032 乙女かっ

 いつもの月曜の朝だった。出社した俺は、水原さんといつものやり取りをして、いつものごとく、仕事に埋没していった。水原さんはあれからは特に、空飛ぶ犬のことに言及しなかった。でも、なんとなく、あれ以来、俺は水原さんと話すときに身構えるようになってしまった。

 昼休み、俺は近くのコンビニで買ったおにぎりを食べながら、報告書のファイルを開いた。クシーはほぼ毎日、日記を残していた。他人の日記を読むのは気が引けるが、クシーの置かれた状況と、今後の俺やまひるたちのことを考えると、やはり読まないわけにはいかないだろう。

 はっきりと記載はされていなかったが、おそらくクシーがいたのはアメリカのどこかの施設だろう。これだけ世界中に魔法少女がいて、魔法少女を卒業(?)した元魔法少女も相当数いるのだから、元魔法少女で構成された機関や団体があってもおかしくはない。もちろん表向きは分からないようになっているのだろうが。

 そして、クシーの日記に出てくるBBは、あの『柳安荘』のBBだろう。これは昨日ひみかから聞いたのだが、BBは魔法少女をバックアップする存在の総称で、各国に一名から数名のBBが常駐しているそうだ。なので、アメリカにはアメリカのBBがいる。本来BBには固有の名前がついているが、なぜか日本のBBはBBと呼ばれることを望んでいるようだ。理由は不明だそうだ。今度聞いてみよう。

 クシーの日記によると、クシーはBBから少しずつ自分のことを教わっていった。

 クルーナーと戦うために、魔法少女という存在がいること。その魔法少女の身代わりとして、アバターがいること。クシーはそのアバターを基に人工的に作られた生命体であること。

 クシーは、BBからそれらの事実を聞かされたということを、ただ淡々と記していた。あいかわらずクシーの記述は、ほとんどが起こった出来事をそのまま描写しているだけで、彼女がどう思ったのか、どう感じたのかについては、ほとんど書かれていなかった。それはアーネストも顔負けの徹底したハードボイルド文体だと言えた。 

 自分の正体を聞かされても、クシーに動じた様子はうかがえなかった。どちらかというと、自分がそのような存在だったということに、安堵のようなものを感じている気が、俺にはした。ただ、これはあくまでも、俺が行間からなんとなく感じたことに過ぎない。クシーが実のところどう思っていたのか、どう感じていたのかは分からなかった。

 やがて昼休みが終わり、就業時間が終わり、さらに残業が終わり、九時を少し過ぎたころ、俺は会社を出た。

 最寄り駅は二階が改札口になっていて、その前に小さな広場が設けられている。俺はひとりで考え事をしたいとき、よくそこのベンチで、缶ビールを飲みながら、ぼーっと街並みを眺めていた。その日も、コンビニでひみかおすすめの軽井沢産クラフトビールを買って、ベンチに座って、飲み始めた。ひみかと店で飲んだビールに近い、爽やかな香りが一日の疲れを溶かしていく。そういえば、ひみかはこれにガリガリ君を割って入れたらおいしいって言ってたな。さすがにそれは試してないけど。

 時折、少し湿り気を帯びた六月の風が広場を通り抜けていった。俺はスマートフォンを取り出して、クシーの報告書の続きを読み始めた。缶ビールが空になった頃、ひみかからショートメールが届いた。

『今、大丈夫?』

『大丈夫』と、俺は返した。

 すぐさまひみかから電話がかかってきた。

「読んだ?」とひみか。

「ああ。だいたいは」

「それで」ひみかはいったん言葉を切った。「どう思った?」

「正直って、よく分からない」

「うん。だよね」

「俺が読めたのはクシーの日記のところだけだったんだけど、ほかの部分は何て書いてあったんだ?」

「私も専門家じゃないから詳しいことは分からないけど。研究成果と言う意味では、彼女のケースは間違いなく成功している」

「彼女のケース?」

「クシーは十四番目という意味よ。つまり、これまで十三体の試験体がアバターの移植に失敗している」

 俺はゆっくりと息を吐いた。「やっぱり、このことはまひるたちには伝えないほうがいいんじゃないか」

「そうね。今のところその方針で行きましょう」

「そういえば、今日、クシーは初めて学校に行ったんだよな。まひると一緒に。なんか聞いてない? あかねを通じて」

「いいえ。あの子とはほとんど連絡取ってないから」

「そうか」

「気になるなら、自分でまひるちゃんに連絡すればいいじゃない」

「いや、そうなんだけど。なんか緊張しちゃってさ」

「は? 乙女かっ」

「その突込み」俺は笑った。「やっぱり親子だな」

「ええ、まあ、親子ですから」

「でも、そうだな。連絡してみるよ。今日はもう遅いから、明日にでも」

「そうしてあげて。あと、近々またみんなで会ったほうがいいと思うの」

「分かった。それも含めて話をしてみる」

 俺たちは通話を終えて、俺はベンチから立ち上がり、家に向かった。

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