(4)

「ええと……君は、一之宮春妃さん?」

 私を凝視したまま、彼が問うた。目つきそのものは、信じられないものでも見るかのようだけれど……体が小刻みに震えだして、瞳も潤み出している。

「……はい」

 どうして彼がそんな表情をしているのかは分からないけれど、彼は私のフルネームを知っていた。私よりも年上のようだし、新しく研究所に入った新人さんとかだろうか。

 目の前の彼が一歩踏み出した。彼の、その……ただならぬ雰囲気に押されて、私は反射的に半歩ほど後ずさってしまう。

「……やっと……」

 感極まったような声と表情でそう呟いた彼は、私の方へ手を伸ばした。そして、彼が手を伸ばしたという動作を私が認識して行動するより早く、彼の腕に囲い込まれる。

「春妃……」

 ぎゅうと腕に力を込めるのと同時に、吐息交じりの自分の名が耳に吹き込まれていく。予想だにしない展開に、頭の中が一瞬で真っ白になった。持っていた弁当入れが落ちていく音が、ずっと遠くから響いてくる。

「やっと、会えた」

 腕の力が少しだけ緩んだ。そっと顔を上げてみると、目尻に涙を溜めたまま笑っている彼の顔が映る。その顔が、夢の中での微笑みによく似ていて、心拍数が一気に跳ね上がった。そして、それと呼応するように顔が熱くなっていく。

「……あの、あなたは?」

 更に言葉を続けようとしていた彼には申し訳なかったけれど、私の心臓は限界だ。家族親族以外の男性に抱きしめられた事なんてないし、熱っぽい目で見られた事も名前を呼ばれた事もない。そもそも、現実世界では……初対面の筈、なのだけれど。

「どちらさま、ですか? 新しく研究所に来た人?」

 そう尋ねると、それまでは桜よりも濃い色に染まっていた彼の顔から、一気に色が失われた。そして、はっと息を飲み込んで目を伏せた彼は、一旦私を解放してくれる。

「あぁ……そうか。そうだったね」

 自嘲するような笑みを浮かべながら、彼がぼそりと呟いた。何がそうなのか、思い当る事が全くないので尋ねようとしたのだけれど。その前に、彼の自己紹介が始まった。

「初めまして、になるんだね。俺は相沢雪人。大学生だよ」

「大学生?」

「うん」

 そう返事をしながら、彼がしゃがみ込んだ。はい、と弁当入れを手渡される。ありがとうございますと言って受け取る間、ずっと彼は私から視線を外さなかった。

「あの、聞いても良いですか?」

「何をかな?」

「なぜ、ここにいらっしゃるんですか? 来年から研究員として働くから下見……とか、そういうのですか?」

 弁当入れを持ったまま、両手を体の前で合わせながら尋ねる。視界から彼を外さないようにして、彼の返事を待った。

「いや、俺は今度大学の四年生になるから、そういうのではないんだ」

「では、なぜ?」 

 探るように彼を見つめる。すると、自分が警戒されている事が分かったのか、彼の表情が申し訳なさそうなものになった。

「僕の両親が以前ここで働いていたと言う話を聞いてね。それで、近くまで来る予定があったからちょっと見てみようと思って」

「……それで、ここまで辿り着けたんですか?」

「ここに桜の木がある事も聞いていたんだよ。所長一家と一緒に、部屋で花見をしていた事もね」

「……そう、ですか。それなら、不躾な質問でした。申し訳ありません」

 どうもそれだけではないような気がする。それだけならば、初対面の筈の私を抱き締めたりはしないと思う。けれど、私にはそれを問い正すだけの話術と勇気はなかった。

「いや、初対面の人間にはこれくらいでいいんだよ。春妃は可愛いから、話す前から相手を信用するような危ない真似はしない方が良い」

「はい……えっ!?」

 今、彼は何と言ったか。さらっと当たり前のように言っていたからそのまま受け止めそうになったが、何か凄い事を言っていなかったか?

「い……今、私が可愛いって……嘘でしょう?」

「嘘なもんか。何で驚くの。俺は事実を言ったまでだよ」

「……はいっ!?」

 かっと体が熱くなって、血が一気に沸騰したかのようになった。落ち着きつつあった鼓動が、再び勢いを増してくる。

「春妃はちゃんと自覚した方が良いね」

「な、何をですか?」

「自分の可愛らしさを」

「ひえっ……!!」

 私はまだ夢の中にいたのだろうか。起きたら、また自室の天井が見えるのだろうか。そう思って何度も目を閉じたり開いたりするのだけれども……目に入るのは毎回、彼の顔と彼が背にしている桜の木だ。

「どうしたの、そんなに目をぱちぱちとさせて」

「……誰のせいだと思っているんですか!!」

 とても現実とは思えない科白を、夢の中の住人だった貴方が、焦がれて止まなかった貴方が言ったから、こんなに戸惑っているのに!

 そう思って、彼を半泣きで怒鳴りつけた。すると、彼は心外だとでも言うように眉根を寄せる。

「遠目から見たんでも分かるくらい、春妃は可愛い女の子だよ。さっきもね、春妃があんまりにも可愛いから思わず見惚れてしまったんだ。それで、目が離せなかったんだよ」

 彼は憎らしいくらいの爽やかな笑顔で、恥ずかしさで卒倒しそうな言葉を告げる。

「やっぱり、そうだ」

 そう言って、彼が私の両手を握った。ああ、私の顔はきっと耳まで真っ赤になっている事だろう。

「こんなに可愛い女の子……初めて会った」

 私の手を包みこんでいる彼の手に、ぎゅっと力が籠もる。そして、彼の顔が私の方に近寄ってきて、耳元で囁かれた。

「春妃、俺は春妃に一目惚れしちゃったみたいだ。だから、そうだな……まずは、俺と友達になってくれないかい?」


 夢の中の焦がれ人は、想像以上に刺激的な人だった。

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