21.12/31 うっせえわと世相
レコ大を見て親がうっせえわトラップにかかりました。いやはや。まあ、その秘密の仕掛けには口をつぐみましたが。
うっせえわについて喋りましょうか。「ちっさな頃から優等生」自分は絶妙な立場ですね。
少し自分語りをします。さすがに今こうして活動してるように、モラルに欠けた発言は現実世界ではしません。それでも、面白くない意見は聞き逃して適当に相槌を打って自分の本心の意見は提示しないとかやってます。あと、性格はよう知らんですが、勉強以外はアンポンなんで、すごいドジですね。ドジっ子自称しようかな、と友人と話しましたが、てめえ可愛くねえじゃねえか、単にムカつくだけだからと言われてやめました。
スポーツは全く。ハンドボールなげが13mと聞けばある程度理解できるでしょう。あと、こうして文がすこし雑だったりするとことかよく分かると思いますが、あまり文が上手いわけでもないです。しかも、現代のジョウシキっていうものをずっと嫌い続けてきたので、励ましだとか、元気が出るとか、そういうのを自分で見るコンテンツからは排除しています。最近では、少し人に心を許すようになって、現実世界では励ましに心を打たれることがありますが。
ガリ勉ではないです。才能です。ある程度課題になった宿題はちゃんとこなしますが、生理的に嫌ってるので塾には通いません。(生理的に嫌うという表現を僕は多々使いますが、これは、あなたは好きなのかもしれないが、僕は感覚的に嫌いで、そのはっきりとした理由がないときに使います。)
でも、勉強が嫌いだという人とは距離を置いています。形は色々ありますが。また、暗記厨や、点数厨とも距離を置きます。最近、自分の点数を自慢することは自分の中で良いことになってきましたが、成績が高くておめーは全然できないな、とかそういうことを他の人に言う連中は徹底して避けます。暗記厨や、学歴厨もですね。主客転倒している。学歴は、太古の昔からあったものではなく、設立されて名無しから始まった大学が優れた教育実績を出したからあるものです。決して大学に所属していることは試験の合格証ではない。暗記厨は逆にものごとの因果関係を無視している。テストでいくら点を出そうが、彼等が学者の中で躍進するのは学問を汚すことになる。別に、そういう考えを排除したい訳ではないですが、その考えを持って君もそうしなよ、と言って自分に干渉したら少し怒ります。
どうなんでしょう。まあ、これでも自己紹介にはまだ足りないので分からないですよね。ちっさな頃から一応偏差値はあったつもりです。
僕は最新の流行は無視して、フォトナを強く白眼視し、ポケモンの本家ダイパやら、エメラルドやらをやっています。特にオーバースペックに固執する最近のゲームの姿には強い嫌悪感を持っています。特にポケモンのXYは嫌だった。中途半端な3Dアバターに不気味の谷(ほとんど人間のロボットに嫌悪感を覚えるという心理効果。ググって)を覚えたり、スケートし始めたり、イミフなメガシンカを導入したり。目新しさというより、子供だましの派手さにシラけました。Z技とかいうのも、無駄に長い演出でださい。あと、全方位移動とか、あれも要らなかった。ゲームらしい、異世界さがあれによって失われたとも思った。ダイパリメイクには中立の立場。ミニアカギは、かわいいでいいけど、トレーナー戦のカットイン演出は原作の方が良かった。リメイクしたやつだと、カットインが3D化していて、なんか緊迫した鋭さがない。ただ、あるユーチューバーがダイパリメイクへの非難の言葉で言っていたことには、的外れだなと思った。前のゲームよりグラフィックが下がった、ミニキャラクターが醜いと言っていたが、グラフィックが下がったとはいうが、逆に前のゲームはグラフィックが上がりすぎてなおさら不気味の谷に引っかかって不自然だった。ミニキャラクターだが、別にあれはゲームの個性が出ていい。むしろ、現実世界の人間と乖離させた方が、不気味の谷への不快感を感じないで、より自然なゲームのバーチャルな世界に入り込める。
めちゃくちゃゲーム、特にポケモンのグチ言ってましたね。
これは果たして、うっせえわの主人公が感じる生きづらさであろうか。明らかに違うな、溜まっていた鬱憤だろう。さっき言ったことはただのオタク感もある。一応、自分としては、ライトプレイヤーのつもりなのですが、逆に熱烈なファンでもないから、ちょっとした改悪にイラッときてさっさとゲームを去ってしまった身なのです。
うっせえわの主人公が感じる生きづらさは僕はとても同情する立場ですし、同情っていうとなんか見下してるっぽいですが、僕もちょうど同じような立場でしょう。勉強が嫌いなこどもたち(同級生)も避けるけれども、別に彼らが面白いと思う事柄を何一つ知らない訳でもない。自分なりの面白くて下らない世界(コメディ)を持っている。だから、真面目だねとか言われると強い孤立感に苛まれる。「あなたが思うより健康」なのである
自分は日陰者ですらもないかもしれないとも思う。コーラス部で集まろうが、他の同期は自分が今こうして嫌っている、もしくは好きではない曲ばかり歌おうとするし、そして僕も歌わされる。文芸部で集まろうが、自分の知らないアニメで盛り上がって、自分が知っている文芸作品のことは何一つ知らないだろう。仮に彼らが少し前の文学にハマろうが、それは大方健全な作品である。歌も同じで、僕は中森明菜の『スローモーション』を歌いたいんじゃない、『北ウィング』や、『oh,no. oh,yes』が歌いたい。
歌詞にはそう、シンパシーを持てる点はこの曲はとても多い。うちの親が、アド氏はきっとそんなに可愛くないんじゃないか、と言ったが、それは多分合っている。(ものすごい謝りますが)逆に、仮にいざ僕が彼女と顔を合わせたときに、実はきれいで「なんか、顔出さないからあんまりきれいじゃないんじゃないかと思ってたけど、めちゃくちゃ美人じゃないですか、そんな顔ならテレビに顔出せばいいのに」という発言をすることは、絶対に許されないし、他の誰かがこう言っても、許さない。彼女が顔を出さないのはそういう理由じゃない。容姿で歌手を評価するのをやめろという意志だろう。思うにうっせえわにあるのはそういう怒りである。まあ、これはあくまで僕の解釈である。そして真剣に考えている訳ではない、一つ、こういう現実を外から見て派手に歌うことでまわりの敵側から哀れみの同情を買って偏見を広めることになる、という疑いを自分はもっていて、この世界観を褒め称える一方ある側面では、シラけた目で白眼視している、彼女はこちら側の人間でない敵、スパイだと。まあ、たぶん冤罪による魔女狩りになるから騒ぐ気はない。
しかも、彼女はたぶんこの歌詞への共感者である可能性はあるだろうが、この世界観を作った黒幕は作詞者である。だが、アド氏のプロフ画像のイメージから彼女がただの共感者でない可能性も想起させるが。鬼の能面のように、見方を変えれば悲しみになった場合は知らないが、彼女の自画像は鉄の女という意図だろう。萌えキャラから最も遠い形で、隙のない憤怒、近さとも真逆の、足から顔が遠ざかる絵の構図により、強い他人を拒絶する意志、弱みのない直立。そして、体の細さ。この細さの意図は自分には悩ましいものだが、強い神経質さ、繊細さなのか? この絵は、現代アートというまで前衛的ではないが、それでもやはりアヴァンギャルドである。女らしさからの脱出の一形態であるのは間違いない。
この解釈が多くの人に共有されてファンそれぞれがこのイメージを狂信しているのであればたぶん、彼女のファンは、強い期待と脅迫をするだろう。それ程まで彼女の存在は大きい。(そろそろ筆を書く気持ちに心酔してきて誇張表現がおかしくなってきてるかも)
自分は、彼女の登場を「トーキョー・ダモイ」だと思ってるし、実は曲自体はそんなに好きではないので横目に見ているが、熱烈な信者で、僕の考える通りのことを思っていたら、もし仮に彼女が顔出ししてテレビに出て、「そんなに美人ならもっと早く出てくれれば良かったのに」とインタビュアーに聞かれたときに、「よく言われるんですけど、それでも自信なくて。」と彼女が返答したときでさえ、彼らは裏切られた気持ちになるだろう。彼女のコンプレックスを期待していたからだ。そして、彼らの味方であったはずの彼女の立場が、もともと彼らの敵だったとき、有名になって敵へと変わったということを知らされるとそれは本当に裏切りである。まあ、彼らの立場でもないくせに堂々と彼らの味方をして歌う人は、むしろ自分が好んで聞いている人の方が多いが、そこは彼らの音楽が好きだということで諦めている。自分は、一回のての類でしかも全く好きじゃない曲をコーラス部で歌わされてとても不快だったともいうし、惨めだった。
とまあ、うっせえわについては、薄いがかなり当たったときのリターンが多い期待を「トーキョー・ダモイ」ほど持った。(この語を用いるのはやはりシベリアで命を落とした英霊らへの失礼にあたるだろうか? )しかし、曲が好きなわけではない。
言えば、アヴァンギャルド過ぎる、リズム殺しの不定形な拍、単にうるさい、歌詞がストレート過ぎて自分が惨めになる、伴奏がバンドでしかもうるさい方、あともともと怒る曲はあまり好きじゃない。リズム、楽器が好きではない。
それが落ち着いて、メリハリよくなったのが『ギラギラ』だと思っている。
今日めちゃくちゃ長いと思う。だがまだ続く。でも補記になるので飛ばしてもいい。
自分はあえて、陰キャという言葉は使わなかった。高校に入って、この言葉を恐ろしい数聞いた。なのでたぶんそれに該当するであろう自分に蔑称を使うのは避けた。しかし、この言葉は本当にこどもたちの愚かさを象徴するものだっただろう。
魯迅が覚醒した理由が、日本人が、日本にスパイ行為をしている中国人を処刑しているのを同じ同胞の中国人が面白げに見ていた、という姿を目撃したからであった。(別に一般の中国人を侮蔑する意図はない)
これと同様なことを見てきた。また、別の話を出そう。今から、70年程前の日本のメディアはよく、例えば永田町のような、自分たちが知りもしない世界で、そこで過ごす人々が好き勝手に悪事を働いているであろう場所を特殊部落のようであると称した。永田町でも、霞が関でも、国会でも、任侠の町でもそう呼称されただろう。この特殊部落というのは、一般にえた、ひにんと呼称された人々の住む集落の事だ。それを別の悪そうな空間への形容詞として用いた。これは私達のような当時を知らない人々が見れば、まごうことなき差別である。では「陰キャ」の語を用いるのことはどういうことだとすればおのずから。
あるときテレビがこの語を用いたときもそのような悪意があった。「陰キャ」の字体は紫でもやもやした枠によって書かれていた。
とてもこの語を耳にするたび同胞として恥ずかしい。
敬体と常体の区別どうしましょう? ですます、とだ、である、の。
曲紹介しましょうか。うっせえやつにします。
電気グルーヴの『volcanic drumbeat』
です。歌詞入れると惨めになるから、意味のない、もしくは直接には意味が理解できない発語のこの曲が好きです。
うるさいノリなんですが、常にうるさ過ぎもしないし、イントロのテンポが良かったりして、うるさくて早い曲ですが、どっかに自分を連れ去ることができるので例外的に好きなうるさい曲です。同様な理由で、
平沢進の『big brother』
も好きです。あ、僕は『1984年』の原作読んだ勢です。日本語訳のですが。
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