(3)

「そういえば、三月に入ったって事は桜の蕾も付いた頃かな?」

 ぴりぴりと痛いくらいの寒さになる時もあるからあまりそんな感じがしないけれど、暦の上ではもう三月だ。枝に蕾が付いて、咲くために膨らみ始めていてもおかしくない。

「まだ時間はあるし……もう人通りも多くなってきたし……」

 きょろきょろと周囲を窺う。通りには、ランドセルを背負った小学生や指定鞄を肩にかけている中高生も増えてきた。車の往来も相変わらずだ。

「……行っちゃおう、かな」

 父さんの働く研究所は、私の通学路の延長線上から少しだけ外れた所にある。そして、その研究所の裏には一面を草に覆われた小高い丘があって、一本の大きな桜の木が生えていた。

 人通りは少ないけれど車の往来は多いので、小さい頃は一人で行ってはいけないと言われていた場所だ。でも、今はもう高校生だし、既に陽も上っていて視界は良好。そんな危険な事は無いだろうし、少し寄る位なら遅刻する事もないだろう。

 小さい頃から、私はその桜の丘が大好きだった。まだ母さんが生きていた頃、花が咲く時期になると家族三人で花見をしていた、思い出の場所だからだ。

 最も、二人とも忙しかったから桜は窓から眺めるだけで間近で見た事はないのだけれど。でも、あの場所自体には、葉が茂る頃に母さんに連れられて行った事があるし問題ない。

 てくてくとその丘へ向かって歩き出した。せめてもと思って、少しだけ遠回りをしてなるべく人が多い道を進んでいく。

 しばらく歩いて、ようやくお目当ての場所が見えてきた。でも、木まではまだ遠いので、茶色い幹や枝が見えるだけで蕾が付いているかまでは分からない。周囲と時計を確認して、そのまま歩を進めていった。

「……あれ、誰?」

 木に近付いていくと、その傍らに誰かが立っているのが見えた。並んでいる木と比較してみると、私より背の高い人らしい。

「んー、私が行ったら邪魔かなぁ」

 その人は、静かにたたずんでいた。シルエットから察するに、手を幹にあてて顔を上げているようだ。上の枝の様子を見ているのかもしれない。

 引き返そうか、どうしようか。立ち止まって思案していると視線を感じた。顔を上げて前を見ると、先ほどまで見えていた茶色っぽい頭部ではなく、白っぽい顔の辺りが見える。

 視線を向けられている、見られている。そう気付いた時、なぜか……このまま立ち去ってはいけない、彼の元に行かなければならない、そう思った。

 ほぼほぼ直感のようなもので、理由なんて分からない。でも、そう思ったら止まれなかった。知らない人には二度と付いていくな、近づかれる前に逃げろ。そんな父さんの言いつけは、一切合切頭の中から抜け落ちていた。

 導かれるように、がさがさと先へ進んでいく。木の傍の人の服装がはっきりと分かる位置まで近づいた。まだ寒いからなのか、かっちりとしたコートを着てマフラーを巻いている。コートもマフラーも同系色の色で統一されていて、すっきりとした印象の……青年のようだ。

 彼との距離が縮まれば縮まるほど、反比例するかのように鼓動の速度は大きくなっていった。このまま近づいていったら、私の心臓は音を立てて壊れてしまうのではないだろうか。そんな事を考えてしまうくらいに、私の胸は高鳴っていた。

 胸が高鳴る理由は分からないけど、臆する事なく進んでいく。目的の彼は、その場から一歩も動かなかった。私が来るのを待っているかのように、目を逸らさず、こちらを向いてじっとしている。

 とうとう彼の正面に来た。私より頭一つ分くらい大きい彼の顔を、大きく深呼吸した後で仰ぎ見る。

 彼とまともに視線がぶつかった。改めて彼の瞳を覗き込んだその瞬間、闇夜のような濃い瞳が大きく見開かれる。

「はる……ひ?」

 心地よい低音が耳に響いた。初対面の筈の彼は、はっきりと私の名前を口にする。

(……違う、初対面じゃない)

 茶色がかった、外に跳ねた短髪。夜空のように濃い色の瞳。すっきりとした目元に、きりっとした口元。何度も出逢って、何度も舞い散る白にかき消された、焦がれた人。


 夢の世界でしか会えなかったその人と、現実世界で出逢えた瞬間だった。

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