺としては、この話を拒否する程の理由が思いつかなかった。正和や小百合とは幼少時から可愛がってもらっていたし、嫌いではなかった。むしろ自分がこのままの生活をしていていいのかと、焦りを覚え始めていた時期でもあった。大学の友人達と遊び呆ける日々の中で青春の日々を過ごす反面、二十歳が近づき成人という大人の枠に収まる怖さと窮屈さを感じ始めていた頃だったから。そして次第に不動産というものに興味を持ち始め、俺は正和にお世話になる事を決心した。


 身支度を終えても家を出るまで時間に余裕があった。会社までは歩いて十五分程度の距離。手持無沙汰の状態になったので着替え始めた。スーツを着る事に対しても最初は抵抗があった。この堅苦しさとネクタイが、自身の心のゆとりを余計に狭めているような感覚。それでも慣れてしまえば、そんな意識は何処に行ってしまった。慣れというのは本当に怖い。

 玄関を出て鍵を掛ける。一人生活も慣れたものだ。掃除と洗濯が苦手な俺にとって最初は苦悩の日々だった。洗濯は否応なしにしなければワイシャツは汗の汚れで臭くなるし、洗濯しなければストックは無くなっていく。以前クリーニング屋に持って行って返ってきたワイシャツの袖が縮んでいた以来、自分で洗濯する事に決めた。

 廊下に出て、ふと隣の二〇二号室の扉に視線を止めた。先日正和から二○二号室を顧客に紹介しないように指示があった。隣人がいない方が気は楽だし、元々ここのアパートへの物件紹介を積極的にしないようにと言われていた為に気に留めなかった。

 外階段を下り、駐車場に視線を向けると先日購入した黒のハイラックス・サーフの安否確認をする。初めての愛車に心が躍り、先日の納車で我が家にやってきた。雨天の時は歩いて十五分の距離を通勤として利用している。中古車とはいえ予算を超える買い物だったが、正和からは無理してでも買えと背中を押された。借金をする事によって仕事が頑張れる……これが正和の哲学だった。心の中で愛車に挨拶をすると大通りに向かって歩き始める。

 千葉市緑区は近年の開発行為や土地区画整理事業に伴い閑静な住宅街へと変わっていった。俺が小さい頃、父と正和の家を訪れた時の近辺は山や田畑に溢れていて緑豊かな景色だった。住宅街が出来れば、それに伴ってショッピングモール等の商業施設や学校等がこぞって立ち並ぶようになり、今では県内でも有数の地価が上昇している場所となっている。

 当然正和が所有している駅前の土地や他にも所有している土地に売却の話が挙がってきたが、一部を除いて正和は手放さなかった。俺がその理由を以前正和に尋ねたが、答えは返ってこなかった。何か特別な理由があるのだと考えている。その何かは未だ解らずにいた。

 

 大通りを外房線が通る駅の南口に向かって歩き進めると交差点に差し掛かる。赤信号で立ち止まると、交差点の角に緑色の大きな立て看板が見え始めた。

『正和ホーム 不動産の事なら、何でもお気軽にご相談下さい』

 俺が小さい頃に訪れた時の記憶では、看板の文字は風化されていて色褪せたものだった。今では近代的に仕上がっており、街の景観と調和されている。駅から徒歩五分圏内には正和の会社以外に不動産会社がなかった。少し離れた場所には大手の不動産会社が今でこそあるが、それには理由があった。

 正和が先に述べた事業が開始する情報を聞き、駅前の土地に自社ビルや月極め駐車場を貸し出したからだ。正和は友人達に声を掛け、ビルのテナントには美容室や飲食店が立ち並び始めた。正和はライバル会社達に付け入る隙を与えなかった。俺が正和ホームに勤め始めるまでは、幼少時の優しい祖父というイメージのままだった。今こうして働かせてもらっていると、正和の仕事に対する先見の明や考えに頭が下がる思いだ。少なくとも父親より尊敬している。

 信号が青に変わると交差点を渡った。一見すると、不動産会社には到底思えない程の二百坪の東南角地の敷地に二階建ての軽量鉄骨造りの建物。看板がなければ、ただの駅近の裕福な家。一階を店舗として利用し、二階は居住用スペースとなっているが、二階には殆ど正和と小百合は住んでいない。本宅が近くにあるからだ。俺からすれば勿体ない金の使い方をした建物だ。建物脇にあるガレージの横から敷地内を覗くと、正和の愛車であるメルセデス・ベンツは停まっていなかった。今日は二階に泊まっていないらしい。それを確認すると、建物脇から勝手口の扉まで歩いた。扉脇にあるセキュリティカードを掲げてロックを解除する。本キーを差し込んで、室内へと入って行った。

 

 商談スペースを抜けて自身のデスクにある椅子に腰を下ろすとパソコンを起動させ、メールが届いていないか確認をする。急ぎのメールが届いてない事を確認すると直ぐに時間を持て余す事になった。正和と小百合、そして事務員の飯沢結衣と俺の少人数に、この店舗スペースは広く感じる。木の木目を活かしたナチュラルテイストの店内には、商談スペースとキッズコーナー等あり、朝の掃除には毎度時間を要していた。普段は簡単な清掃のみだが、今日は三十分程早く来ている状況。急ぎの案件も特にない為、少し早いが店内清掃を始めた。

 暫く床掃除をしていると「おはようございます」と明るい声が聞こえた。振り返ると少し眠そうな表情を浮かべて事務員の飯沢結衣がデスク上に鞄を置いた。

 結衣の背中に向かって挨拶をすると「隼人君、今日は早くない? どうしたの?」とこちらに見向きもせずに尋ねてきた。結衣は忙しなく鞄から小物やら取り出している。

「いえ……特にこれといった用はなくて」

「まぁ、早起きは三文の得って言うからね」結衣がようやく俺に向かって振り返った。

「私もね、今朝は美里が朝から騒ぐから仕度に手間取っちゃって……ほら、ここのブローが上手く纏まんないの。大丈夫かな?」

 結衣が俺に見て欲しいと言わんばかりに、自身の髪を見せつけてくる。

「全然大丈夫ですよ? 相変わらず綺麗です」待ってましたと言わんばかりに、結衣の顔から不安の表情が消えた。

「本当? ありがとう」

 これがいつもの結衣とのやり取りだった。飯沢結衣は正和ホームに事務員として入社して五年が経つ。結衣が入社するまでは小百合が事務員として正和を支えてきていたが、体力的に辛くなり、結衣を雇った経緯があり小百合の友人の娘だと聞いている。年齢は詳しくは知らないが、身嗜みには気を付けている。結婚をしており美里という小学三年生の娘がいて、元気が良くて大変と愚痴を零す事を度々耳にしていた。三十代半ばだと思うが、若々しい母親だ。

 

 その後も店内の清掃を結衣と続けて、時間になると開店の準備をした。入口のシャッターを開けて幟を飾る。暖かい春の心地良い風が、店内に籠った空気を新鮮なものに変えた。

 幟を出していると「よぉ、隼人」と声が聞こえた。振り返ると、正和と小百合だった。

「おはようございます」社長夫妻に向かって挨拶をすると「おはよう、隼人」と小百合が柔和な笑顔を俺に向けた。相変わらずの品性を小百合から感じる。決して気取る事がなく、いつも俺に気を掛けてくれて、優しい言葉を掛けてくれる祖母の小百合。それでいて若々しく白のパンツスタイルにチュニックを合わせた服装に、とても六十代には見えなかった。

 一方の正和は店内に入り社長室に向かって歩いて行ったが途中、結衣と何やら話し込んでいた。

「そうだ、隼人?」

「あっ、はい」

「この前頼んだ土地の件、調査は済んでいるか?」

「はい……昨日、役所に行って調べてきました」

「そうか、早いな。あとで報告くれるか?」

「……わかりました」

 俺の答えを受け止めた正和は、店内奥にある社長室へと入って行った。

 正和はやはり人の上に立つ器の男だと生意気にもそう思っている。ここで働く以前は、小百合もそうだが当然の如く祖父、祖母として接していた。ここで働く様になって以前まで見えなかった仕事に対する姿勢や厳しさに触れていけばいく程、正和に惹かれていった。

 強いて言えば、社長としての服装を何とかしてもらえないかと思う。カジュアル過ぎるチノパンにポロシャツとラフな服装で、社長としての身だしなみに欠けていると思った。時たま見るスーツ姿の正和は、綺麗に整髪された白髪によく似合っていた。普段からスーツを着れば良いのにとつくづく思う。

 

 一通りの清掃を終え、営業時間を迎えると電話が鳴り出し始めた。週末の金曜日になると、銀行からの住宅ローンに関する案件や司法書士からの確認の連絡が俺宛てに届く。いずれも明日の土曜日になると休みになるので、週明けの仕事に関しての確認レベルの内容だった。

 届いていた顧客からのメールに返信し、仕事を落ち着かせると社長室へと向かった。

「……失礼します」

「おう……さっきの件か?」正和はデスクに座り、書類に目を落としていた。

「はい……今、よろしいでしょうか?」恐る恐る尋ねると、正和は頷いてソファーに座る様に促した。

「早速ですが、これが資料です」机の上に資料を纏めた。土地の現地写真から、土地謄本や測量図、周辺で取引された成約事例と市役所で入手した道路査定図。資料を基に、正和に報告をした。

「そうか……隼人はどう考えている?」

「この場所は学区で探している顧客は多いと思います。なかなか売りに出ない場所ですから強気の価格で攻めてもいいのでは……幸い、近くで売りに出されている物件は今の所ありません」

 俺が話している最中の正和は一切口を出さず、俺が話す言葉に耳を傾けていた。自分なりに出した結論を示す為に査定書を正和に見せる。正和はそれを手に取ると資料を流し読みしながらも吟味をしている様子。その時間が緊張した。というのもこの案件は俺にとって、初めての不動産の売却査定を任された案件だったからだ。正和から先日突然言い渡され、四苦八苦しながら調査をした経緯があった。


「考え方は悪くないな……だが価格が強すぎる。この地域は建物を建てる際に制限があるのを知っているか?」査定書から顔を上げた正和が答えた。

「……いえ」

「建築協定と言ってな、外壁とか塗り替えたり街並みの景観を変える時は、事前に届出をして許可を取らなければならない。その他にも細かな制限があるんだ」

「……初耳でした」調査不足を感じた。

「何事も勉強だ。それと、この地域は隼人が言う通り、根強い人気がある。お前の言う通り、強気に売りに出してもいいかも知れない。不動産なんて、需要と供給の世界だからな」

「……もう一度、調査し直します」詰めが甘かった。市役所に行って調査し直そう。その場を立ち上がり出口に向かった。

「あんまり気にするなよ」

 社長室を出ようと出入口に向かって歩いていた俺の背中に、正和の声が届いた。

「わからない事は何でも俺に聞け、いいな?」煙草を口に運び、火を点ける最中の正和に一礼をして部屋を出ていった。

 自分のデスクに戻り、スケジュールを見直す為に手帳を鞄から取り出す。午後からは明日の来客の資料作成と案内の準備で時間を割くから、午前中に市役所に行った方が都合良いと判断した。時間を確認するとまだ時間はあった。

「何難しい顔しているの?」

 デスクから顔を上げると、結衣がコーヒーを運んできてくれた。

「……ありがとうございます」コーヒーを受け取り口に運ぶ。ブラックコーヒーのほろ苦さと香りが脳内に染みわたった。

「社長に何か言われたの?」

「そんな大した事では……ただ」

「ただ?」

「……不動産は奥が深いなって」そう話すと結衣が突然吹き出した。

「あっはっは-、何一丁前な事を言っているのよ? まだ始めて一年そこそこでしょ?」

「わかっていますよ、未熟だって。ただ、社長から任された初めての案件だったし、それなりに気合い入っていた訳で……」

 

 売却の相談に関しては、今まで正和が行っていた。購入に関しての仕事は任されながらも正和に相談しながら行い、それなりに契約をしてきた。その中で僅かだが経験を重ね、自信がついてきた最中に、正和から任された売却の案件だった。その結果が先程の出来事だった。

「まだまだ伸びしろがあるって事よ……はい、これ。とりあえず、糖分摂りなって」渡されたのは、コンビニエンスストアで売っているメジャーなチョコだった。口に運ぶと仄かな甘みが口の中に広がった。

「隼人君はまだ若いんだから、失敗しても良いんだよ?これから歳を重ねた時の失敗と若い時の失敗は、全然意味が違うんだから」

 結衣はいつも俺をこうして励ましてくれる。

「以前に似たような事、社長に言われました」結衣の顔が一変した。結衣の両目が吊り上がり、表情は一気に不機嫌になる。

「そう言う時は、素直に『はい、わかりました』って言えば良いの。素直じゃないんだから」

 劇的に不機嫌になった結衣は、大股で自分のデスクに戻っていった。これがいつもの流れだった。

「結衣さん?」外出する仕度をしながら、デスクに座る結衣に声をかける。

「これから外出するんですが……何か甘い物買ってきましょうか?」

 すると、目を輝かせながら顔を綻ばせる結衣が「タピオカドリンク」と予想通りの注文が入った。

「いつものやつですね」

「そう。あっ、もちろん……」

「奢りますから」結衣の言葉を遮った。

「やりぃ、ゴチ」

 時間は十一時を過ぎようとしている。十二時になると市役所の職員達が昼食を摂る為、窓口対応が出来なくなり、時間のロスになる。市役所までは車で十五分程度の距離だから時間に余裕がなかった。正和に相談した土地の資料を鞄に入れ、忘れ物がないか鞄の中を確認する。大丈夫、問題ない。

「じゃあ、行ってきます」小走りで店を出て、駐車場に向かった。

「行ってらっしゃい」店を出る間際、背後に聞こえる結衣の声にタピオカドリンクの圧力を感じた。


 市役所までの道のりは軽やかなものだった。出発間際にコンパクトカーの社用車のガソリンメーターの目盛が僅かだった事に懸念していたが、迷わず進んだ。市役所に着くと、週末のせいか、市役所内の駐車場には空きが少なかった。何とか空いている場所と見つけ、車を停める。建物内に入り目的の窓口まで一直線に向かうと、時刻は十一時半ばを過ぎている。幸い窓口は空いていた。対応した職員は、先日対応した若い男性職員だった。相手も俺の事を覚えていた様で、俺の顔を見るなり顔を綻ばせた。

 正和に指摘された事を尋ねると、返ってきた回答は正和の言う通りだった。改めて疑問に思った事や懸念事項を尋ねると、丁寧に解りやすく答えてくれた。先日訪ねた時には、ここまで丁寧に対応してはくれなかった。その職員は恐らく俺の知識が乏しいと察したのだろう。俺の中途半端な知識や経験が邪魔をして、本質を見極められなかったのだと反省した。結衣の言う通り、聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥だ。

「ありがとうございます。あと他にこの土地に建物を建てる時に何か制限とかありますか?」中途半端が一番怖かった。ここまで来たら、もう一度始めから改める気持ちだ。

 その職員は俺の圧に気圧されたのか、はたまた親切心が擽られたのか「ちょっと待ってください」と言い残し、奥に座る他の職員に俺が持参した資料を手に取って尋ねて行った。

 恐らく先輩職員なのだろう。俺がいる所まで聞こえるか聞こえないか程度の声量で、何やら話し込みだした。暫くすると先輩職員と二人で俺がいるカウンターまで歩み寄ってきた。その先輩職員らしき人物は、三十代半ばくらいの恰幅の良い男性だった。


「あとは、緑地協定ですね」カウンターの下からA4サイズの資料を取出し俺に見せてきた。

「ここの地域一体がそうなんですが、街並みの景観を保つ為に植栽だったり、土地に対して十分の一以上の芝生を植えてもらう事をお願いしています。詳細については、自治会や運営委員会で取決めされていますので、直接そちらに尋ねて頂ければ……」

 これも初耳の情報だった。尋ねて良かった。確かに区画整理され地域だから特別なルールがあるとは思っていたが、緑地協定……そこまであるとは予想だにしなかった。

「ありがとうございました」もらった資料を手に取ると二人に礼を述べて、その場を後にした。すると、内ポケットに入れていたスマートフォンが鳴り出した。画面を見ると店からの電話だった。

『お疲れ様です』

『あっ、隼人君? 今、どこ?』結衣からだった。いつもの甲高い声量ではなく、緊張している様子だった。

『今ですか? まだ市役所ですけど……あっ、まだタピオカドリンク買っていませんが』

『いいの、それは。それより今、お客さん来ているんだけど』

『お客さん? 誰ですか?』来客のアポイントはなかったはず。

『相島さんって方よ。隼人君宛てにいらっしゃっているんだけど……直ぐに戻ってこれそう?』

『俺宛てですか? わっ、わかりました。直ぐに戻ります』

 相島? 抱えている顧客の中では、該当する苗字が思い当たらなかった。どこかの不動産業者の人間か新しい銀行担当者か? それに結衣から男性が女性か聞きそびれていた為、推測が立たなかった。市役所からの店まで向かう車中でいくつかのパターンを考えながら店に向かった。この業界は顧客が不動産を探している知人や親族を紹介してくれるケースが多い。何よりも嬉しい事だった。下手な広告にお金をかけて集客するより、信頼関係が出来ている顧客からの紹介が、一番成約率が高いと日頃から正和が口酸っぱく言っていた。俺も確かにそう思う。

 店で俺を待っている相島なる人物も、その類の人間だと推測を落ち着かせた頃に店の駐車場に着いた。やはり結衣から電話が来てから、行きと同じくらいの十五分が経っていた。

 店がある向いの月極め駐車場に車を停め、横断歩道を渡る。正面入口から店内に入ると、結衣が俺を出迎えた。


「遅くなりました。お客様は?」店内を見渡すと入口から最も遠い商談テーブルに女性が一人座っている。顔を俯かせてスマートフォンを見ている為に顔は確認出来ない。

「初めてのお客様じゃない? 店に来るのは初めてだって。とりあえず、待たせているんだから、早く行きな?」

 一先ず相島がいる商談スペースまで向かった。どんな話の展開になるか、席に向かうまでの僅かな距離の道のりに頭を働かせた。俺の名前が出たという事は以前、取引した顧客の知り合いだろうか。栗色の淡く明るい髪を肩まで伸ばした髪型。ワンピースの上にカーディガンを羽織っているが、細身の体型に少し不釣り合いを感じた。一人暮らしの賃貸物件を探しているのだろうか。

「すみません。お待たせしました」

 頭を下げると座っている相島が手元のスマートフォンから顔を上げた。顔を上げた彼女の顔を見降ろす形になり正面に捉えた瞬間、懐かしさを覚えた。脳内の最深部にある僅かな記憶。相島は俺の顔をその大きな瞳を細め見つめてくる。やがて細めた瞳が大きくなり、笑みを零した。その笑みに対して一礼をする。多少の困惑を覚えたが「失礼します」と言って席に着いた。

 今度は正面に彼女の顔を捉えた。頭の中で思い浮かんでいる人物が一人だけいた。だがその人物と、目の前にいる相島が違っていた場合、失礼に当たる。それに相手は客として俺に会いにきている手前、そこは一線を画すべきだと思った。

「お待たせしてすみません。今日はどのような要件で――」

 話の口火を切ろうと話始めた時だった。


「久しぶり……隼人君」

「……えっ?」

 予想だにしない言葉が突然割り込んできた。僅か数秒の出来事だったが、互いを挟む空気の流れが止まった様に思える。静寂が訪れる最中、先程から思い浮かべていたその人物が目の前の人物だと合致するには、時間は要さなかった。なぜなら俺を『隼人君』と優しく、柔らかい呼び方をするのは一人しかいなかった。

「……架純か?」

「……うん」俺が名前を尋ねると、満面の笑みを浮かべて大きく頷いた。

「なっ、なんだよ、おい。突然……いやぁ、久しぶりだな」大げさな驚きを表現するように、俺は体を大きく仰け反りながら顔を綻ばせた。

「突然、ごめんね……って私の顔を見て、どうして気づかないの? 何、さっきの? 『遅れてすみません』って」

「いや、わかんねぇよ……髪型だって変っているし、雰囲気全然違うじゃん。まさか、ここに来るなんて思わないだろう? それに相島って……お前、まさか?」

「……うん。両親が離婚してさ……お母さんの旧姓が相島なの」

 俺が想像していた事実と異なり胸を撫で下ろした。

「そうか……それで、どうして俺がここにって?」気まずい空気を変えようと話題を変えた。

「この近くでアパート探しているの。一人暮らししようと思っていて……それで、どこか良い所がないかなって不動産会社を探していたら、写真見て隼人君じゃない? それで来ちゃったって訳」

「そういう事だったのか。それで、探している条件は?」

「出来たら駅まで十分以内で、月三万以内」俯きながら視線を俺に送って来る仕草は相変わらずだった。

「そんな物件あるかよ……ってお前、今何してるの?」

「えっ? 私? ほら、あそこ。駅の反対側に大学あるでしょ? あそこに通ってるの」駅の反対方向を指差して俺に説明をした。

「あるな。女子大だろう? あそこの大学、偏差値高くて有名じゃん? 架純って、そんなに頭良かったっけ?」

「しっ、失礼ね。頑張って勉強したの……あと、お金そんなにないのよ。ねぇ、どこか良い所ないの? 不動産屋さん?」架純は前のめりになって顔を近づけてきた。

「いや、俺専門は賃貸じゃないし……それに、その予算じゃあ難しいぞ? この辺りは、結構高くなってきているから……」俺が困っていると結衣がコーヒーを運んできた。


「なになに? あなた達、知り合いだったの? なんだ、それなら言ってよ?」

「すみません。突然来ちゃって……」頭を下げて結衣に言葉を返す。

「ううん、気にしないで。それより、話少し聞こえちゃったんだけど、アパート探しているの?」運んできたトレイを近くのテーブルに置き、俺の隣に座り出す結衣。

「結衣さん、あります? そんな物件?」結衣の方が賃貸に関しては詳しく、店が管理している駐車場や賃貸物件に関しては結衣が担当していた。

「うーん……正直、この辺りの相場じゃ難しいわね」珍しく難しい顔を浮かべている。駅周辺の一部は、近年大手の不動産会社が建てた、賃貸マンションが中心だった。近くに大学がある事も踏まえて、大学生向けのアパートがあるが、架純が希望している賃料の二倍はする。現実的には厳しいものだった。

「でも……あそこならいいんじゃない?」ふと隣に座る結衣が俺に顔を向けた。

 結衣の意図を汲めずに首を傾げると「ちょっと待ってて」と言って立ち上がり、社長室に向かって小走りに去っていった。

「どこか良い所あったのかな?」にやにやと顔を綻ばせる架純。

「さぁ……どうだろう?」少なくとも俺が把握している中で、店で管理や扱っている物件の中ではないはずだ。社長室に向かったという事は、正和が隠し持っている物件若しくは正和が所有している不動産という事だろう……か。

 まさか……。

 一つの可能性に考えが及んだ時。社長室から結衣と正和が出てきた。

「ねえ、良い所見つかったよ」先頭を切っていた結衣が架純に言った。

「本当ですか?」架純が結衣の言葉に反応する。

「駅までは歩いて十五分。建物はちょっと古いけど、間取りは一LDKの二階。しかも……」

「……しかも?」結衣の言葉に架純が応える。

「敷金や礼金も0。保証人も隼人君の知り合いという事でいらないわ。そして……賃料はたったの一万円」人差し指を立てて、結衣が架純に言い放った。

「うそ……そんなに安いの?」驚きを見せる架純。


「……ちょっと待って下さい」そこに俺は割って入った。

「……何よ?」冷静な俺に少しばかり不機嫌そうに答える結衣。

「その物件って、もしかして俺が住んでいるアパートですか?」

「えっ? そうだけど?」結衣があっけらかんに答えた。その答えが疑惑から確信に変わった瞬間だった。

「でっ、でもそのアパートは社長が、二階の空き部屋は貸さないって……」結衣の後ろにいる正和に視線を送る。すると正和が結衣の前に出ながら「……あぁ、たしかそんな事を言ったな」と首を傾げながら答えた。

「事情は結衣ちゃんから聞いた。架純ちゃんは、隼人の知り合いなんだろう? だったら、特別に貸そうとそうなったんだ」

「でっ、でもどうなんですかね? 社長がどんな考えで空室にしていたか解りませんが、一万円って破格で貸すのはいかがなものかと――」

「何だ、隼人? 文句あるのか? 俺が持っているアパートだ。俺が良いって言えば問題ないだろう? それとも何だ? 隼人が変わりに出ていくか?」

「いや……そういう事ではなくて……」歯切れの悪い答えを他所に、聞く耳を持たない正和と結衣が何やら話始めた。

「二階は確か、空き部屋が三部屋あったな? 二○三と二○五はまだ、リフォームが終わっていないから……二○二はどうだ?」

「そうですね。先日内装リフォーム工事も終わり、クリーニングしたばかりで綺麗ですからね」謎の視線を俺に送る結衣。本気か? この人達は……何を面白がっているんだ。

「もしかして、そこって隼人君の部屋の隣?」架純が恐る恐る俺に尋ねてくる。

「……あぁ。お前も気を遣うだろう? 無理して別に――」

「別に。私、気にしないけど」意外にも、あっさりとした答えに拍子抜けした。

「この後時間ある? 良かったら近くだし、見に行ったらどう?」結衣が提案すると架純は頷いた。

 本当か? いくら何でも気まず過ぎるだろう。それに家賃一万円って安過ぎだ。正和は何を考えているんだ。孫の俺にでさえ、破格の三万円の家賃なのに。どうして架純が俺の三分の一の家賃で……。

 混乱していると、結衣が二○二号室の鍵を俺に渡してきた。

「はい、行ってらっしゃい」

「……えっ? 俺がですか?」

「私この後、来客あるから」そう言い残して自分のデスクに戻っていった。戸惑いを見せていると、肩にバシッと正和に叩かれ行って来いと促された。仕方なし架純を連れて自身が住んでいるアパートまで歩いて向かった。



「へぇ、思った以上に綺麗だね」

 室内を見渡しながら、感心している様子の架純。確かに俺が入居する状態の時より壁紙は貼替されていて綺麗になっている。六畳のリビングの一面だけ水色の水玉模様の壁紙がアクセントになっていた。

「……これは、俺の時より綺麗だわ」

「何か言った?」キッチン下の収納を覗いている架純が顔を上げた。

「いや……社長の考えが解らないなってさ」

「……あぁ、おじいちゃん?」

「あれだけ貸さないって言っていたのに、どうして急に貸し出したのかって思ってさ」

 リビングの窓ガラスを開けると、昼間の暖かい日差しと風が吹き込んできた。室内の淀んだ空気が一気に外へ逃げていくように感じる。眺望を遮るような高い建物は視界に入らない。この辺りは三階建以上の建物、高さで言うと十メートル以上高い建物は建てられない地域に属しているからだ。

「まぁ、私にとっては都合が良いけどね」室内を一通り見尽くした架純が俺に近づいてきた。

「お前、本当にここに住むつもりか?」

「うん、もう決めた」架純の顔からは迷いを一切感じなかった。

「……そうか」

「ねぇ……どうして、そんなに聞くの?」

「ほら、ここ見てみろよ? バルコニーから顔出せば隣のバルコニーから丸見えだぞ? 防犯上、危ないだろ?」

 バルコニーに出て顔を柵の外に出す。左隣の俺が住む部屋のバルコニーが見えた。無茶をすれば簡単に隣のバルコニーに渡れそうだ。

「別に大丈夫でしょ? 隣は隼人君だし。こっちは空き部屋なんだから」

 そんな俺の心配も空しく、架純は全く気にも留めていない様子だった。以前からどこか肝が据わっているというか、男勝りな所がある。

「……うーん」

「そんなに隣に住んで欲しくないの?」

「いや……そういう訳じゃ――」本心を突かれた。



「昔の恋人が隣に住むから、気不味いんでしょ?」いたずらっぽく俺の顔を覗きこんでくる。

「……お前は平気なのか?」努めて冷静に尋ねた。

「別に……隼人君、気にしすぎ。それに私達別れたくて別れた訳じゃないじゃん?」

「……まぁな」確かにそうなのだが、それだけじゃない男の倫理や道徳に似た考えが、それを拒んでいるように思えた。かつて恋人関係だった女性が突然目の前に現れて、何だかんだあって、ひょんな事から俺が住んでいるアパートの隣に住む事になる。どう考えても、おかしな展開だ。

「ねぇ、これ見て」腑に落ちない俺に架純が手に持っている物を見せた。それは二人にとって懐かしい物だった。

「……まだ、持っていたのか?」色褪せた、鯱のキーホルダーだった。

「思い出だからね……隼人君は持ってる?」

「もっ、もちろん」不意の質問に胸の鼓動が脈打った。

「じゃあ、見せて」

「……えっ? どうして?」

「いいじゃん。ねぇ、見せてよ?」

「……今は持っていない」

「じゃあ、家にあるの?」

「多分な……多分、家にあると思う」

「じゃあ、取ってきて」

「……今?」

「そう、今。隣でしょ? 直ぐじゃん」

「別に良いだろう? 今じゃなくても……」家の室内の光景を頭の中に思い浮かべた。

「もしかして……失くした?」目を細め怪しむ視線を送ってくる。

「そっ、そんな訳あるかよ」発した声が明らかに裏返っていた。今の言葉で余計に不信感を与えてしまいかねない。

「わっ、わかったよ。取って来るから、ちょっと待ってろ」

 慌てる様に二○二号室を飛び出し、隣の二○一号室である自分の部屋の扉を開けた。扉が閉まる無機質な音を背に聞こえた後に一息ついた。

 


 わかっている。最初から、どこかにあるか把握している。あんなに大切な物を失くす訳がないじゃないか。

 革靴を脱ぎ、目的場所までゆっくりと足を進める。リビングを抜けて、寝室に入り机の上から二番目の引き出しを開けると、すぐに見つかった。架純が見せた鯱のキーホルダーより色褪せる事もなく、色濃く保たれている。

 恥ずかしさから来る言動だった。

 別れた女との思い出の物を、未練がましく捨てられずに持ち続けている。そんな風に思われたくなかった。架純が今でも持ち続けている事は、素直に嬉しかった。あの時の思い出を大切にしている事に。

 架純が尋ねてきた時、素直に持っていると直ぐに言える程、器用でもなければ素直になれる程、冷静ではなかった。気分は高揚して架純と店で会ってからこれまで、どれほど興奮していただろう。

 会いたい……いつか会いたい。

 そんな事を常に胸に抱き続けていた。それがこんな形の展開になるなんて、誰が予想できただろう。本音を言えば、隣に住んで欲しいに決まっている。だがそれを、欲望のまま肯定し続ける事が結衣達に好奇な目で見られる事を避ける為、敢えてあんな言動をした。

 キーホルダーを手に取った。そろそろ探し続けた結果、ようやく見つかったと演出する時間にはちょうど良いだろう。短すぎず、長すぎずの時間。

 革靴を履き直して玄関扉を開けると、目の前の廊下に架純が立っていた。

「どう? 見つかった?」

「……ほら、ちゃんと失くしていなかっただろ?」少し芝居じみただろうか。若干の息を切らし、呼吸を整えるフリをした。架純の顔の前にキーホルダーを掲げる。

「……良かった」俺が持つ思い出のキーホルダーを目にして、感慨深げに吐露する架純。それを見た俺は、妙に芝居じみた対応をした事に胸が締め付けられる想いになった。もっと素直に大切に持っていた事を架純に伝えていれば、また違った表情を架純が見せたのではないか。


「あっ、当たり前だろう? 俺だって大切な思い出だったんだから……」

 そうは言ったものの、照れ臭さが勝って正面に立つ架純の顔を見る事が出来なかった。

「隼人君さぁ……」

 突然架純が一歩後退して俺の全身を品定めするように、まじまじと見つめだした。

「なっ、なんだよ?」

 高揚した感情が静かに冷めていく事を感じて白け始めた。

「スーツ、似合うね」

「……それ、今言う事?」

「いいじゃん。思った事を思った時に言う事って、大事だと思うけど」

 特に悪びれた様子を見せず、架純は踵を返した。

「おいおい、どこ行くんだよ?」

「えっ? 店に帰るんじゃないの?」

 そうだよな。物件の案内一件だけで時間をかけると怪しまれるし、今は仕事中の身。しかも店から近い場所。

「早く戻ろう? 結衣さん達が心配するから」架純は足早に階段を下って行った。


 店に戻ると、架純は結衣と正和に賃貸借契約を結ぶ旨の意志表示をした。これから先の話は賃貸を担当する結衣に任せる事になる、俺はお役目ごめんだ。商談テーブルでは架純と結衣が契約日の日程調整や必要書類の案内と、引っ越し日はいつ頃にするのか等、具体的な話をしている。俺はデスクワークを勤しみながら、聞き耳を立てていた。

「そんなに気になるの?」

 背後から突然声をかけられて驚いた。振り返ると小百合が、にやにやと俺を見下ろしている。

「お友達がお隣に住むなんて、楽しくなりそうね。ふっふっふっ」

「どっ、どうかな? いろいろ大変そうだけど……」努めて平常心で返したつもりだった。

「二人が単純なお友達の関係に、私には見えないのよね」

 小百合が見下ろす目には全て御見通しよと言わんばかりの圧を感じた。高圧的なものではなく、人生経験から得た力や優しく人間としての器の広さを感じる暖かいもの。

「まぁ、仲良くやりなさい……ねぇ?」俺の肩を軽く叩き、小百合が去っていった。御見通しかと自嘲していると、どうやら商談スペースにいた二人が打合せを終えたようで席を立っていた。俺も立ち上がり、二人の元へ歩み寄る。


「引っ越しは今月中にやりたいって」結衣が俺に報告した。

「そんなに早く? 随分、急だな」驚いて架純に尋ねると「善は急げって言うでしょ?」と得意気に答えた。

「とりあえずお隣さんになるから……宜しくね」架純が右手を差し出した。あの時もこうして別れる際に互いに握手を交わした。それからまたこうして再会をし、今度は住まいが隣の部屋同士になる。人生何があるかわからない。

「引っ越し日決まったら、教えてくれ。手伝うよ」差し出された右手を握り返した。

「本当? 助かる……あっ、そういえば隼人君。番号変えた?」架純がスマートフォンを取出して尋ねてきた。

「……あぁ、高校卒業してから変えたな」

「そっか、だからか……」俯きながら架純が呟き「ねぇ、新しいの教えてよ?」と架純がスマートフォンを振って見せた。連絡先を架純と交換し合い「引っ越し日決まったら、連絡するね」と言い残して架純は店を後にした。

 架純を結衣と並んで見送り、駅に向かう架純が遠くに見えなくなると隣に立つ結衣が呟いた。

「ねぇ、隼人君?」

「…はい」

「タピオカ……忘れてないよね?」

「……忘れました」

 完全に失念していた。息を飲み、結衣の顔を見ると口角が上がり、目尻は吊り上がっている。俺に尋ねた優しい語気と顔の表情が噛み合っていない。

「ごっ、ごめんなさい」

 こんな事は初めてだった。今まで架純に意識が向かっていて等の言い訳は、結衣の前では無意味。かといって今更買いに行った所で無意味だ。結衣は気分屋だから催促された時点で、すでにそれを欲していない。

 こんな時の対応は――。

「今度もっと良い物、買ってきます」

 僅か数秒の間、考え得る精一杯の返しだった。

「……なら、良いわ」

 渋々納得したような表情を浮かべて店内に戻る結衣。なんとかこれ以上、結衣の機嫌を損ねる事はなかった。結衣に目を付けられたら、何かと面倒だし、ましてや事務員を敵に回したらここで働く事に支障をきたす。

 そして、ふと気づいた。結衣に弁解した言葉は、自分の首を絞めた事になる事を……。

「……タピオカドリンクより良いやつって、何だよ」

 俺は再び悩む事になった。 

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