004 省エネモードですね

「じゃあ、そろそろ行きましょう」

 名残惜しそうに、俺の頭から手を離し、まひるは立ち上がった。

 そのまますたすたと歩き出すまひるを、俺は追いかける。

 どうやら彼女は、駅の方へ向かっているみたいだ。

 それにしても、このちっちゃい手足でちょこまかと歩くのは、結構骨が折れる。

 と思っているうちに、まひるとの距離はどんどん広がっていく。

 おい、ちょっと待て、とまひるに小声で語りかける。

 まひるはそれには反応せず、あいかわらずすたすたと歩き続けている。

 さっきは通信できたのに、どういうことだ。

 ともかく、今は離れた場所での意思の疎通はできないということか。

 周囲に人はいなかったが、さすがにこの姿で大声を出すのははばかれる。

 と、まひるが立ち止まった。

 俺が追いつくまで待ってくれるようだ。

「どこまで行くんだ」

 まひるの足元まで来てから、俺は尋ねた。

「とりあえず、駅までです」

「もしかして、電車に乗るのか」

「はい。ここから二駅のところです」

 いや、ちょっと待てよ。

「あのさ、俺たち、さっきみたいに飛んで行けるんだろ」

「戦闘モード以外は、なるべく魔法は使っちゃダメって言われているんです」

「戦闘モード」

「はい。魔力を温存するためです」

「ちなみに、今は何モードなんだ」

「省エネモードですね」

 省エネ……。なんか世知辛いな。

「あ」俺は視界の左隅に省という字を丸で囲った小さな表示を見つけた。「ほんとだ、書いてある」

 なるほど、それで、通信ができなくなっているわけか。

 仕方ない。俺たちはまた歩き始めた。

 しばらくすると、またまひると俺との距離が広がっていった。

 ちっちゃい犬って大変だな。

 再びまひるは立ち止まり、俺が追いつくまで待っている。

 俺がまひるの足元までたどりつくと、まひるはすっとしゃがみこんだ。そして、俺をひょい、と持ち上げると、胸のあたりで抱きかかえ、歩き出した。

 いや、確かにこのほうが速いけれども。

 うーん。

 まひるに抱かれてもさすがに何も感じないが、これ、相手の年齢によってはかなりやばいな。胸がちょうど俺のすぐ目の前にあるんだが。いや、そもそも、このちっちゃい犬の姿って、もしかしてものすごくおいしいことができるのではないだろうか。

 と、俺がよからぬことに考えを巡らせているあいだも、まひるは無言で歩き続けている。

 俺はふと、彼女の顔を見上げた。

 顎のラインがまだ子供だ。

 しかし、なんとなく感じていたのだが、改めて至近距離からまじまじと見ると、この子、なかなか整った顔立ちをしている。今はショートカットでボーイッシュな感じだから、男の子に見えるときもあるが、将来はさぞ美人になるだろう。

 そうこうしているうちに、駅に着いた。

 まひるはコインロッカーからリュックサックを取り出した。どうやら事前に預けていたようだ。着ていた制服のブレザーを脱ぎ、代わりにリュックサックから出したパーカーを着てジッパーをきちんと上まで閉めた。そして、リュックサックの中に入るよう、俺をうながした。

「車両にペットを持ち込むときは、外から見えないように、ケースに入れないとだめだそうです」

 まひるはスマートフォンの画面を見ながら、言った。ペットを電車に乗せるときのルールを検索したのだろう。

 しょうがないな。俺は彼女のリュックサックの中に体をもぐり込ませた。リュックサックの中は、折りたたまれたブレザーと、小さなポーチがいくつか、ノートが一冊入っているだけで、スペースは十分だった。

 俺を入れたリュックサックを前抱えにして、まひるは電車に乗り込んだ。

 リュックサックの中は、スペースは十分なのだが、いかんせん、暗い。そして、息苦しい。俺は、少しだけ開いていたジッパーをこじ開けて、頭を少し出してみた。

 車両は空いていて、座っている人はまばらだった。まひるはドアのわきに立って、外を眺めている。どうやら俺の行動には気づいていないようだ。

「あらー」と、突然、俺の背後から声が聞こえた。「かわいいわねー」

 振り返ると、五十歳くらいの女性が、俺の顔を覗き込んできた。

 まひるも、俺が顔を出していることに気がついた。

「す、すみません」まひるはあわてて女性に謝り、小声で俺に付け加えた。「ダメじゃないですか、外に出ちゃ」

「まあまあ」女性は、リュックのジッパーを閉めようとしているまひるに言った。「お客さん、ほとんどいないし、いいんじゃない」

「は、はい……」

「賢そうなワンちゃん。お名前はなんていうの?」

「え」

 え。

「ええっと」まひるの目が泳いでいる。「なな、なまえ、は、ですね」

 おい。

「や、やや、や」

 おいおい。なんかものすごく挙動不審になってるぞ。

「や、山田雄作、でしゅ」

 本名言っちゃったよ。しかも噛んでるし。

「ぷっ」女性が噴き出した。「あはははは。すごく立派なお名前ね。ヤマダユウサクちゃん」

 笑いながら、女性は俺の頭をなでると、次の駅で降りて行った。ふん。気安く触らんでもらいたい。

 俺たちはさらにその次の駅で降りて、まひるはまたてくてくと歩き始めた。俺はまひるが胸の前で抱えているリュックの口からひょこっと頭だけを出して、外を眺めていた。

「あの、ご、ごめんなさい」駅前の人通りの多い道を歩きながら、まひるが小声で言った。

「ん?」俺はまひるを見上げた。

「さっき、お名前を。しかも呼び捨てに」

「ああ」俺はまた視線を戻した。「そんなの、気にしなくていい」

「わたし、知らない人と話すと、だめなんです。緊張しちゃって」

「俺も昔はそうだったな」道行く人たちを眺めながら、俺は言った。

「え、そうなんですか」

 まひるの歩みが遅くなった。

「ああ」

「あの、わたしも普通に話せるようになるんでしょうか」

「さっき、俺と初めて会ったとき、普通に話せてたじゃないか」

「あれは……」まひるは言いよどんだ。「あのときは、切羽詰まっていましたから。あ、着きました」

 目の前にあるのは、何の変哲もない雑居ビルだった。

「二階です」

 二階の窓には、大きな赤い字で『雀荘』と書いてある。

「ほんとにここ?」

 俺がリュックサックの中からまひるを振り返ると、彼女はうなずき、ビルに入っていった。奥のエレベーターから二階に上がる。エレベーターを降りると目の前に木製の古いドアがあった。脇に置かれた小さなスタンド看板には、毛筆の書体で『柳安荘』と書かれている。まひるは、ドアを開け、中に入った。

 そこは、雀卓が六つ置かれている普通の雀荘だった。卓の三つが埋まっている。まひるはすたすたと部屋を横切っていく。俺がよく通っていた大学生の頃と違って、タバコの臭いがしない。受付の机には、七十歳くらいに見える女性が座ってスポーツ新聞を読んでいる。すぐ前を通り過ぎる俺たちに気づいていないのか、顔を上げる気配すらない。

 入口の反対側にあるドアを、まひるは開けた。細い廊下の片側と突き当りにドアがある。突き当りまで進み、中に入った。

 特に何の特徴もない、応接室といった感じの部屋だった。ローテーブルに向かい合わせの長椅子が置かれている。壁にはキャビネットと本棚が並び、本棚の前に男が立っていた。大きい。二メートル近くある。黒ズボンに白いワイシャツ、黒いベストを着て、髪をオールバックにしている。手にしていた本をぱたん、と閉じると、俺たちを見て言った。

「ひーさん、おひさー」

 まひるがぺこりと頭を下げる。

 そして男は、まひるの胸に抱えられている俺に視線を向けた。

「待ってたわよ。新しいワンコさん」

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